とある魔術の禁書目録9 鎌池和馬 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから○字下げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] とある魔術の禁書目録9  学園都市最人級行事「|大覇星祭《だいはせいさい》」。  それは、超能力開発機関である学園都市に存在する全ての学校が合同で体育祭を行う、という超大規模イベントだ。  その行事には、もちろん|上条当麻《かみじようとうま》も参加する。しかし彼の�不幸�は健在で、空腹のインデックスには噛みつかれ、大覇星祭運営委員の|吹寄制理《ふきよせせいり》には糾弾され、|御坂美琴《みさかみこと》には競技中にビリビリを喰らわされ……!?  そんな中、謎の|霊装《れいそう》『|刺突杭剣《スタブソード》』を巡り、とある魔術師が学園都市に侵人した。  オリアナ=トムソン。魔術業界屈指の「運び屋」で、『|追跡封じ《ルートデイスタープ》』と称される彼女の目的とは……!  科学と魔術が交差するとき、上条当麻の物語は始まる——! [#改ページ] 鎌池和馬 そう言えば、デビューしてからずっと四月には本を出さぜていただいているような気がします。このシリーズも、もう三度目の春を迎えている訳なのですね。 ……作中の時間経過は相変わらずな感じですが。 。 イラスト:|灰村《はいむら》キヨタカ 1973年生まれ。最近は「なんちゃって絵描き」らしく、コーヒー屋さんで毎日の様にアイデアを捻出する日々。 店員さんが近くに来ると、慌てて絵を隠すヘタレぶりです。 [#改ページ]   とある魔術の禁書目録9 [#改ページ]    c o n t e n t s      序 章 第三者から見た準備時間 Parent's_View_Point.    第一章 炎天下の中での開始合図 Commence_Hostilities.    第ニ章 魔術師と能力者の競技場 �Stab_Sword.�    第三章 追う者と逃げる者の戦略 Worst_Counter.    第四章 戦いの結末は勝利か否か Being_Unsettled. [#改ページ]    序 章 第三者から見た準備時間 Parent's_View_Point.  |大覇星祭《だいはせいさい》。  九月一九日から二五日の七日間にわたって学園都市で催される行事で、簡単に言えば大規模な運動会だ。その内容は、街に存在する|全《すべ》ての学校が合同で体育祭を行う、というものなのだが、何しろここは東京西部を占める超能力開発機関で、総人口二三〇万人弱、その内の八割が学生だというのだから、行事のスケールは|半端《はんぱ》てはない。  今日は開催日の一九日。  平日の早朝であるにも|拘《かか》わらず、すでに街の中は大覇星祭参加者の父兄|達《たち》で|溢《あふ》れ返っている。学園都市の統括理事会が外部見学者対策の一環として「般車の乗り入れを禁止していなければ、街中で無意味な渋滞が何十キロと伸びていた事だろう。こういう時は歩いた方が早いし、対応策として、学園都市では列車や地下鉄などの臨時便を増やすと共に、無人で走る自律バスなども用意している。あまりの過密ダイヤに運転手の数が足りないというのだから|驚《おどろ》きだ。  どこもかしこもラッシュアワーの駅のホームのような有様だが、それほど大覇星祭という一大イベントの人気は高い。  年に数回だけ学園都市が一般公開される特別な日であり、しかも内容といえば映画に出てくるような超能力を扱う者同士がしのぎを削り合うというもの。競技種目がごく普通の体育祭とはいえ、『テレビなんかじゃ有名だけど、実際に見た事はない』という身近な不思議『超能力』に触れられるというのは、学園都市の外の人間からすれば相当の刺激と|魅力《みりよく》を誇るようだ。  と。  そんな近未来な街を、二入組の男女が歩いていた。 「おおっ、母さん母さん。やはり何度来ても圧倒されるなあ、学園都市っていうのは。子供の|頃《ころ》にクレヨンで描いた世界がそのまま広がっているような気がするよ。これでチューブの中を走る列車とか、空飛ぶスケボーなんかがあると|完壁《かんぺき》なんだが……」  そう言ったのは|上条刀夜《かみじようとうや》。とある少年の父親である。地味なスラックスに、|袖《そで》を肩まで|捲《まく》り上げたワイシャツ。贈り物らしき実用性に欠けるセンスのネクタイは|緩《ゆる》めてあり、|履《は》き|潰《つぶ》した革靴の底がペタンペタンと情けない音を立てている。  その刀夜に対して、 「あらあら。私の思い描く近未来にはまだ届いていない気がするのだけど。だって巨大宇宙|戦艦《せんかん》や人型兵器が連合とか帝国とかに分かれて戦ったり赤や青のカラフルなビームが飛んだり宇宙空聞なのにピキュンピキュン音が鳴ったりしないでしょう? あと蛍光灯みたいなサーベルも見てみたいのに」  答えたのは、|上条詩菜《かみじようしいな》。とある少年の母親である。|刀夜《とうや》に比べて二回りぐらい若く見え、服装も並んで歩くには違和感を覚えさせる。絹か何か、|薄《うす》く|滑《なめ》らかな生地で|繊細《せんさい》に作られた、足首まである長いワンピース。その上からゆるりと羽織ったカーディガン。弁当でも入っているのか、腕には|籐《とう》のバスケットの取っ手を通してある。頭に載った|鍔広《つばひろ》の帽子もあいまって、やたら上流階級な|匂《にお》いを漂わせている。  二人は夫婦というより、貴族の|令嬢《れいじよう》と雇われの運転手のように見えた。彼らは現在、自分|達《たち》の息子も参加する開会式の会場へと、のんびり足を運んでいる。 「母さん、それが「近」未来と呼ばれるのはまだまだずっと先の時代だろう。高熱源ブレードぐらいならこの街にはありそうだが……まあ、|物騒《ぷつそう》な話はやめにしよう。こういう。|雰囲気《ふんいき》は良いものだ。|壊《こわ》すのは|無粋《ぶすい》というものだろう」  空を見上げれば、ポンポンと白い煙だけの花火が上がっている。所々に飛んでいるヘリコプターはマスコミのものか。|大覇星祭《だいはせいさい》は一般にも開放され、テレビ局の中継も許可されている。競技場には解説席が設けられ、街のあちこちには野外スタジオが臨時で建てられている。その視聴率はワールドカップに匹敵するほどなのだから、彼らも必。死なのだろう、と企業人の刀夜は適当に考えた。  その時、そんな夫婦の前を、何者かが横切った。  ドラム缶のような自律警備ロボットの上に、メイド服を着た少女がちょこんと座っている。彼女は野球場の売り子のように、お|腹《なか》の所で支えたトレイを、首の後ろに回した|紐《ひも》で固定しながら、 「あー、あー。メイド弁当、学園都市名物メイド弁当はいらんかねー。|繚乱《りようらん》家政女学校のメイド弁当、より正確にはメイド見習い弁当はいらんかねー」  あまりの売り文句に|唖然《あぜん》としている二人の前で、メイドを乗せた自律警備ロボットはスーッと音もなく右から左へ走り去っていく。しかもメイド弁当と|謳《うた》っている割には、中身は純和風の弁当を|揃《そろ》えてあるように見えた。  詩菜は、あらあら、とほっぺたに片手を当てて、 「……学園都市って色々な学校があるのねぇ」  刀夜も歩きながら、消えていくメイド(より正確には見習い)少女に目をやり、 「まあ世界中のあらゆる教育機関を|凝縮《ぎようしゆく》させたような場所だからね。世界各国の家政学科の技術知識だってあるんだろうさ。しかしメイドが街を歩いていても違和感のない風景ってのも恐ろしいものだな———っと、うわっ!?」  集中を欠いていた刀夜は、うっかり|誰《だれ》かと激突した。 「きゃっ! って、すみませんぶつかっちゃって」  告げたのは、見た目大学生ぐらいの女性だった。淡い灰色のワイシャツに、薄い生地でできた|漆黒《しつこく》の細長いパンツ。デザインはシンプルだが、一目で高級ブランドの|匂《にお》いを感じさせる一品で、この格好なら社長案の|椅子《いす》に座っていてもおかしくない印象すらある。が、衣服に反して中身に堅い|雰囲気《ふんいき》はなく、むしろ不良少女が無理矢理着ているような印象があ。った。いつもだらけたスーツのまま社運をかけた取り引きに向かう|刀夜《とうや》とは対照的な女性だ。  刀夜とぶつかった彼女は、友好的な笑みを浮かべると、 「いや、これだけ広いと迷ってしまいますよね。あー、失礼ですけど、|常盤台《ときわだい》中学ってどの辺にあるかご存知ですか?」 「はあ。……あ、ちょっと待ってください」  刀夜はゴソゴソとパンフレットを取り出す。学園都市は広大で参加する学校の数も|半端《はんぱ》ではないため、ちょっとした海外旅行用のガイドブックのような厚みがある。彼は地図で探すのを|諦《あきら》め、巻末の地名リストを目で追い駆け、 「とき、とき……ないなぁ。常盤台中学というのは、名前がリストに載っていませんね。正式なパンフレットに紹介文が全くないという事は、もしかして一般開放されていないのでは?」 「うわっ! ホントですか。じゃあ|美琴《みこと》のヤツはどこにいるのよーっ! せっかく大学に休学届け出してここまで来たっていうのに!」  みこと、というのは妹の名前だろうか? と刀夜はガイドブックを読みながら適当に考えていたが、不意に女性がズズイと接近してきた。刀夜に肩をぶつけるように、彼の広げているぺージを|覗《のぞ》き込む。 「と、と、と、とき、とき、とき———うわっ! ホントにないよギャーどうしよう!!」  特に待ち合わせ場所を決めていなかったのか(開会式前では、携帯電話も電源を切ってある可能性が高いだろう)女性は切羽詰まった叫びを上げる。無防備な彼女のほっぺたが、刀夜の|無精《ぶしよう》ヒゲの生えた|頬《ほお》とぶつかりそうになった。女性の柔らかい髪の毛がわずかに刀夜の耳をくすぐる。その柔らかい髪から、ほのかに甘い匂いがした。  刀夜が慌てて顔を|逸《そ》らすと、 「あらあら、刀夜さん。また[#「また」に傍点]ですか?」 「か、母さん? ま、またとは何かな?」  刀夜は慎重に聞き返すと、|詩莱《しいな》は片手を頬に当てて、心の底から|哀《かな》しそうなため息をついた。しかもその顔からやたら陰影が強調され始めているような気がする。 「もう、刀夜さんったら。道端で女性とぶつかってお知り合いになり、その後の無自覚な言動で良い雰囲気になるだなんて。これで何度目かしら。数える方が|馬鹿《ばか》らしいのかしら。あらあら、あらいやだ。そんなに私を怒らせて、刀夜さんったらマゾなのかしら?」  詩菜の顔は干円札や五千円札に描かれた肖像画もびっくりの迫力を見せているが、刀夜の|隣《となり》にいる女性は詩菜の変化など全く気づかずに彼の腕をぐいぐい引っ張りながら『ねえ、運営委員のテントとかってどこにあるか分かります? ねえねえ』などと言っている。刀夜としては、 『母さんこわーっ! だ、だけど、だけど母さんの軽い|嫉妬《しつと》もちょっと|可愛《かわい》らしいしここはどう動くべきか!?』と、現状を打破すべきか享受すべきか悩んでいた所で、 「あら。あれは|当麻《とうま》さんじゃありません?」  |詩菜《しいな》の興味がよそに|逸《そ》れた事を知り、|刀夜《とうや》は|密《ひそ》かに脱力する。『た、助かった。でも私は何でちょっとガッカリしているんだろう?』と心の中で首をひねりつつ、刀夜は詩菜の視線を目で追いかける。|隣《となり》の女性はまだパンフレットを見ながら刀夜の腕を引っ張っていたが。  視線の先には人混みがある。それを作っている大部分は、やはり体操服を着た学生|達《たち》だ。一口に体操服と言っても学校によって様々な違いがあるようだが、彼らは皆、赤か白のハチマキを頭に巻いていた。  そんな人混みの向こうに、見知った|我《わ》が子の黒いツンツン頭が見える。彼は|大覇星祭《だいはせいさい》の参加者であるため、当然ながら|半袖《はんそで》短パンの体操服だ。その隣には、彼とは違ってランニングに短パンの、本格的な陸上競技用ユニフォームを着た女の子がいた、ふと刀夜が広げているパンフレットから顔を上げた女性が、肩まである茶色い髪の少女を指差し、『あっ。あれがウチのミコトです。良かった良かった。大学が忙しくてろくに集合場所とか話し合ってなかったから』とか説明を始めていた。  間に|雑踏《ざつとう》を挟んでいるため、向こう側にいる子供達は親の姿に気づいていないようだ。  しかし、相当の大声で話し合っているらしく、言葉だけは鮮明に届いてくる。 「ねえねえ、結局アンタって赤組と白組のどっちなの?」 「あん? 赤だけど。なに、もしかして|御坂《みさか》も赤組か」 「そ、そうよ」 「おおっ、そっかー赤組か。ならお互い頑張らないとなー」 「じゃあ、あ、赤組のメンバーで合同の競技とかあったら———」 「なんつってな! 実は白組でしたーっ!!」 「……ッ!?」 「見ろこの純白のハチマキを!貴様ら|怨敵《おんてを》を一人残さず|葬《ほうむ》ってやるという覚悟の|証《あかし》ですよ巨っつか|共闘《ほようとう》なんてありえないね。チューガクセーだろうがコーコーセーだろうが知った事か! ボッコボコに点を奪ってやるから覚悟せよ!!」 「こ、この野郎巨 ふん、人を年下だと思って軽く見やがって。白組の|雑魚《ざこ》どもなんか軽く吹っ飛ばしてやるんだから!!」 「吹っ飛びまーせーんーっ! っつか、もしお前に負けるような事があったら罰ゲーム喰らっても良いし! 何でも言う事聞いてやるよ!」 「い、言ったわね。ようし乗った。……何でも、ね。ようし」 「まーァあ|常盤台《ときわだい》中学のお姉様ったら! どうせ勝てもしないくせに希望ばかりは大きいです事! その代わり、お前も負けたらちゃんと罰ゲームだからな」 「なっ。そ、それって、つまり、な、何でも言う事を……」 「あらー? 揺らいじゃうかな|御坂《みさか》さーん? オネーサマがたった今ここで放った大口にはそれぐらいの自信しかなかったのかなーん?」 「……良いわよ。やってやろうじゃない。後で泣き見るんじゃないわよアンタ!」 「そっかそっか。その|台詞《せりふ》が出てきた時点ですでに負け犬祭りが始まってますなぁ!!」  何だとビリビリィ!! と|雷撃《らいげき》混じりでぎゃあぎゃあと|騒《さわ》ぐ二人組を、父兄|達《たち》は固まったまま見送る。どうやら彼らの思い描く子供の理想像とは少しギャップがあったらしい。  |上条詩菜《かみじようしいな》はほっぺたに片手を当てて、 「あらあら。……言葉を巧みに操り、|年端《ヒしほ》もいかない女の子にあんな|無茶《むちや》な要求を通させてしまうとは、一体どこのどなたに似てしまったのかしら。あらいやだ、母さん学生時代を思い出しちゃいそう」  上条|刀夜《とうや》はズドーン、とショックを受けた顔で、 「そ、そんな。女子中学生に対して勝ったら罰ゲームで何でも言う事を聞かせるだなんて、一体どんなご命令を飛ばす気なんだ|当麻《とうま》ーっ!!」  彼の|隣《となり》にいた女性は、『こいつらの|影響《えいきよう》なのか。ま、後でミコトには話を聞くとして。若いっていうか青いわねー……』という顔でため息をつくと、片手をおでこに当てた。  そんなこんなで、七日間にわたる学園都市総合体育祭『|大覇星祭《だいはせいさい》』が始まる。 [#改ページ]    第一章 炎天下の中での開始合図 Commence_Hostilities.      1  ロンドン、|聖《セント》ジョージ大聖堂。  教会と呼ぶには少々広いが、大聖堂とまで呼ぶにはやや手狭な、ある意味で非常に目立たない建造物の中に、イギリス清教の実質的なトップ、|最大主教《アークビシヨツプ》ローラロスチュアートは悠然と|佇《たたず》んでいた。  日本時間では午前九時を回る所だが、世界標準時間であ。る英国の時計はようやく午前〇時を指した所だ。一国の首都であるにも|拘《かか》わらず周囲は|荘厳《そうごん》と表現できる静けさに包まれ、柔らかい|闇《やみ》は涼やかな夜気と共に、 一日の終わりの幕を引いている。  ロウソクを吹き消された大聖堂には、彼女の|他《ほか》に|誰《だれ》もいない。  ローラは説教|壇《だん》の手前に|椅子《いす》を一つ置き、そこに腰を掛けていた。身に着けているのは純自を基調とした修道服だが、他にも、黒、赤、緑、紫、金糸、銀糸など、公式衣装として認められた|全《すべ》ての色彩を用いて様々なコントラストを描いている。さらにその上に高位聖職者用の飾り布をゴテゴテと取り付けていた。いわゆる|余所《よそ》行きの正装である。  大体どこの文化圏でも同じ事が言えるのだが、十字教の社会にとっても、衣服は身分や立場を表明するアイテムだ。そう説明するとお堅く聞こえるかもしれないが、ようはコックの帽子の高さや、学校の制服などと同じ理屈で考えれば良い。  ごく一般のシスターとは異なり、ローラのように様々な公の場に出席する人間は、季節・時間・場所・|儀式《ぎしき》・立場・意志などに合わせて、無数の修道服を用意しなければならない。中には相手を立てるために|敢《あ》えて位の低い衣装で客を迎えたり、怒りを表すためにわざと相手より位の高い装束で会議に出向いたりする場合もあり、この辺りの作法は色々と複雑で面倒臭い。 (主の前において人々は皆平等な兄弟である……か。良く言いけるものよね)  立場や位、という言葉に、|最大主教《アークビシヨツプ》は思わず鼻で笑ってしまう。  が、その程度の作法などは、ローラにとっては|些事《さじ》に過ぎない。彼女の|華麗《かれい》な容姿は、たかが布切れ程度で|霞《かす》んでしまうようなものではない。  彼女の最大の特徴は、身長の二・五倍を誇る長い金髪だ。|普段《ふだん》は銀の髪留めで結わいているが、今はそうしていない。だらりと下がった|膨大《ぽうだい》な髪は、肩の上から前へ通すように流されている。まとめきれない部分は、床へそのまま広がっていた。  椅子に座ったローラの|膝上《ひざうえ》には、金や銀の|櫛《くし》が並べてある。  歯の長さや太さ、間隔などがそれぞれ異なる|櫛《くし》から、彼女は一本を選ぶ。まるで自分の長い髪をハープの弦にでも見立てるように、一房一房|丁寧《ていねい》に櫛を通していく。身長以上の長さを誇る彼女の髪は、当然ながら手を伸ばしただけでは毛先まで届かない。従って、ゆるりとした動きでローラの髪は|手繰《たぐ》り寄せられ、櫛で|慌《す》いてはまた床へと戻される。それは黄金の髪で衷現された、寄せては引いていく波打ち|際《きわ》の光景だ。  |全《すべ》ての髪に櫛を通し終えれば、別の櫛を、それが終わればまた別の櫛を、と延々と行為は繰り返される。重ねて櫛を通す順番にすら重要な意味があるかのように。  その長い髪に当たるのは、ステンドグラス越しの月明かりと、  説教壇に置かれた液晶モニタの光だけだ[#「説教壇に置かれた液晶モニタの光だけだ」に傍点]。  モニタと通信設備はロンドンにある、学園都市協力派の機関とやらを呼んで臨時で取り付けさせた。本来ならステイルの仕事なのだが、彼は今、英国にいない。|神裂火織《かんざきかおり》なども携帯電話ぐらいは扱えるが、この手の最新鋭機器の接続となると、正座でマニュアルと|睨《にら》めっこしたまま動きを止め、最後には捨てられた子犬の目でこちらを見返してくる羽目になるのだ。 『それは何をしているつもりなのだ?』  モニタから|耳障《みみざわ》りな声が聞こえてくる。男か女か、子供か大人か、聖人か囚人かも分からない声。ローラはそちらを見ない。どうせ、映っているのは逆さに浮かんだあの『人間』だ。  学園都市統括理事長『人間』アレイスター。  ローラは、|膨大《ぽうだい》な髪を肩から横に垂らしたまま、静かに告げる。 「分からぬの? 髪を整えたる所よ。婦人の身の手入れは、本来殿方には見せぬものなのだけどね」彼女はくすくすと笑い、コニ世紀英国の貴婦人|達《たち》の間では、|陽《ひ》や月の明かりを浴びせ髪を焼きたる事で、その色を整え最良の金髪『陽光の髪』を作りし事が最大の美徳とされていたのよ。|無粋《ぶすい》なる染料などを用いたるより、よほど|風情《ふぜい》がありけるでしよう?」  ローラは得意げに答えたが、対してモニタからの返事がない。  ? と彼女は液晶画面を見ず、しかし首を|傾《かし》げ、 「何ぞ。人が問いに答えたるというにその|沈黙《ちんもく》は」  |誹《いぶか》しげに言葉を放つが、それでもモニタは言葉を返さない。  いよいよ不審に思えてきた所で、ようやく機械の塊が口を開いた。 『いや……これは前々から言おうと思っていたのだが』 「うむ?」 『君の日本語ははっきり言って変だ。それとも我々を|小馬鹿《こばか》にしているのか。どちらなんだ』 ビシリ、とローラの動きが凍りついた。  |荘厳《そうらん》な髪の中を流れていた櫛が、ブルブルと|震《ふる》えて、 「な、ななな何を言うておるのやら分からぬわね! 主の威光を信じぬ者になど礼を尽くしたる義理もなし、貴様達にかける言葉遣いなど粗雑で十分につきなのよ!!」 『そうか……。いや、その独自性|浴《あふ》れる口調に君なりの意図があったのならばそれで良い。ただ真剣に悩んでいるようならば日本語の講師をつけてやっても良いと思っただけだ。私は学問の街を治める身なのでな』 「ううっ! 悩んでなどおらずなのよ! |何故《なにゆえ》にこの私が極東の一国家でしか使えぬ不便なりし言語のために頭を働かさねばなら戯というの!?」  ザシザシ!! と高速で髪に|櫛《くし》を通しながらローラは大声を鵬す。モニタからは返事がなく、無人の大聖堂にはしばらく髪を整える音だけが|響《ひび》いていた。  ややあって、話題を変えるように、 『しかし、客人の前で髪を|杭《と》かすのはどうなんだ。それは本来、話し合いの場に立つ前に済ませておくべき事だろう』  髪の話題が好きなのか、単に話題が|逸《そ》れてホッとしているのか、ローラの口調や態度が少しずつ落ち着きを取り戻していく。 「時間も時間につき、ね。本来なれば夜も更けたる|此《こ》の時間は、婦人は寝室にて身を整えたる刻限ですもの。髪を磨きし程度は目を|瞑《つぶ》りていただきたいわ」 『ふむ、その成果が先程君が言っていた「陽光の髪」か。月光の方は迷信だろうが、太陽の方は紫外線による脱色効果だな。大方、書物の|傷《いた》み具合などからヒントを得たのだろうが、一つだけ忠告させてもらおう。……ハゲるぞ』 「……、本当に。外交問題に発展したるほどに|無粋《ぷすい》なる|台詞《せりふ》よね、それ」  ローラは視線を転じる。|絨毯《じゆうたん》のように床に垂らされた髪は、液晶モニタの光をキラキラと反射させていた。|丁寧《ていねい》に櫛を通して金と銀の輝きを得た髪に、赤や青などの|極彩色《ごくさいしき》が入り混じっている。  無粋な、と彼女はもう一度、口の中で|眩《つぶや》いた。 「して、かような時間に、私がそちらへ連絡を入れた意図はすでに伝わりたると思うているが、今一度の確認を行いましょう。時を|選《よ》ら沁申し出を受けていただけたる事は感謝して諮くわ」 『時差なら気にするな。こちらはもう仕事が始まる時間だ』 「その仕事の時間を妨げたるのもまた無粋だと言いたいのよ」ロ!ラは自分の髪に反射する光を見ながら、「そちらは|開会式《セレモニー》でしょう。トップともなりければ|壇上《だんじよう》での|挨拶《あいさつ》の一つも必要ではないかと思うのだけど」 『……私がこの姿で人前に出るとでも思うのか』 「くっくっ。確かに。|儀礼《ぎれい》という意味を知ら楓身なりよね」  ローラは初めて説教壇に置かれたモニタへ目を向ける。  透明な、円筒形の|水槽《すいそう》には真っ赤な液体が満ちていて、そこに逆さまの人間が浮かんでいる。 着ている衣服は緑色の手術衣。どう考えても、公共の席に現れるべき身なりの者ではない。  それに何より、彼は今後一千年以上もこの姿を保ち続ける(らしい。ローラには詳しい仕組みは理解できない)のだ。常に公の場に出席し続ければ、|流石《さすが》に皆がおかしいと思い始める事だろう。まあ、その気になれば名や顔を変える手段などいくらでもありそうだが。  かくいうローラ=スチュアートも見た目通りの実年齢ではない。が、彼女は他人のふりを見て|我《わ》がふりを直すのではなく、棚に上げて大爆笑するタイプのようだ。 「ならば|遠慮《えんりよ》なく話を進めましょう。まあ、こちらも時間がない|故《ゆえ》に、手短に要点をまとめねばならぬ事情がありけるのだけれどね」  ふむ、とモニタが一息をついて、 「……学園都市内部への侵入者の話か』  うむ、とローラは|頷《うなず》いた。 「そちらが現在、一般の来場者を招きたるのは分かりているわ。そしてそのせいで、警備を甘くせざるを得ないのも」  これはローラにも経験がある。パレードやクリスマスの大規模集会などの際、要入警護を目的として本当に|完壁《かんぺき》なガード体制を|敷《し》くと、一般来場者の移動が|滞《とどこお》ってしまい、運営のスケジユールそのものに|悪影響《あくえいきよう》を及ぼす。流れを寸断させないためには、ある程度の『遊び』が必要となるのだ。 「その|隙間《すさま》を|縫《ぬ》いて、|学園都市《そちら》に|魔術師《まじゆつし》が手を出した。|イギリス清教《こ ち ら》の情報筋によりければ、今の所、確認せしは二名との事。ローマ正教の重役と、彼女に雇われたる運び屋ね」 「運び屋、か。確認するが、これは|戦闘《せんとう》や|破壊《はかい》を目的とした工作員ではないという事か』 「ええ。運び屋はオリアナ=トムソン。雇い主はリドヴィア=ロレンツエッティ。彼女|達《たち》の目的たるは、とある物品の取り引きと言いたる所よ」  ローラは説教|壇《だん》の上、モニタの横に置いてあった紙の資料を|掴《つか》み、適当にカメラレンズの前で振った。文字は割と細かいが、どうせ相手は|得体《えたい》の知れない技術を扱う学園都市。読み取れない、などとお粗末な|台詞《せりふ》は吐かないだろう。 「まずはオリアナ=トムソン。聞きし名の通り英国生まれで、今はイタリア|国籍《こくせき》のはず。 「|追跡封じ《ルートデイスタープ》』の異名で知られし魔術業界屈指の運び屋ね。コソコソと逃げ回るだけにあらず、たとえ見つかりても必ず追っ手を振り切るといふ者よ」  より正確に言うと、追跡を振り切るためなら何でもやる女[#「追跡を振り切るためなら何でもやる女」に傍点]、というのがオリアナだ。その上、行動の傾向が全く読めず、事前の情報から対策を練っても簡単に|狙《ねら》いを外されてしまう。オリアナ=トムソンとは、橋を落とし、炎の海を作り、無数のトラップ。を置き|土産《みやげ》として設置する事で後続の追跡者の足を次々と砕いて逃げる、多種多様な手札を持つ魔術師の事。それでいて、時には人の情まで利用する美女でもある。  オリアナの元の国籍がイギリスである所から想像がつくように、彼女がロンドンで動いていた時はイギリス清教とも幾度となく激突している。そういった際に『|必要悪の教会《ネセサリウス》』はオリアナを追跡している途中で、魔術とは一切関係ない『自称・彼女の無二の親友』に立ち|塞《ムさ》がれた事が何度もある。ただの|戦闘狂《せんヒリビよう》ではなく、民間人という『人間の壁』をも利用し、人混みの中へ溶けてしまえる人間なのだ。 「そしてリドヴイア=ロレンツェッティ。ローマ正教の中でも変わり種で、別名は『|告解の火曜《マルデイグラ》』。彼女はとかく社会に受け入れられぬ者|達《たち》を専門に布教活動を続ける、|改俊《かいしゆん》の|乙女《おヒめ》と言いたる所よ」  こちらはオリアナと違い、教皇領バチカン出身という、|生粋《きつすい》のローマ正教徒だ。それなりに高い位置にいるのだが『自分の|椅子《いす》』を求めず、世界各地を転々と渡って教えを広めていく事に生きがいを感じていると言われている。こちらも「布教のためなら何でもやる女』であり、優れた功績に対する|褒賞《ほうしよう》という形で、教皇の手から直接|賜《たまわ》った絹の装束や|白金《プラチナ》の|杖《つえ》さえ、一秒も迷わずに質に入れて旅の資金に当ててしまうほどである。  こうしてリドヴィアに「救われ』、また「さらなる救いを広めるために」集められた人材は、今まで日の目を見られなかった不出の天オ達だ。それも凶悪犯罪者や邪教崇拝者など、人間的社会的に問題のある人物ばかりである、本来ならスカウトどころか処刑されてもおかしくないような人材を集めてくるのがリドヴィアの特徴でもある。  彼女はスカウトとしての|嗅覚《さゆうかく》が|半端《はんぱ》ではなく、なおかつトラブルメーカーだらけの人材達を統制・管理するだけの能力にも|長《た》けているという訳だ。  罪人は殺せ異教徒は燃やせのローマ正教だが、真に心を入れ替えたと正式に認められた者に対しては|迂闊《うかつ》に|攻撃《こうげき》できない。社会不適合者を嫌う一部の上役などにとって、リドヴイアの行いは目の上のタンコブだろう。そして、イギリス清教|最大主教《アークビシヨツプ》のローラにとっても苦手な相手だ。  あからさまに|魔術師《まじゆつし》を育成しているのなら堂々と妨害できるが、不幸な人々に聖書と祈りを授けているとなると、妨害に回るこちらの方が悪人になってしまうのである。 『そちらの世界にとっては、二人はそうそうたるメンツ、といった所なのか。私には良く分からんが。それで、その連中と取り引きを行転うとしている相手は?』 「明言できず、よ。今の所、一番怪しきはロシア成教のニコライ=トルストイと言われたるの。 司教クラスの幹部と言いたる所ね」  ニコライはローマ正教の「異教徒廃絶』といったような攻撃性はないが、二組織間に争いがあれば積極的に漁夫の利を|狙《ねら》っていく事で知られている|狡知《こうち》の人物だ。 『では、|件《くだん》の運び屋達が運搬している物品の方は……我々に説明するには差し支えがあるか?』「名前と形ぐらいは説明せねば、そちらも追い駆けようがないでしょう」  ローラは説教|壇《だん》のモニタから視線を外すと、よっこいしょ、と声を出した。床に置いてあった『物』を、椅子に座ったまま持ち上げる。 『剣、か?』 「レプリカよ。大英博物館より拝借せしめてきたの。これは見た目のみで、魔術的な効果は何もあらずなのだけど」  ローラが手にしているのは、大理石で作られた剣だ。長さは縦が一・五メートルほど、横……というか、剣の|鍔《つば》は左右それぞれ三五センチずつ、合わせて七〇センチほどだ。太さは直径一〇センチほどもあり、当然ながら、刃などついていない。剣の先端だけが、まるで鉛筆を削ったように粗く|尖《とが》らせてある。 「「|刺突杭剣《スタブソード》』と呼ばれたるわ。詳しき効果は説明できねども、『竜をも貫き地面に|縫《ぬ》い止めたる剣一とまで言われたるの。|魔術的《まじゆつてき》価値・効果は共に絶大。渡る所へ渡れば、我々は一気に|窮地《きゆうち》に立たされんとするわ。英国全土が|戦渦《せんか》に巻き込まれるやもしれんのよ」  |件《くだん》の『|刺突杭剣《スタブソード》』は、教会の宗派を語る上で重要な、ある『柱』を|一撃《いちげき》で|破壊《はかい》できる|霊装《れいモう》だ。 特定の宗派だけを|狙《ねら》ってその『柱』が破壊されれば、弱休化した宗派を狙って周りの敵対勢力が一気に攻めてくる恐れもある。 『柱』とは、十字教における『聖人』の事だ。  十字教社会においては核兵器にも等しい|戦闘力《せんとうりよく》と価値観で知られる彼らの存在を、根本から排除してしまうのが『|刺突杭剣《スタブソード》』なのである。 『ふむ。そちらの世界の戦術兵器といった所か』  アレイスターはカメラ越しに、問題の剣を眺め、 『それが学園都市で使用されると、どのような危険があるかも説明できないのか? 状況によっては一般来場者の|誘導《ゆうどう》や|避難《ひなん》も考えられる』 「心配は無用よ。これは魔術世界に限り運用できる武器。そちらの世界で用いた所で何の効果もないわ」 「そうか。もう少し詳しいメカニズムの説明があれば、こちらも対策を練られそうだがな』「ほう。科学の世界の住入に、魔術の対策など練られたるのか。まさか、内に魔術師でも匿いたる訳でもあるまいに[#「内に魔術師でも匿いたる訳でもあるまいに」に傍点]?」 「……、』 「……、」  両者ともに、わずかに|沈黙《ちんもく》する。呼吸の動作一つで切れてしまいそうなほどの、細く鋭い|緊張《きんちよう》の糸が周囲一面に張り巡らされる。が、やはりどちらの顔にも|焦《あせ》りはない。むしろ楽しんでいる|風情《ふぜい》すら感じさせる。  ローラは、ピンと張った緊張の糸を指で|弾《はじ》くような明るい声で、 「余計なる|牽制《けんせい》はなしにしましよう。今は時間が惜しい」  言って、首を横に振った。|絨毯《じゆうたん》のように広がる髪が、わずかに揺らぐ。 「最大の問題たるは、この『|刺突杭剣《スタブソード》』の取り引きがそちらの学園都市内部で行われんとしている事ね」 『敵もそれは承知の上だろう。我々は、イギリス清教の|魔術師達《グループ》だけを例外的に|敷地《しさち》内へ招く事などできん』  イギリス清教だけの特例を認めれば、|他《ほか》の教会や組織も『じゃあこちらにも許可を』という話になる。彼ら|全《すぺ》てが協力派とは限らない。中には、これを機に学園都市内部へ侵入し、様々な|破壊《はかい》工作を行おうとする勢力も出てくる事だろう。  ただでさえ厄介な状況下で、さらに新たな火種を招けばどういった事態に発展するか、|誰《だれ》でも想像がつく。まして、今は|大覇星祭《だいはせいさい》期間中だ。一般来場者やマスコミも多数いる中での混乱は、可能な限り|避《さ》けていきたい。惨事など論外だ。  これと似た状態は、八月初めに『三沢塾』が|錬金術師《れんじんじゆつし》に乗っ取られた際にも起きている。アウレオルスロイザードの暴走を止めるため、イギリス清教やローマ正教などを招いたが、今回は事情が違う。今は大覇星祭の期間中で、学園都市の『外』からやってきた民間人も多い。アレイスターが『自分の街の問題を誰に解決してもらうかはこちらで決める』と言い張った所で、『しかしあそこにいる観客|達《たち》は我々の国の人間だ。だから私の仲間は私が守る』と主張されてしまうと、さらに大きな混乱を生む羽目になってしまう。  当然、組織間にも力の差はある。 科学サイドの長である学園都市と、|魔術《まじゆつ》サイドの小勢力では根本的に器の大きさが違う。ならば発言力にも格差が生まれそうなものだが、そこをごり押しする訳にもいかない。  魔術サイドの小勢力の意見を突っぱねると、今度はそれを口実に、もっと大きな魔術サイドの組織が口を出してくる。彼らの言葉をねじ伏せても、さらに上の組織が口を出す。そうこうしている内に雪ダルマのように問題が大きく|膨《ふく》れ上がってしまうのだ。やがては科学と魔術の全体がいがみ合う形にまで。  元々世界中から注目されている大覇星祭だ。  問題の発生から発展までは、細そらく一日とかからない。 「かと言って、学園都市に所属せしめる者が、学園都市の内部で魔術師を倒したれば問題となろうなのよ」  科学と魔術は、互いの領分を分ける事で、それぞれ利権を確保している。学園都市の治安維持機関が|迂闊《うかつ》に魔術師を捕らえてしまうと、その領分を|踏《ふ》み越える危険性が出てくる。 『ヤツらも足りない頭をひねって良く考えたものだ。こちらとそちら、双方ともに異常を感知していながら、迂闊に侵入者どもには手を出せないという面倒な事情によって、両者の手札は封じられてしまっている。ヤツらは安心して取り引きに専念できるという訳だな』 「しかし、封じられし程度で引き下がりては始まら濾のよ」  ローラは立ち上がる。  彼女の長すぎる髪は、その程度では床から離れない。  |膝《ひざ》の上に置いてあった金や銀の|櫛《くし》が落ちていくが、ローラは見向きもしない。 「今、そちらは一般米場客を招きたる最中と聞く。ならばその中に、あくまで休暇中の者が紛れ込みても歓迎されたるわよね?」  真剣な声に、モニタがニヤリと笑う。 『ふむ。休暇中の旅行と装っても、|流石《さすが》にイギリス清教所属メンバーのみで構成される団体様がやってくるのはまずいな。一組織内で計画実行された集団行動と見られれば、やはり「学園都市へ組織的に侵入を果たした教会勢力がいる」と受け取られかねん。が、個人と限定されるならば……それも学園都市で暮らす者と旧知の間柄[#「旧知の間柄」に傍点]であれば、ごまかしも|利《き》くかもしれない』 アレイスターは楽しげに|嘯《うそぶ》いた後、 「……となると、旅のガイドとしてあの少年を起用するしかない訳だが』  ポツリと、付け加えた。      2  午前一〇時三〇分。  ようやく開会式が終わった。 「|暑《あづ》ァああ……」  平凡なる高校生・|上条当麻《かみじようとうま》が立っているのは、サッカースタジアムだ。特に部活動に力を入れている体育学校付属の施設らしい。合成樹脂の人工芝も溶けてしまいそうなほどの厳しい残暑の中、様々な体操服を着た男女は行進で出ロをくぐると、後は三々五々に散っていく。  |大覇星祭《だいはせいさい》参加者は一八〇万人を軽く超す。スタジアムはプロ仕様だが、それでも全員を収容するのは不可能だ。そんなこんなで、開会式は三〇〇ヵ所以上で同時に行われた訳だが、それにしても、 「……この街は、校長先生の数が多すぎると思う」  上条はぐったりしながら|眩《つぶや》いた。炎天下極まる残暑の中、ただでさえ長い『校長先生の溢話』を何度も何度も聞かされれば|誰《だれ》でも嫌気が差す。上条は諸事情あって|記憶《きおく》喪失なのだが、うっかり式の途中で人生二度目の体験をする所だった。  もっとも、統括理事会側も一応は厳選しているつもりなのだろう。|全《すべ》ての校長先生がご登場した|暁《あかつき》には、それだけで大会初日を|潰《つぶ》してしまうに決まっている。  周囲を見回せば大覇星祭に参加する小中高大学などの学生|達《たち》で|溢《あふ》れているが、大体みんな上条と似たような顔をしていた。彼らの格好の基本は|半袖《にんそで》のシャツに短パンで、学校に応じてスパッツや、陸上競技用のランニングなど、違いが現れている。特殊な学校になると合気道などの道着、迷彩柄のカーゴパンツ、特殊素材の|装甲服《ボデイアーマー》(非駆動式)なんてものもある。早い話が何でもアリとの事だった。  共通点といえば、生徒達は皆、赤か自のハチマキを額に巻いている。  大覇星祭は、基本的に学校対抗で行われ、勝敗に応じて点数が加算されていく。ここでさらに、各学校は赤組と白組に分かれていて、各組の合計勝ち数に合わせ、それぞれの学校へ点数が追加される。赤組対白組、学校対学校。それらを合わせたトータルの総合得点により、最終的な学校ごとの順位が決定されるのだ。  |上条《かみじよう》と|美琴《みこと》が開会式前に勝ち負けを論じていたのはこのシステムによるもので、学園都市全体の内、自分の学校の順位が相手の学校を上回っていれば『勝ち』となる。彼女の弁では『みっ、見てなさいよ……ッ! 罰ゲームとして負けたら何でもするって言った事を死楓ほど後悔させてあげるから!!』との事らしい。 「……、今さらながら、何されるんだろう? ま、待てよ。まさか日が落ちるまで|超電磁砲《レールガン》のキャッチボール(主に|俺《おれ》が受け)とかじゃねーだろうな!? もう『受け』とか発音するのも嫌だし!!」  思わず一人で叫ぶと、スタジアム出口近辺にいた生徒|達《たち》が不審そうな日を向けてきた。ハッと我に返った上条は、スタジアム前のバスロータリーからコソコソと離れていく。 (でもまあ、何だ)  今まで|戦標《せんりつ》の未来予想図にガクガクと|震《ふる》えていた上条だったが、ようは負けなければ良いのである。いくら名門といえど、相手は中学生でしかも女子校。挙げ句に勝負内容は、能力の使用が認められているとは言っても、基本は体育の延長線上である(はずだ)。正直上条としては、大切に育てられてきたお|嬢様《じようさま》達では、|無駄《むだ》に男盛りな汗臭い高校生集団には勝てまいと思う。大体、たとえ上条が|常盤台《とおわだい》中学との直接対決で負けても、まだ道はあるのだ。上条の学校が|他《ほか》の学校に勝って、常盤台が別の学校に負ければ、その差を取り戻す事もできるのだから。 「とうまー」  と、不意に横合いから女の子の声がかかった。  そちらを見ると、体操服ばかりの|雑踏《ざつとう》の中に、一人だけ金糸の|刺繍《ししゆう》を施した真っ白な修道服を着た少。女が立っていた。彼女の名前はインデックス。長い銀髪に緑の|瞳《ひとみ》、スレンダーな体型の英国少女なのだが、同時に一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を、その頭の中の|記憶《きおく》に収めている完全記憶能力者でもある。正直、下手な能力者よりもトンデモな少女だ。  インデックスは胸の辺りに小さな|三毛猫《みけねこ》を両手で抱え、ぐったりしながら、 「とうま……私はお|腹《なか》がすいたかも」 「もう減ってんのかよ!? ってかまだ午前中だし二時間ぐらい前に朝ご飯食べたばかりじゃねーか!!」 「うう。でも、そこかしこから何とも言えない|匂《にお》いが漂ってきてそれどころじゃないんだよ」  インデックスの声に合わせ、三毛猫が鼻をひくひく動かしながら|嬉《うれ》しそうな嶋き声をあげる。  む? と上条も改めて周囲の匂いを確かめる。|醤油《しようゆ》やソース、マヨネーズなどが焼ける独特の匂いがうっすらと漂っていた。風上に目を向けると、文化祭みたいな手製の屋台が通りの左右に並んでいる区画があるのが見える。  大規模な運動会と言っても、全生徒が|全《すべ》ての時間を競技に拘束される訳ではない。決まった時間に決まった競技場へ到着する事さえ守れば、後は基本的に自由だ。|他《ほか》の学校の応援に行こうが家族とお|土産《みやげ》を見て回ろうがコンビニでマンガ雑誌を立ち読みしていようが問題はない。 |土御門舞夏《つちみかどまいか》が通うような家政や調理の学校などは、ここぞとばかりに屋台を出して臨時収入を得ようと動く。  一学校の生徒全員が参加する競技は意外と少ない。学年や競技種目によって、常に|誰《だれ》かの手は空いているのが現状だ。本来なら自分の学校の応援に回るべきなのだろうが、屋台で稼いでおくと打ち上げなどが豪華になるらしい。一八〇万人強もの学生の父兄をさばくだけでも利益は余りある。 「あ、あぅぅ……。日本の料理文化は食という名の|誘惑《ゆうわく》の塊かも」  |三毛猫《みけねこ》を抱えたままの修道女は、思わずといった調子で口に出した。  とりあえず目の前に食べ物があれば何でも手を出してしまうインデックスである。遠くから漂ってくる匂いだけであっても、長時間さらされればよだれが出てくるというものだ。むしろ屋台へ|強襲《きようしゆう》しなかった事を|褒《ほ》めるべきか、と|上条《かみじよう》は真剣に評価してみる。 「あー、そうだな。お前は一日ずっと暇だろうし、こっちも後で適当に時間作ったら|一緒《いつしよ》にそこら辺を回ってみるか」  うん、と|頷《うなず》いたインデックスは、しかしピタリと動きを止めて、 「……、後で[#「後で」に傍点]?」 「ああ。もう最初の競技始まるから行かなきゃ|駄目《だめ》なんだ。ほら、これパンフレット。ペンで印ついてるトコが、今日|俺《おれ》が参加する種目の競技場の応援席だから。行くぞ、インデックス」 「わ、わああ! き、今日のとうまは何だかものすごくドライかも!」  インデックスが何か叫んでいたが、時間はすでに遅れ気味である。できれば一店、二店ぐらいは回ってあげたいが、空腹状態のインデックスを野に放てばそれで終わるはずがない。通りに面した屋台を全部回りきらなければ満足しないに決まっている。  上条は通りかかった売り子の舞夏からメイド弁当(定価一二〇〇円。高い……)を値切って半額で買い、それをインデックスに、ぐいーっと押し付けながら競技場へ向かう。ちなみにメイド弁当なのに商品は純和風の商品がずらりと並んでいた。何だこりゃ、しかもやけに高いし、と|愚痴《ぐち》る上条に対し、舞夏の言い分としては、 『日本は弁当大国だからなー。そもそも諸外国にはお弁当って文化はあんまりないんだぞー。 英語なんか|lunch《ランチ》の一言で昼食とひとくくりにされちゃってるし。西洋文化で携帯食料っていうとビスケットとかになっちゃうから、|敢《あ》えて和風で攻めてみたのー。あと、高い高いと言うけれど、劇場観覧客用に作られた初期の幕の内弁当なんて、うどん一食の一〇倍近い値で取り引きされてた高級品なんだぞー。|大覇星祭《だいはせいさい》観戦用のお弁当を、一流の食材と手腕で作り上げるのは、むしろ正当な伝統に|則《のつと》っていると思うけどなー』  との事だった。  超適当かと思いきや、彼女|達《たち》なりの理屈があったらしい。  そんなメイド弁当片手に向かっている競技場の場所は、|上条《かみじよう》の高校の校庭だ。本当ならインデックスをきちんと応援席まで送りたかったが、選手と応援の出入り口は別々である。上条は少女と別れて選手用の入り口へ向かう。校庭は現在準備中で、|砂埃《すなぽこり》が舞うのを防止するためか、教員達がホースで散水していた。  青空には自律制御のアドバルーンが飛んでいて、縦長に垂れ下がった特殊|薄型《うすがた》スクリーンには『第七学区・高等学校部門・第一種目・棒倒し。競技開始まであと一〇分二三秒です』という文字が流れている。 (学校順位で|常盤台《とまわだい》中学に負けたら、|御坂《みさか》のヤツに罰ゲームで何を。要求されるか分かったもんじゃないし、ここはスタートダッシュを決めて点差をつけますか!)  七日も続く|大覇星祭《だいにせいさい》では、大会全体のペース配分が最終的な順位に大きぐ関係する。この辺りは戦略次第で、最初に点差をつけて逃げ切るか、後半まで体力を温存してスタミナの切れた他学校を一気に追い抜いていくかなど、様々な選択肢が存在する。  上条は|記憶《きおく》喪失で、感覚的に大覇星祭は初めて経験するイベントだ。  が、よほどのスポーツ推奨校の生徒でもない限り、冷静に戦局を見極め体力を温存し続けるのは不可能だと予測はつく。特殊な能力を持っているとはいえ、基本は学生同士の勝負だ。競技の結果が感情に引きずられる事だって十分考えられる。例えば理論上はまだ勝てる状況であっても、極端に点差をつけられ、完全に心の折れた状態から逆転を|狙《ねら》うのは無理ではないだろうか。  という訳で、上条はスタートダッシュ派なのだった。 (そういや、準備中とか|馬鹿騒《ばかさわ》ぎの連続だったからなー、ウチのクラス。っていうか、学校全体がそんな感じだったか。ま、あいつらが気合入っているのに間違いはないだろ。負けず嫌いの連中も多そうだし、むしろ勝つために何をやらかすかが心配なぐらいだぞ)  上条はクラスの|無駄《むだ》な団結力に対して期待感で胸をいっぱいにしつつ、校庭の端にある選手控えエリアへ意気揚々と乗り込み、クラスメイト達の輪の中へ入る。  そして、こういったお祭り騒ぎがいかにも好きそうな青髪ピアスがこちらへ振り返り、 「うっだー……。やる気なあーいーぃ……」  上条は何もない地面で盛大に転がった。  地面に突っ伏しながらよくよく辺りを見回してみると、|他《ほか》のクラスメイト達も大体そんな感じだ。つまり全員が日射病の一歩手前みたいな顔をしている。 「ちょ、ちょっと待ってください皆さん。|何故《なぜ》に一番最初の競技が始まる前からすでに最終日に訪れるであろうぐったリテンションに移行してますか?」  |上条《かみじよう》がぶるぶると|震《ふる》えながら問い|質《ただ》すと、青髪ピアスがガバッと振り返り、 「あん? っつかこっちは前日の夜に|大騒《おおさわ》ぎし過ぎて一睡もできんかったっつーの! しかも開会式前にも、どんな戦術で攻め込みゃ|他《ほか》の学校に勝てるかいうてクラス全員でモメまくって、残り少ない体力をゼロまですり減らしちまったわい!!」 「全員それが原因なの!? 結論言っちゃうけどみんなまとめて本末転倒じゃねーか! しかし|姫神《ひめがみ》はおめでとう!ちゃんとクラスに溶け込めているようで上条さんはほっと一安心です!!」  姫神というのは、上条からちょっと離れた所に立っている姫神|秋沙《あいさ》の事である。色白で、腰まである長い黒髪の少女で、|吸血殺し《デイープブラツド》という特殊な能力の持ち主。現在はその力を封印するため、|半袖《はんそで》の体操服の胸の中へ隠すように、首から十字架を|提《さ》げている。彼女は今月の初めに上条のクラスに転入してきたばかりである。  姫神は逆に今時珍しい純和風の黒髪を軽く揺らし、 「学生の競技なんて。|所詮《しよせん》そんなもの。専属のトレーナーとか。コーチがいる訳でもないし」 「うっ、所詮とか言われた!」  これは思いっきり負けそうだーっ! と上条は頭を抱える。そんな彼を|労《ねぎら》うように、 「にゃー。でもカミやん、テンションダウンは致し方ない事ですたい。何せ開会式で待っていたのは一五連続校長先生のお話コンボ。さらに|怒濤《どとう》のお喜び電報五〇連発。むしろカミやんは良く耐えたと|褒《ほ》めてやるぜーい……」  言ったのは|土御門元春《つちみかどもとはる》———生徒に見せかけた、|魔術《まじゆつ》にも科学にも精通する多角経営のスパイ———だ。短い金髪をツンツンに|尖《とが》らせ、|薄《うす》い色のサングラスをかけて、首元には金のアクセサリーがジャラジャラついている。半袖短パンの休操服と装飾品のバランスが果てしなく似合っていない。 「た、体力|馬鹿《ぱか》の青髪ピアスや土御門ですらこの有様……。い、いや待て、対戦相手も同じようにグッタリしてればまだ勝機は……ッ!!」  上条は最後の望みにすがるが、 「|駄目《だめ》だにゃーカミやん。なんか相手は私立のエリートスポーツ校らしいっすよ?」  ぎゃああ! と上条は完全に地両に突っ伏す。脳裏には|御坂美琴《みさかみこと》に敗北した後に待っているであろう地獄絵図の罰ゲームが明確に浮かんでくる。自然と全身に恐怖の鳥肌が立ってきた所へ、クラスの女子生徒の一人が遅れてやってきた。 「……な、何なの。この無気力感は!」  ん? と上条は突っ伏したまま顔を上げる。  他のクラスメイトと同じく半袖短パンを着た少女だ。が、彼女はさらにその上に薄手のパーカーを羽織っている。パーカーの腕の所には『|大覇星祭《だいはせいさい》運営委員・高等部』と書かれていた。 おそらく背中にも同じ文字が書いてあるだろう。クラスの中では背は高い方で、スタイルも良い。なんというか、体操服のTシャツの上から、ぐぐっと胸が盛り上がっているのが一目で分かる。黒い髪は耳に引っ掛けるように分けられていて、おでこが大きく見えるようになっていた。  |吹寄制理《ふきよせせいり》。  またの名を、美人なのにちっとも色っぽくない鉄壁の女とも言う。  彼女は|呆然《ぼうぜん》とあちこちを見圃した後、やがて一人で倒れている|上条《かみじよう》に目を合わせ、 「ハッ! まさか、上条。また貴様が|無闇《むやみ》にだらけるから、それが皆に伝染して。貴様……これはどう収拾をつける気なのよ!」 「え、いや、別にこれ|俺《おれ》のせいじゃないし! むしろ俺だって今やって来たトコなんだって!」 「つまり貴様が遅刻したから皆のやる気がなくなったのね?」 「何があっても俺のせいにしたいのか!? っつか吹寄だって俺より遅れて来たじゃん!」 「あたしは運営委員の仕事よ|馬鹿《ばか》!」  割と問答無用で馬鹿扱いか俺! と上条は泣き出しそうになり、 「もう放っておいてくれ! |駄目《だめ》なんです、不幸な不幸な現実に直面した上条さんは今ちょっと立ち上がれない状態なのです!!」 「だらしがない。それは心因性ではなく朝食を抜いた事による軽い貧血状態よ。ほら水分とミネラルがあれば問題ないわスポーツドリンクで補給しろそして立ち上がるのよ上条|当麻《とうま》!」  ガシャガシャ! と吹寄のパーカーのポケットから五〇〇ミリサイズの半分ほどの長さのぺットボトルが数種類も飛び出してくる。 「わーっ! 何だその健康グッズマニアが喜びそうなムチャクチャ理論は!? あとアナタには水分やミネラルではなくカルシウムが足りていないような気がするのは|錯覚《さつかく》ですか!!」 「何を言うか。すでに小魚は必要量摂取済みよ!」キッ! と吹寄は上条を|睨《にら》みつけ、「あたしはね、不幸とか不運とかを理由につけて人生に手を抜く|輩《やから》が大っ嫌いなの。貴様一人がだらけると周りのやる気もなくなる。だからシャキっとしなさい皆のためにも!」  キーキーと立て続けにまくし立てる吹寄制理に、上条は思わずたじろぐ。後ろへ下がる少年に対して、運営委員はさらに距離を詰めていく。上条は後ろへ下がろうとするが、背後にあるのは|花壇《かだん》だけだ。  と、それを見ていたクラスメイト|達《たち》は歓喜の表情を浮かべ、 「す、すげぇ。すげぇよ吹寄! |流石《さすが》は対カミジョー属性完全ガードの女!」 「いつものパターンなら『か、上条君、|大丈夫《だいじようぶ》?』とかフォローにいっちゃう所なのに!」 「そして不幸だとか何とか言いながら一番|美味《おい》しいポジションを占有するはずなのに!!」 「我々人類の希望やね。吹寄制理を研究する事で、カミやんを克服できるかもしれへん!!」  どんな評価を受けてんだよ俺ーっ!? と上条当麻はぐったりしながら後ずさる。  と。  不意に、上条の足がグニッと何かを|踏《ふ》んだ。それは散水用のゴムホースだった。土の校庭が|砂埃《すなばこり》を起こすのをある程度防ぐため(完全ではない)、競技前に水を|撒《ま》くためのものだ。  遠くを見ると、校庭で作業している男性教諭が『ん?』という感じで、水の出なくなったホースの口を眺めている。  |瞬間《しゆんかん》。  |上条《かみじよう》の足で|堰《せ》き止められた水が爆発した。地面に埋め込まれた、散水専用の蛇口に|繋《つな》げられたホースの口が勢い良く外れ、辺り一面に水道水を撒き散らす。  蛇口から一番近くにいたのは、 「ふ、|吹寄《ふきよせ》ェぇぇぇ!? おのれカミジョー属性、|俺達《おれたち》の最後の|砦《とりで》を!!」 「もう|駄目《だめ》だ"カミジョー属性の手にかかれば、あの堅物すらも|濡《ぬ》れ透けの|餌食《えじき》か」 「そして実は意外に|可愛《かわい》らしい下着とかがバレて、いつものラブコメになっちまうんだ……」 「我々人類の絶望やね。———っつか吹寄で駄目なら後は|誰《だれ》が残っとんねんボケェ!!」  だからどんな評価受けてんだ俺! あと吹寄|制理《せいり》さんホントにごめんね! と上条は怒ったり謝ったりを繰り返す。ちなみにびしょ濡れになった吹寄は、体操服が肌にぴったり吸い付く形となり、肌も下着も透けて見えてしまっていた。何やら彼女のイメージにはそぐわない黄色とオレンジのチェック柄の、非常に可愛らしいデザインの下着だったが、吹寄は特に顔色を変える事もなく、 「……、何か文句が?」  ありませんですハイ!! と上条が高速で頭を下げると、吹寄は『ふん』とそっぽを向いて、パーカーの前をギュッと閉じながら、ポケットから取り出した紙パックの牛乳をチューチューと飲み始めた。怒りを|鎮《しず》めるためにカルシウムを摂取しているらしい。  周りにいた男子生徒達は、散水用の蛇口に親指を乗せる事でレーザー砲のような水|射撃《しやげき》を次々と放って、遊び始めてしまった。ただでさえ疲労|困慰《こんぽい》の上、実はびしょ濡れの吹寄を多少意識しているようだが、|溢《あふ》れんばかりのジェントル精神を発揮して『気にしていませんサイン』をアピールしているらしい。見た目は無邪気に、しかし目だけは決して笑っていない男子生徒諸君の壮絶な水遊びが繰り広げられていく。  チームワークという言葉が存在しないクラスメイト集団を前にした上条は|呆然《ぽうぜん》と、 (だ、誰も彼も棒倒しどころじゃなくなってやがる!? もう本当に駄目かも。このクラスはいろんな意味でバラバラだし)  ふらふらと選手入場口近くにある体育館の壁に寄りかかると、ふとどこかから男女が言い争う声が聞こえてきた。ちょうど体育館の陰に隠れる形で、誰かが話し合っているらしい。 「……そんな事は……絶対に、———ですよーっ!」 「……|馬鹿馬鹿《ばかばか》しい———に決まって……ですか」  今度は何だよ……? と上条は休育館の壁にピッタリとくっつき、端から首だけ出して様子を|窺《うかが》う。  日当たりの悪い体育館裏手にいたのは、|上条《かみじよう》のクラスの担任の|月詠小萌《つくよみこもえ》だった。身長一三五センチ、ランドセルを背負っていても|誰《だれ》にもツッコまれないような容姿の先生だが、今は白の短いプリーツスカートに、淡い緑色のタンクトップといったチアリーダーみたいな衣装を着ていた。応援用のものだろうか?  彼女と向き合っているのは、知らない男性だった。他校の先生だろうか。|大覇星祭《だいはせいさい》の期間中は教員も市販のジャージに着替えたりするものだが、|何故《なぜ》かこの暑い中でも、ピッチリとスーツを着込んでいる。  小萌先生と男の先生は言い争っていた。  というより、|嘲《あざけ》る男の先生に、小萌先生が食い下がっているような構図だ。 「だから! ウチの設備や授業内容に不備があるのは認めるのです! でもそれは私|達《たち》のせいであって、生徒さん達には何の非もないのですよーっ!」  小萌先生は両手を振り回しながらそんな事を叫んでいるが、男の先生は気に留めず、 「はん。設備の不足はお宅の生徒の質が低いせいでしょう? 結果を残せば統括理事会から追加資金が下りるはずなのですから。くっくっ。もっとも、落ちこぼればかりを輩出する学校では申請も通らないでしょうが。ああ、聞きましたよ先生。あ。なたの所は一学期の期末能力測定もひどかったそうじゃないですか。まったく、失敗作を抱え込むと色々蕾労しますねぇ」 「せ、生徒さんには成功も失敗もないのですーっ! あるのはそれぞれの個性だけなのですよ! みんなは|一生懸命《いつしようけんめい》頑張っているっていうのに! それを……それを、自分達の都合で切り捨てるなんてーっ!!」 「それが己の力量不足を隠す言い訳ですか。はっはっはっ。なかなか夢のある意見ですが、私は現実でそれを打ち|壊《こわ》してみせましょうかね? 私の担当育成したエリートクラスで、お宅の落ちこばれ達を|完膚《かんぷ》なきまでに|撃破《げきは》して差し上げますよ。うん、ここで行う競技は『棒倒し』でしたか。いや、くれぐれも|怪我人《けがにん》が出ないように、準備運動は入念に行っておく事を、対戦校の代表としてご忠告させていただきますよ?」 「なっ……」 「あなたには、前回の学会で恥をかかされましたからねえ。借りは返させていただきますよ? 全世界に放映される競技場でね。一応手加減はするつもりですが、そちらの|愚図《ぐず》な失敗作どもがあまりに弱すぎた場合はどうなってしまうのかは、こちらにも分かりませんねえ」  はっはっはー、と笑いながら立ち去っていく男の先生。  対戦相手の学校だったのか、と上条は|大雑把《おおざつぼ》な感想を抱いた。正直、|無能力《レベル0》な上条としては、今さら失敗だとか落ちこぼれだとか言われた所で大したダメージにはならないのだが、 「……、違いますよね」  その時。ポツリと、小萌先生は言った。  たった一人で。誰に言うでもなく。|脩《うつむ》いたまま。ぶるぶると|震《ふる》える声で。 「みんなは、落ちこぼれなんかじゃありませんよね……?」  ただでさえ小さな肩を、より小さくするように。  今の|罵倒《ばこう》は、|全《すべ》て自分のせいで皆に降りかかったものだと告げるように。  彼女はそっと空を見上げ、何かをこらえるように、じっと動きを止めていた。 「——、」  |上条《かみじよう》はちょっとだけ|黙《だま》る。  そして振り返る。  そこには彼のクラスメイト|達《たち》が無言で立っていた。  上条|当麻《とうま》は、彼らに確認を取るために言う。 「はいはい皆さーん、話は聞きましたね? ついさっきまで、やる気がないだの。体力が尽きただのと、|各《おのおの》々勝手に|喚《わめ》いていましたが……」  上条は片目を閉じて、 「———もう一度だけ聞く。テメェら、本当にやる気がねえのか?」      3  |御坂美琴《みさかみこと》は学生用応援席にいた。  一般来場客用応援席と違い、こちらには日差しを遮るテントのようなものはない。ただ地面に青いシートが|敷《し》いてあるだけで、|椅子《いす》すらない。花見の宴会席みたいよね、と美琴はため息をつく。ここまで原始的というか野性的だと、逆に何か新鮮だ。  実は自分が参加する競技プログラムの都合上、上条達の競技を最後まで|観《み》ているのは割と危険なのだが、どうも気になって、美琴は気がつけばここにいた。  周りには同じ|常盤台《ときわだい》中学の指定体操服を着た少女などいない。 (ウチの学校に勝てるはずはないと思うんだけどねー……)  美琴はこっそりと息を吐く。常盤台中学の生徒は|超能力者《レベル5》二名、|大能力者《レペル4》四七名、それ以下は全員|強能力者《レペル3》という実力主義の超難関エリート校だ。去年の|大覇星祭《だいはせいさい》では屈辱の二位だったが、その時の優勝校は、やはり常盤台中学と同じ五本揃の一つ、|長点上機《ながてんじようき》学園だ。結局、本当の意味での首位争いは、例年この『五本指』の中で行われる。それが崩される時は、『五本指』が入れ替わる時だ。  学園都市の人間なら|誰《だれ》でも知っていそうな事だが、どうしてこんな|無謀《むぽう》な勝負をけしかけてきたんだろう?と|美琴《みこと》は今でも首をひねる。ひねってから、あの|馬鹿《ばか》なら意図なんて何もなさそうだ、と思考が続く。 (でも……、)  番狂わせは起きるかもしれない。  |無能力《レベル0》だの|超能力《レペル5》だのといった客観的評価など、何もかも無視して。  そう、かつて学園都市最強の|超能力者《レベル5》を、その|右拳《みぎこぶし》一つで打ち破った時のように。  彼女のために、何度でも歯を食いしばって立ち上がってくれた、あの姿を見せて。 (……、)  美琴はほんの少しだけ思考を空白にした後、 (ああ、やだやだ!何を唐突に照れてんのよ私!!)  バタバタバタバタ!! と|下敷《したじ》きの|団扇《うちわ》で真っ赤になった自分の顔に風を送る。同じ学校の生徒に今の顔を見られてなくて良かった、と彼女はそっと首を横に振ったが、  ふと見ると。  彼女のすぐ近くに、銀髪|碧眼《へきがん》のシスター少女がうつ伏せで倒れていた。 「!?」  ビクッ! と美琴の肩が動く。確か、始業式の日にあの馬鹿と|一緒《いつしよ》にいた少女だ。インデックス、とか呼ばれていたが、ニックネームだろうか? とても本名とは思えない。何でここにいるのだろう、と少し疑問を感じたが、直後に氷解した。やっぱり応援のためだろう。  少女の右手にはお|箸《はし》がグーで握られていて、その近くには空っぽになったお弁当箱が置いてある。|土御門舞夏《つちみかどまいか》が売り子をしている学生食だった気がする。  と、うつ伏せになったままの少女は、ゆっくりとした声で、 「……お、お|腹《なか》、減った……」。 「今ここで弁当食った直後じゃないのアンタ!?」  美琴は反射的に叫んだが、ぐったりしてるのは空腹。ではなく熱中症とかじゃないでしょうね? と思い直し、シートの上に置いておいたペットボトルのスポーツ飲料を少女に手渡す。 少女は|瞬間的《しゆんかんてき》にガバッと身を起こし、『あ。、ありがとうごきゅ!』と叫んだ時にはもう中身を空にしていた。それからすぐに、またぐったり。とする、 「……の、飲み物でお腹を満たすのは、ちょっと荒技過ぎるかも……」 「アンタ、本当に腹が減ってるだけなのね……」  美琴はおでこに片手を当てて息を吐く。うつ伏せになった少女のお腹と地面の|隙間《すきま》から|三毛猫《みけねこ》がにゅるっと出てきて、『熔う治う姉ちゃん。ウチのもんが手え焼かせたな。ん? ……なんか変。な感じがするぞ?』と周囲をキョロキョロと見回している。  美琴の能力名は|超電磁砲《レールガン》で、超強力な電気使いだ。彼女は|黙《だま》っていても微弱な磁場を周囲に漏らしてしまうため、動物などにはあまり好かれない傾向がある。  彼女は、元気のない白いシスターを眺めつつ、 「ねえアンタ。今日アイツと会った? 何か様子とか変わってなかった?」 「ん? アイツって、とうまの事? とうまは別にいつも通りだったけど……」  いつも|一緒《いつしよ》にいんのかよ、と|美琴《みこと》は思わずツッコミかけたが、ふと考え直す。特に意気込みが変わらないというのなら、あんまり勝ちにこだわっていないのだろうか? (だとすると、やっぱりウチの学校が勝っちゃうけど……あれ。勝っちゃったらどうしよう?)  美琴は少し考え、それからブンブンブンブン!! と勢い良く首を横に振った。倒れたままの少女はそんな美琴を見て『?』と首を|傾《かし》げている。 「ねえ短髪」 「……、アンタ。それが飲み物分けてもらった人に対する呼び方なの?」 「ねえ太っ腹な短髪」 「それも何気に女性としてムカつく表現なんじゃないかしら=こ  美琴は|眉《まゆ》を片方だけピクピクと|震《ムる》わせて叫ぶ、シスターは気にした様子もなく、 「短髪はここで何してるの?」 「あん? な、何って、別に私は……」 「とうまの応援?」 「なっ、ば、いきなり何言ってんのよ。何で私があんなヤツの応援なんかしなくちゃならない 訳?」  そうなんだ、と白い少女はそれ以上追及して来なかった。|美琴《みこと》は|下敷《したじ》き|団扇《うちわ》でバタバタバタバタ!! と自分の顔を|扇《あお》ぎまくる。  と、校内放送を使ったアナウンスで、選手入場の合図が告げられる。  最初の競技は『棒倒し』———敵対する二組のグループが、それぞれ長さ七メートルぐらいの棒を立て、自軍の棒を守りつつ敵軍の棒を倒しに行く、といった内容らしい。競技に参加するのは高校の一学年分の生徒だという説明が、スピーカーのひび割れた声で流れる。  テレビカメラが来ると言っても、やはり基本は学校の運動会だ。テレビ放送用のナレーションは別のスタジオで行われるため、見た目に大きな変化がある訳でもない。もっとも、『テレビに映る』という事実だけで居場所の|雰囲気《ふんいき》や存在感が通常と大きく異なる訳だが。  実際に一八〇万人強もの学生|全《すべ》てをクローズアップする事など不可能に決まっているのだが、それでも|緊張《きんちよう》するものはする。  学生|達《たち》の|馬鹿騒《ばかさわ》ぎ的な歓声は大きいのに、不思議と体の中央に、シン……とした緊張感を秘めた静けさを|錯覚《さつかく》する。全世界公式行事、という言葉の意味を実感する|一瞬《いつしゆん》だ。  が、 「お、お|腹《なか》が、お腹が減って……」  うつ伏せに倒れたシスターが容赦なく張り詰めた空気を|叩《たた》き割った。美琴はあまりに|可哀想《かわいそう》なので、クッキー状のスタミナ携帯食(チョコ味)をポケットから取り出して、インデックスに差し出した。 元気のないシスターは倒れたまま顔だけ上げて、小さな口を開ける。美琴が指先で|摘《つま》んだ携帯食をインデックスの口へ蒜し出すと、割合大人しくムグムグと食べ始めた。 (ま、つってもあの馬鹿は緊張とかしないんでしょうねー……。それどころか、あいつの場合は平気な顔してサボりそうだからむしろ不安だわ)  と、美琴は校内放送のアナウンスに促されるように、何気なく校庭へ目を向けた。|上条《かみじよう》達の対戦相手はスポーツ重視のエリート校らしく、簡単な柔軟体操にも専門的な|匂《にお》いを感じさせる。 適度な緊張を運動力に変換できるような顔つきをしていて、公式試合にも慣れているようだ。 彼らは校庭の自陣側に集まり、各クラス一本ずつの棒を立てていく。  こりゃまともにやったら大変そうねー、と美琴は首を振って、対する上条達の方へ目を向ける。パンフレットを見る限り、彼の学校は進学校でも何でもなく、本当に個性のない『極めて一般的な学校』だ、と思っていたが[#「思っていたが」に傍点]、  そこに、本物の|猛者《もさ》達がいた。  はい……? と美琴は思わず自分の目を疑ってしまう。  その一団は妙な威圧感を放っているくせに、|野次《やじ》や騒ぎの一つも起こしていない。  むしろ無言のまま、|上条当麻《かみじようとうま》を中心点にして、校庭へ横一列に並ぶ。棒倒しというか、戦国時代辺りの合戦の一歩手前といった感じだ。所々に立てられた棒倒しの棒が、兵団の持つ|槍《やり》か何かに見える。テレビカメラによる|緊張感《きんちようかん》がどうのという次元ではない。もはや自軍と敵軍以外には何も目に入っていないに決まっている。  ドゴゴガガガガガガ、と彼らの周りから妙な効果音が鳴り|響《ひび》く。  三ケタ単位の能力の余波がぶつかり合って空気を|震《ふる》わせる音だ。 (い……、)  あまりに異様なテンションを前に、|美琴《みこと》は思わず叫びかける。 (……一体何なのよあの覚悟!? アイツ、こんなトコでなんて|無駄《むだ》なカリスマ性を発揮してんの! ま、まさかマジで勝ちに行く気な訳!? アンタ私に勝って罰ゲームで何を要求する気なのよーっ!? )  実際には|小萌《こもえ》先生のエピソードが全軍に伝わった結果なのだが、美琴にそんな事が分かるはずもなく。  顔色を真っ青にする美琴の前で棒倒し開始のアナウンスが入り、テンションの落差に恐れをなした敵軍の元へと、砂煙を上げて|上条達《ツワモノたち》が|襲《おそ》いかかっていった。      4  棒倒しに参加する人間は、自然と二つのグループに分けられる。  一つは自陣の棒を立てて、それを支える役。  そしてもう一つは、相手の棒を引きずり倒す役。  上条が選んだのは後者。  よって、彼は競技開始の合図と共に、真っ先に敵陣目がけて走っていく。 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」  駆けつつ、上条は叫ぶ。  たかが運動会の一競技に……と思うかもしれないが、ここは学園都市、生徒の大半は何らかの力に|覚醒《かくせい》した能力者なのだ。火、水、土、風、雷、氷、その他色々、何を飛ばすか分からない能力者同士が、一〇〇人規模で激突するのだから、気合と緊張の度合いは並大抵のものではない。  お互いの陣営までの距離は八〇メートル前後。  横一線に配置された敵陣営から、キラキラとした光が連続で|瞬《またた》いた。応援席のカメラのフラッシュのようにも見えるが、違う。  能力者による遠距離|攻撃《こうげき》だ。  おそらく放たれているのは、火炎か爆発系の能力を使って作られた爆圧。さらに、弾丸状に加工するために圧力系の能力を使って透明な壁で|覆《おお》っているはずだ。爆圧弾を作製する過程で弾殻が空気の屈折率を変えてしまうため、透明な風船に陽光が当たったように、光を照り返しているのだ。複数の能力者が協力して一種類の攻撃を形作るというのも、この|大覇星祭《だいはせいさい》ならではと言える。  圧力系の外殻が取り外される事で、中の爆圧が解放され、周囲に|衝撃波《しようげきは》が|撒《ま》き散らされるという仕組みだと|上条《かみじよう》は適当に予測する。  数+発単位で放たれる攻撃に対し、走る上条を背後から追い抜く形で、自軍から放たれた無数の砂の|槍《やり》が迎撃に入る。こちらは|念動能力《テレキネシス》を主体とした攻撃だ。元々は色も形もない『力』に過ぎないが、空気中に舞う|砂埃《すなばこり》が透明な「力』に反応したのだ。さながら、磁力線の流れに合わせて砂鉄がラインを描くように。  爆圧の弾と念動の槍が両陣営の中間地点で激突、爆発する。  突発的に生み出される暴風の塊に対して、応援席から絶叫マシンに乗った時のような、楽しげな悲鳴が連続で巻き起こった。 (そりゃまぁ……見ている側は楽しいかもしんねえけどさ!!)  上条は爆発音に若干身を|煉《すく》めながらも、さらに前へ走る。  相手校はスポーツ関連のエキスパートらしいし、能力開発にもかなり力を入れているのが|窺《うかが》える。まあ、|超電磁砲《レールガン》や|一方通行《アクセラレータ》といった一撃必殺を感じさせるようなものに比べればよほどマシなんだろうが……それにしても、怖いものはやっぱり怖い。  上条の右手には|幻想殺し《イマジンブレイカー》という能力が備わっている。|魔術《まじゆつ》だろうが超能力だろうが、神様の奇跡であっても触れただけで無効化させる|驚異《きようい》の力……なのだが、|所詮《しよせん》、効果範囲は右手一本。全方向から能力の|袋叩《ふくろだた》きにされたら防ぎ切れない。  と、そんな事を考えつつ敵陣に向かって走る上条の|隣《となり》を、何者かが並走する。  青髪ピアスだった。 「行きますよーカミやん。お高くとまった腐れエリート集団が放つ、あの二枚目オーラ。お笑い専門のわたくしめが見事|木《こ》っ|端微塵《ぱみじん》に打ち砕いてみせましょう! わはははははーっ!!」  迎撃組が|撃《う》ち漏らした爆圧の弾丸が何発も|襲《おそ》ってくるが、青髪ピアスは笑いながらバレリーナみたいにクルクル回転しつつ、全弾を余裕で|回避《かいひ》していく。  両陣営、激突までおよそ二〇メートル。もう|余所見《よそみ》ができる状態ではないのだが、上条は並走する青髪ビアスへ、|呆《あき》れたような声で、 「ってか、何でお前はそんなに|嬉《うれ》しそうな訳?」 「ああん!? カミやん、愛ですよ愛! 汗と涙で|躍動《やくどう》するスポーツ少女|達《たち》の淡い心が織り成すサディスティックなラブが全国ネットで、いや|多国籍《たこくせき》放送で展開中なんやで! こんな手段を選ばぬほどの|膨大《ぽうだい》な愛受け止められずしてハーレムルートなど切り開けるものかー!!」  あはあはあはーっ!! と青髪ピアスはテンション上昇と共にさらに動作が高速になっていくが、 「あのさ……。あっちに見えるムキムキの|坊主刈《ぼうずが》り男もラブの|範疇《はんちゆう》に入ってる訳? さっきからお前に向かって、|頬《ほお》を赤らめつつの熱烈ラブコールを送ってきてるみたいだけど」 「何を冗談ばかり言って———って、ぎゃあああ。ああああああ!?」  |上条《かみじよう》の冷たい指摘と共にラブコールの正体に気づいた青髪ピアスが凍りついた直後、爆圧の弾丸を受けて彼の体が真後ろへ飛んでいった。ギョッとして振り返ると、味方の|念動能力《テレキネシス》の見えない力を浴びて、青髪ピアスが空中でキャッチされていた。  一般来場客用応援席から湧き上がる歓声と拍手。 (あっ、当たると結構飛ぶんだな、おい。っつか、あんなアトラクション的なやられ方するなんて真っ平ですよ! しかも応援席は『|大覇星祭《だいはせいさい》はこうでなくっちゃ」って空気だし!!)  上条は後方に吹っ飛んで行った青髪ピアスから、前方へと視線を戻す。  そちらに見えるのは敵陣営。  激突まで、およそ一〇メートル。上条|当麻《とうま》は右の|拳《こぶし》を|密《ひそ》かに握り|締《し》める。  直後、彼は敵陣の真ん中へと突っ込んだ。      5  結論を言うと、上条|達《たち》は競技に勝った。  正面からスポーツとして争えば|端《はな》っから負けるに決まっている、と|踏《ふ》んだ彼らは、両軍が激突する寸前で持てる|能力《スキル》の|全《すべ》てを地面に放って土煙を上げ、敵軍の視界を奪って|奇襲《きしゆう》を仕掛ける|電撃《でんげき》戦に出たのだ。教員達は|砂埃《すなぼこり》が舞うのを防ぐために競技開始前に散水していたが、地面の土を丸ごとすくい上げるような連撃までは対処しきれない。発案者の|吹寄制理《ふきよせせいり》はパーカーの前を押さえつつ、『土煙を上げる弾幕係』『土煙に紛れて棒を倒す係』『土煙を上げる号令や、上煙の中にいる味方を|撤退《てったい》させるタイミングを伝える|念話能力《テレパシー》係』と、生徒達の役割を完全に分担し、さらには全体の指揮まで執ってくれた。  途中、土煙を上げる号令に使われた|念話能力《テレパシー》が届かず、不幸にも先に突っ込んでいた上条が、味方の弾丸に吹っ飛ばされた挙げ句に敵軍にタコ|殴《なぐ》りにされたりしたが、結果は結果である。  |擦《す》り傷だらけの|猛者《もさ》達は、その手で勝利をもぎ取った事も|怪我《けが》の事も全く気に留めずに選手用出口から校庭の外に出る。と、半分涙一の|小萌《こもえ》先生が救急箱を抱えて待っていた。 「ど、どうしてみんな、あんな|無茶《むちや》してまで頑張っちゃうのですかーっ! 大覇星祭はみんなが楽しく参加する事に意味があるのであって、勝ち負けなんてどうでも良いのです! せ、先生はですね、こんなボロボロになったみんなを見ても、ちっとも、ちっとも|嬉《うれ》しくなんか……ッ!!」  何か訴えていたが、ここは多くは語らないのが美徳だとばかりに生徒|達《たち》は三々五々と散っていく。|上条《かみじよう》も選手控えエリアから出て、応援席にいるインデックスの姿を捜し始めた。  インデックスがいるのは、学生用応援席のはずだ。  本来なら学生以外は禁止だが、上条は一般来場客用の応援席にインデックスを送るのに気が引けたのだ。彼女は一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を頭の中に収める魔道書図書館だ。そしてその価値は、学園都市の中より外の方で認められている。 「インデックスー? っと、アイツどこ行ったんだ?」  が、彼女のいるはずの学生用応援席を|覗《のぞ》いてみても、それらしき姿は見つからなかった。応援席と言っても土の校庭の上に青いビニールシートを|敷《し》いただけで、|遮蔽物《しやへいぶつ》になるようなものなど何もないが……なんと言っても、この人混みである。あちこちを行き来する生徒達が人の壁になってしまっていて、周囲を見回すだけでも苦労する。  上条は人の波を|潜《くぐ》るように、応援席の端から端まで歩き、インデックスが見つからないと、また元の道を戻った。それでもやはり、彼女を発見できない。 (うーん……あれだけ目立つ真っ白な修道服着てりゃすぐに分かると思ったんだけどなー)  と、彼はゴソゴソと体操服の短パンのポケットに手をやり、それから少し離れた所に建っている校舎へ視線を移す。 (インデックスには〇円ケータイ渡してあるし、あれで連絡取って合流するのが一番手っ取り早いんだけど、|俺《おれ》のケータイは教室に置いてきちまったか)  インデックスが一度も携帯電話を使っている場面を見た事がないのがかなり不安だが、現状ではそれがベストだと上条は判断した。  |大覇星祭《だいはせいきい》期間中は、校舎内への立ち入りを禁止している学校も多い。能力開発の|時間割《カリキユラム》りに関する設備もあ。るから、外部の目にさらす訳にはいかないのだ。が、上条のように、元々この学校の生徒の場合は問題ない。|怪我人《けがにん》のために保健室には校医さんが控えているし、シャワー室なども開放されている。  そんなこんなで、上条は昇降口に向かう。  |下駄箱《げたばこ》の所には、黒っぽい装備に身を固めた|警備員《アンチスキル》が二人いた。|普段《ふだん》、黒板の前で歴史や数学を教えている先生が銃を携帯している光景は少しシュールだ。 「あー、人混みの中から迷子を見。つけたいんで教室に携帯電話取りに行っても良いですか?」 「また随分と直球な言い草だな、上条。電波状況などで連絡がつかない場合などに校内放送が必要なら、こちらに連絡しろ。話は以上だ、良い大覇星祭を」  数学教師はやや面倒臭そうな調子で答えた。とはいえ、要点だけは的確に押さえてあ。る辺りは、|流石《さすが》訓練を受けている身である。  |上条《かみじよう》は|警備員《アンチスキル》の横を通り抜けて、昇降口に入る。|下駄箱《げたばこ》で|上履《うわば》きに履き替えて、階段へ向かう。無人の校内は結構静か———かと思いきや、スピーカーから流れる校内放送のアナウンスがグワングワン|反響《はんきよう》して、かなりうるさい。  彼は階段を上る。廊下を少し歩けば、もうすぐそこが上条のクラスだ。自分の教室の前まで|辿《たど》り着き、出入り口の引き戸を開け放った上条は、 (|姫神《ひめがみ》もクラスのみんなと|馴染《なじ》めてるようで、良かった良かった。さて、と。じゃあ携帯電話拾って、さっさとインデックスと連絡つけよう。姫神も暇だったら|一緒《いつしよ》に、みんなで回ってみるのも楽しそうだし———)  直後、その場で崩れ落ちた。  |何故《なぜ》ならば、運営委員の|吹寄制理《ふきよせせいり》が服を脱いでいたからだ。  戸を開けるまで分からなかったが、窓は|全《すべ》てカーテンで|塞《ふさ》がれている。そして|薄暗《うすぐら》くなった教室の中で一人、手近な机に腰掛ける形で上条と向かい合っている吹寄制理は、下着一枚の格妊だった。本当に一枚で、ブラすらない。どうやらホースの水を浴びて生乾き状態となっていた衣服を、取り替えている最中らしい。今、彼女が身に着けているショーツも新品らしく、|濡《ぬ》れた衣服一式は下着も含めて足元のビニール袋の中に放り込まれている。残りの衣服は、ビニ ール袋の|隣《となり》に置いてあるスポーツバッグの中なのだろう。  |吹寄制理《ふきよせせいり》は、顔色一っ変えずに侵入者を眺めていたが、 「…………………………………………………………………………………………………、」  やがて、無表情のまま近くにあった|椅子《いす》に両手を伸ばした。  ビクゥ!! と|上条《かみじよう》の肩が|震《ふる》え、 「まっ、待って吹寄さん! これは迷子と合流するために携帯電話を取ってこようとやった事で決して|邪《よこしま》な思いがあった訳ではないのです豊後それから教室の椅子は取扱説明書を良く読んでから使ってみよう! っていうかそんなんで|殴《なぐ》られたらホントに死んじゃう!!」  ズザァーツ!! と〇・二秒で|土下座《どげざ》を完了させる上条|当麻《とうま》。そんな少年の姿を見て、吹寄はくだらなそうに小さく息を吐くと、椅子から手を離した。彼女は足元のスポーツバッグから、とりあえず替えのパーカーを取り出した。彼女は裸の上から、それを羽織りつつ、 「もう良いから。とにかく一度、教室から出て行きなさい」 「……、怒っていませんか?」 「迷子を捜しているっていうなら仕方がないでしょう。って、土下座は繰り返さなくて良いから顔を上げるな上条当麻!」  パーカーを羽織ってはいても下はショーツ一枚の運営委員である。しかも|焦《あせ》っているのかパーカーの前を留めるファスナーをなかなか上げられずにいるが、彼女と同じぐらい動転している上条は、吹寄制理の手元の震えには気づいていない。  ははあーっ! とお殿様を見送る家来のような土下座のまま、ずりずりと後ろ向きに教室から出て行こうと思のていた上条は、 「……、マジで怒ってません?」 「良いから出て行け!」  吹寄が机の上に置かれていた紙箱を上条の頭に投げつけてきたので、彼は慌てて教室から飛び出した。スパンと引き戸を後ろ手に閉めると、彼は廊下に座り込んで深呼吸する。 (あーびっくりした……)  上条は首を横に振ってから、視線を下に落とした。その時、廊下に|煙草《タバコ》のパッケージぐらいの大きさの紙箱が落ちているのに気づいた。これってさっき吹寄が投げてきた箱か? と上条は手に取って眺めてみる。 『携帯電話の下部コネクタに接続するだけで使用できる遠赤外線|治療器《ちりようき》「あつあつシープさん」。肩こりから疲労回復まで何でも効きます!!』  とか書かれている。  しかも箱の表面を見ると、本体はデフォルメされた羊の形をしているらしい。|美琴《みこと》の学生|鞄《かばん》についているカエルのマスコットグッズと同じ系列の商品だろう。 「……わざわざ携帯電話に取り付けるようなアクセサリーか、これって。肩こりから疲労回復って、また意外に狭い範囲だし。こんなあからさまに怪しい商品に引っかかる人間が、この地球上に存在したのか……。ありゃ、これって深夜にやってる通販番組で紹介してたヤツじゃん!」  もっとも、|上条《かみじよう》の場合はテレビのある部屋でインデックスが|健《すこ》やかに眠っているため、深夜番組は携帯電話についているテレビ機能を使って眺めるしかないのだが。  一方、教室の中の|吹寄《ふきよせ》はそんな上条の嘆きに気づいている様子もなく、 「上条、貴様の携帯電話って机の中にあるの?」 「あ、机の上にバッグ置いてないか。その中に入ってるけど」 「着替えたらそっちに持っていくから、貴様はそこで待っていなさい!」 「さんきゅー吹寄。じゃ、お前が投げた変な通販グッズと交換な。しっかし、吹寄ってこの手の通販とか利用する人間には見えなかったんだけどなあ」  そんな上条の声に対し、教室の中から『わっ、え!?』と慌てたような声が聞こえてきた。とっさに自分が何を投げたのか、今まで気づいていなかったらしい。  ややあって、出入り口の向こうから、吹寄|制理《せいり》の声が飛んでくる。 「べっ、別にそんな事はどうでも良いでしょう? それとも何、あたしがメモを片手に通販番組を|観《み》たり、ベッドの上でゴロゴロしながら通販雑誌をめくっているのが何か悪い訳!?」 「い、いや、良いとか悪いとかじゃなくてさ、ただ意外だなーと思っただけで……」  吹寄は、ツッコミは得意でもツッコまれるのは苦手らしい。上条は無難な言葉を返したつもりなのだが、教室の向こうからはさらに早口言葉みたいな|台詞《せりふ》が|繰《く》り出される。 「何よ。あたしの部屋がアイデア調理器具でいっぱいになってようが、雑誌で見た時は便利そうだったんだけど、いざ手元に来るとそんなに大した事なくて、結局二回か三回使ったまま後は放ったらかしにしていようが、貴様には何の関係もないじゃない!」 「そんな状況になってるんかい! っていうかお電話する前に一度冷静に考えてみよう吹寄!」  クラスメイトとして親切。な忠告をしたつもりだったが、さらに教室の中から『だって底がギザギザになってるフライパンとか、すごく|魅力的《みりよくてき》に見えるじゃない。お肉を焼くと脂分が三〇%も落ちるとかって宣伝されてるのよ。実際には底の凹凸のせいで目玉焼きも焼けなかったけど!』とか壮絶な言い草が飛んできたので、上条はそれ以上ツッコまないようにした。  と、上条は手元にある羊型の遠赤外線アクセサリーの箱をもう一度眺め、 コ肩こりに効く……ねぇ」 「何で|認《いぶか》しげなのよ。別にこの|歳《とし》で肩こりになってたって良いじゃない!」 「いや、そうじゃなくて」上条は廊下に座り込んだまま、|天井《てんじよう》を見上げて、「……肩こりってさー、やっぱ吹寄の胸が大きいからなのかなーとかって———ハッ! しまっ……!!」  直後。  引き戸をぶち破って飛んできたスポーツバッグが、上条の体に|直撃《ちよくげき》した。おまけにしっかり|上条当麻《かみじようとうま》の携帯電話まで投げ渡してくれた、親切|丁寧《ていねい》な運営委員の|吹寄制理《ふきよせせいり》さんだった。      6 「とうまー……って、あれ?——どうしてちょっと涙目なの?」 「何でもありません……」  |可愛《かわい》らしく小首を|傾《かし》げる白い修道服の少女に、上条は|震《ふる》える声でそう答える。同時に、彼女の姿を見つけるまでに繰り広げた大冒険は語らない方が良いと考えていた。しかも挙げ句の果てに、結局インデックスの〇円携帯電話は電池切れだったため(そもそも彼女は充電どころか電源という胃葉の意味すら理解していなかった)、上条はインデックスのド派手な修道服を|頼《たよ》りに捜す羽目になったのだ。  場所は再び学生用応援席に戻っている。人混みを|掻《か》き分けて上条の元へやってくるインデックスは、|三毛猫《みけねこ》と|一緒《いつしよ》に|何故《なぜ》か空っぽになったスポーツドリンクのペットボトルを抱えている。同じ腕に抱かれた三毛猫は割と無反応で『猫がペットボトルを怖がる? そりゃ迷信だってー』とばかりにミギャーと|呑気《のんき》にあくびをしている。 「……そ、そんな事よりお|腹《なか》が減ったよ大至急何かを食べさせてよ……とうまー」 「え、だってお前弁当は!? っつか何で精気に飢えた|怨霊《おんりよう》みたいになってんだよ!」 「さっきこの辺にいた短髪に、ドリンクとチョコクッキーももらったけど……ちっとも……」 「ちっとも!? 弁当の|他《ほか》にもバクバク食べておきながらその感想か! ってか短髪って|誰《だれ》だ!? 誰でも良いけどちゃんとありがとうって言ったのインデックス!?」  上条は叫ぶがインデックスはあ。まり反応を示さない、よく女の子はお菓子は別腹だと言うが、彼女の場合は一品一品を完全分別処理できるような構造になっているのかもしれない。  お弁当で満足しないという事は、どうあ。っても屋台に行かなければならないのだろうか、と上条は適当に考える。とりあえずインデックスに預けておいた分厚いパンフレットを見ると、次に参加する「大玉転がし』までは、少しだが時間に余裕がある。 「ま、いいか。とにかく応援席から出るぞ。さっきの屋台エリアまで行きゃ食べ物なんて山ほどあるんだし」  それを聞いたインデックスは、グルン!! と勢い良く首を回して上条を見据え、 「山ほど!!」 「い、いや、あ。くまで山ほどあるだけで、上条さんの垢財布でその|全《すべ》てを|網羅《もうら》できるとは言っていない! やめうそんなキラキラした目でこっちを見るな罪悪感がーっ!!」  嘆く上条は体操服の短パンのポケットにねじ込んでおいたお財布の中身を確認する。一応いくらか入っているが、これは|大覇星祭《だいはせいさい》期間中、七日間の全財産だ。初日で使い切れば後に待っているのは確実な悲劇である。  |上条《かみじよう》はどうインデックスの|手綱《たづな》を握るべきか悩みながらも、とにかく屋台エリアへと向かう事にした。|隣《となり》では、まだ見ぬ食の殿堂に|想《おも》いを巡らせているインデックスが、|瞳《ひとみ》や髪や肌などとにかく全身を輝かせている。精神活動は人休に物理的な|影響《えいきよう》を及ぼす、という心理学か何かの学説はマジだったらしい。  と、上条とインデックスは大きな横断歩道に差し掛かった。  信号が赤になったのを見て、上条とインデックスは立ち止まる。基本的に|大覇星祭《だいほせいさい》期間中の学園都市は一般車両通行禁止だが、白律バスやタクシー、運搬トラックなど業務車両は運行している。|溢《あふ》れるほどの人がいても歩行者天国にできないのはそういった理由があるのだ。  屋台エリアは、この表通りを渡ったその先だ。すでに道路の向こうからはソースや|醤油《しようゆ》の焼ける|匂《にお》いがうっすらと漂ってきている、信号が膏に切り替わり、インデックスのキラキラ具合が本年度最高の数字を|叩《たた》き出した所で、  ガラガラガラガラ、と。  学園都市の治安を守る|警備員《アンチスキル》さんが、目の前に通行止めの看板を持ってきた。 「あーごめんねえ。ここ、もうすぐ吹奏楽部の複数校合同パレードが始まるじゃんよ。そろそろ人の流れを|堰《せ》き止めておかないと整備が聞に合わないじゃん」  その|警備員《アンチスキル》は二週間ぐらい前に始業式でお世話になった女性のようだ。黒い髪を後ろで適当に結っているだけの、しかし恐ろしくスタイルの良い美。人の教師。いつか見た緑のジャージではなく、黒を基調とした正規装備で身を固めている。ヘルメットがないのは、一般客に悪いイメージを与えさせないための|配慮《はいりよ》だろうか? ジャージだの装甲服だのではなく、もっとまともな服を着れば良いのに、と上条は思う。  一般客に対するイメージ、というのは、大覇星祭を開催するにあたって学園都市の上の人間が最も注意を払っているポイントらしい。というより、開催日的の半分ぐらいはイメージ戦略との事だった。  学園都市はご覧の通りの|閉鎖《へいさ》環境にあるが、それにも限度はある。完全に情報を非公開にされた施設の中で、|得体《えたい》の知れない科学技術の研究を進めている、などという話になれば、周囲からの反発は|避《さ》けられない。そこで年に何回か、学園都市は一般に開放されるのだ。  もっとも、能力開発を中心とした機密事項には一切触れられないように、研究エリアの警備体制は常より厳重になっている。その厳戒態勢を『一般人には感じさせない』のがプロの技らしい。  |警備員《アンチスキル》のお姉さんの格好も、そういったイメージ戦略の一環なのだろう。確かに、素肌が全て隠されているゴツイ完全装備で身を固めるより、美人の顔が見えていた方が好印象だとは思。フ。  |上条《かみじよう》は通行止めの看板と、横断歩道の先を交互に見て、 「えーっと、あっちまで渡りたいんですけど、どこまで|迂回《うかい》すりゃ良いんですか?」 「あ。りゃ。大親模パレードだから直線で前後八キロぐらいのコースは通行止めじゃんよ。パンフレットの予定表にも書いてあったと思うんだけど、うーん」|警備員《アンチスキル》のお姉さんはパンフレットをめくり、「この辺は歩道橋もないじゃんよ……。一番近いトコで、ここじゃん? 西に三キロの地点にある地下街。ここの入り口U04から出口VO1を経由すれば、地下から横断できるけど……」  さんきろ。……ッ!? と上条は絶句する。、  |隣《となり》を見ると、そんなには歩けん、という顔をしたインデックスが空腹に耐えかねて、今まさに無言で崩れ落ち。る所だった。      7  |御坂美琴《みさかみこと》は街を走っていた。  区切られた競技場の中ではなく、本当に人の|溢《あふ》れる大通りだ。立ち入りの制限や道路の整備なども行われていない。  こんな状況だが、今の美琴は競技中の身だ。チラリと横へ視線を巡らせれば、通りを挾んだ向かいの歩。道にも複数の選手が走っているのが見える。  一般来場者の立ち入りを制限せず———むしろ彼らの存在が必須である、唯一の競技。  借り物競走である。  ただし競技範囲は学園都市の第七、八、九学区全域。当然ながら自律バスや地下鉄などの交通機関の使用は禁止だ。競技場から出発し、指定の物品を探し出し、元の競技場へ戻るという流れはマラソンを複雑化させたようなニュアンスがある。また、ただのマラソンと違って決まったコースが指定されないため、いかにして最短のルートを自分で構築するか、という頭脳プレイも重要となる。それも机にしがみついて頭を悩ませるのではなく、長距離走で常にスタミナを削り続ける状況で、だ。競技範囲の広さに比例して、探す物品の難易度も高い事で有名な競技と…再われていた。 (ええいっ。こういうのは|空間移動《テレポート》を梗える|黒子《くろこ》の得意分野でしょうが! ったく、せめて同じ学園都市の連中だけが集まってる中ならやりやすいのに!)  彼女の能力は絶大な威力を誇るが、逆に競技と無関係な人間が集まる中では扱いにくい。学園都市統括理事会も一般者への|配慮《はいりよ》のつもりか、競技の条件に『干渉数値5以上の能力使用を禁ず」と設定している。美琴の力ならどう調節してもオーバーしてしまう数値だ。  美琴は給水ポイントに差し掛かったが、置いてあったスポーツドリンクは無視して先へ進んだ。長距離走において、過剰な水分補給は逆に足を鈍らせるだけだ。  彼女は手の中にある紙切れをもう一度開く。  そこに書かれた、指定された物品の名前を確かめる。 (また面倒なものを引き当てちゃったわね。……っと"じ  人混みをかき分けるように走り続けた彼女は、ふとその先に、目的の『物品』を発見した。  条件にはこうある、 �指定された物品が第三者の所有物である場合、その人物に了承を取った上で、第三者と共に競技場へ向かう事。” (ようし!!)  |美琴《みこと》は高反発素材の靴底で地面を|蹴《け》り、一気に人の山を|潜《くぐ》り抜けていく。  |上条《かみじよう》は通行止めの看板にすがりついて嘆くインデックスの肩に手を置いた。 「なぁインデックス。ここにいても寸止めで|匂《にお》いを|嗅《か》がされるだけだって。ほら、パンフレットに屋台の出店エリアは書いてあるんだからさ。|他《ほか》を探そうぜ他を」 「う、うう。手を伸ばせばそこにあるのに、決して|掴《つか》む事はできないだなんてーっ!」  妙に詩的な泣き言を叫ぶインデックス。通行止めの看板を置いた|警備員《アンチスキル》の乾姉さんはバツが悪そうな顔をしていたが、かと言って規則は規則なので通す事はできないらしい。 「と、とうま。じゃあ次に近い『やたい』ってどこにあるの?」 「あん? えーっと……これじゃねーか」上条は適当にパンフレットをめくり、「西へ三キロ。あ、これ|迂回《うかい》ルートの地下街の出入り口と全く同じ場所じゃねーか」 「……、う、うああ」 「うーん、でもここまで歩いていくと次の競技に間に合わないかもしんねーな。バスのルートは……ありゃ。ちょうどパレードの時開帯はこのルート迂回されんのか。あーあ。|駄目《だめ》だインデックス。次の大玉転がしが終わるまで我慢な」 「……(ブチッ)」 「って、え? ちょっと! 何でここでお前が|俺《おれ》にキレちゃう訳!? 屋台の位置も競技のプログラムもバスの運行ルートもその|全《すべ》てにおいてわたくし上条|当麻《とうま》は一切関係していないと思うのですがーっ!!」  聞く耳を持たないインデックスは、その|可愛《かわい》らしい口をモンスターのように大きく開けて飛び掛かってくる。近くにいたはずの|警備員《アンチスキル》のお姉さんすら反応できなかったほどの速度だ。|食《しよく》されますか俺!? と上条は思わず身構えたが、  彼の姿が高速でプレる。  がちん、とインデックスの歯が何もない所を|噛《か》んだ。  あれ? という表情を浮かべる少女。これまで噛み付きの命中率及び|撃墜《げきつい》率は共に百発百中の精度を誇っていたのだ。  だが外した所で無理もない。  |何故《なぜ》なら、右から高速で飛び出してきた|御坂美琴《みさかみこと》が、|上条《かみじよう》の首の後ろを|掴《つか》んで勢い良く左へと消えて行ったのだから。 「おっしゃーっ! つっかまえたわよ私の勝利条件! わははははーっ!!」 「ちょ、待……苦じィ! ひ、一言ぐらい説明とかあっても……ッ!!」  |呆然《ぽうぜん》とするインデックスの前で、二人の姿が人混みに紛れていく。ぐったりと地面に突っ伏していくシスター少女。に、|警備員《アンチスキル》のお姉さんは見るに見かねたのか、ビスケットに似た携帯食料を差し出してきた。      8  ポロ|雑巾《ぞうきん》のようになった上条は御坂美琴と共に競技場に入り、ゴールテープを切った。  先ほど、上条が棒倒しを行ったのとは別次元の競技場だ。スポーツ工学系の大学が所有している物らしく、オレンジ色のアスファルトの上に道路に使うような白線が舗装された、公式陸上競技場だった。客席もスタジアムのような階段式になっていて、報道用のカメラの数や警備に当たる人数も段違いだ。  待機していた運営委員の高校生が、美琴にマラソンのゴール直後のように大きめのスポーツ タオルを頭から|被《かぶ》せた。ドリンクの手渡しや小型の酸素吸入用ボンベの使用などもテキパキしているし、それは実用本位のみならず、カメラに映る事すら|考慮《こうりよ》した動きのようにも見える。この後は表彰式と簡単なインタビューがあるはずだ。後続の選手|達《たち》が到着するまでは、別の所で待機といった感じか。 (場違いだ……。なんか運営委員はスポーツ工学極めたトレーナーみたいな動きしてるし)  と、|美琴《みこと》の世話を終えた運営委員の高校生が、|上条《かみじよヨつ》の顔をジロジロと見てきた。何だ何だ、と上条はちょっと身構えたが、その時運営委員は小声で言った。 「……(上条|当麻《とうま》。一応、『借り物』の指定は間違っていないみたいだけど、よっぽど女の子と縁があるようね貴様は!)」 「……(その声は……、うわっ! |吹寄《ふむよせ》サン!?)」  上条が改めて見直すと、それは間違いなく吹寄|制理《せいり》だった。|半袖《はんモで》のTシャツに短パンを|穿《は》き、上から|薄《うす》いパーカーを羽織った吹寄は|一瞬《いつしゆん》身動きを止めたが、今は仕事中だからか、声を荒げて|絡《から》んでくるような事はなかった。彼らは小声で、 「……(先程は大変申し訳ありませんでしたわたくし上条当麻の不注意によってよもやアナタサマの着替えを|覗《のぞ》いてしまうとは)」 「……(こちらは忘れようと努めているのだから蒸し返さないで上条当麻!)」 「……(ううっ、マジですみませんでした。うーん、ところで吹寄。あの通販の羊型遠赤外線マシンってそんなに気持ち良いモンなの?)」 「……(———欲しいの?)」 「……(べ、別にちょっと気になっただけだもん。欲しいなんて言ってないもんっ!)」 「……(|黙《だま》りなさい。皆真剣にやっているのだから、とにかく選手と競技の運営にだけは|邪魔《じやま》しないでよ!)」  吹寄は上条の言葉など聞く耳を持たず、ドリンクケースと|一緒《いつしよ》に地面に置いてあったクリップボードを拾い上げて、何か競技記録らしきものをボールペンで書き込み始めた。ちなみに上条達のすぐ近くで美琴が少しだけムッとしている事には|誰《だれ》も気づいていない。  吹寄がこれ以上上条と話す気はないらしい事を会話と|雰囲気《ふんいき》で|欄《つか》んだ彼は、自分をここまで強引に引っ張ってきた美琴の方へ振り返って、 「ところで|御坂《みさか》。上条さんは汗だくになってちょっとふくらはぎの辺りがパンパン風味になるほど走らされたんだけど、ルールには第三者の了承を得て連れてくるように、とあるようだが目の|錯覚《さつかく》ですか?」 「あーあー錯覚錯覚。っつか事後|承諾《しようだく》が|駄目《だめ》とは一言も書いてないじゃない」 「……、」 「ほら、情けないから座り込もうとしない。ったく、だらしがないわね」  美琴は自分の体を|覆《おお》っていたスポーツタオルを上条の頭に被せた。その上から両手を使ってわしゃわしゃわしゃー、と顔の汗を|拭《ぬぐ》っていく。子供が|濡《ぬ》れた髪を|拭《ふ》いてもらうような仕草に似ていて、|上条《かみじよう》はやや屈辱的だったが、結構強引な力加減なので振り払えない。バタバタと両手を振る仕草が余計に子供臭く思えてきたので、上条はもう|黙《だま》って身を任せる事にした。  それから|美琴《みこと》はストローのついたドリンクボトルを手渡そうとしたようだが、ふと飲み口を見て、彼女の手が止まる。美琴は|吹寄《ふきよせ》の顔を見て、スポーツドリンクのボトルを軽く揺らした。クリップボードに何かを書き込んでいた運営委員の吹寄|制理《せいリ》は顔を上げると、首を横に振った。一人の選手が二本以上のドリンクを要求するのは規則で禁止されているらしい。 「……………………………………………………………………………………………………、」  美琴はしばらくそのまま固まっていたが、|折悪《おりあ》しく、何やら|喉《のど》に|埃《ほこり》が入ったようにケホケホと|咳《せ》き込み始めた上条の様子を見て、うっ、と|怯《ひる》んだ。彼女は数秒、ぶるぶると|震《ふる》えると、 「ええいホントに|鵬抜《ふぬ》けているわね! 仕方がないからあげるわよ! ほら!!」 「ぐあーっ!!」  ぐいーっと上条のほっぺたにドリンクボトルの側面を押し付けた。ストローから噴水のように液体が飛び出した気がするが美琴は見ていない。顔を真っ赤にした彼女は、上条から背を向けると表彰台の方へ消えていく。クラス対抗、学年対抗の競技の場合は人数の関係で割と|大雑把《おおざつぱ》だが、個人種目の場合は三位までの選手はきちんと表彰されるのである。一位の美琴は当然表彰組だ。  横の吹寄は無言のまま、思い切り|軽蔑《けいべつ》の舌打ちを鳴らしたが、やはり今は競技中なので、彼女も次の選手を迎えるための準備に向かって行った。  当然ながら表彰されるのは美琴一人であり、上条の存在はパン食い競走で言うならパンでしかない。競技が終われば用済みなので、出口へ向かうだけなのだが、 (ふ、|踏《ふ》んだり|蹴《け》ったりだ……。っつか、選手よりも巻き込まれる一般客の方が大変な競技なんじゃねーのかこれ? 本来なら一般客のペースに合わせて移動する事により、選手単休の実力が発揮できないのがこの競技の味なのでは?)  と上条はようやく疑問に突き当たるが、答える者はもういない。もらったドリンクをチューチュー吸いながら、インデックスはまだあの通行止めエリアで待っててくれているだろうか、とか考えていたが、  ふと、風に流されて紙切れが飛んできた。  借り物競走の指令書のようなものだろう。ダントツ一位の美琴以下の後続はまだ競技場に着いていないから、これは間違いなく彼女が持っていた物だ。吹寄もクリップボードに何か記録を書き込んだ後だし、もはや必要ないのだろうか。放っておいても清掃ロボットが処理するだろうが、何となく上条は燃えるゴミを拾ってみる。 (な……、)  そこに書いてあったのは。 『第一種目。て競技を行った高等学生』の一言のみ。 (なんじゃ、こりゃー……。た、確かに『棒倒し』は開会式の後すぐにやったけどさ。|俺《おれ》以外にも条件に合いそうな人間なんて、軽く一〇万人以上はいそうな気がするんだが……俺が走らされた、のは、一体……?)  ずどーん、と急速に疲労が|溜《た》まっていく|上条《かみじよう》は、肩を落としてトボトボと出ロへ向かう。向かいながら、あれ? でも何で|御坂《みさか》は俺が棒倒しやってた事を知ってたんだろう? と少し疑問に思った。      9  競技場からインデックスと別れた地点までは結構な距離があった。  なので、上条はバスを利用する事にする。  現在、走っているバスの七割は無人の自律走行バスである。上条がバス停の横に臨時で取り付けられたボタンを押すと、エンジン音を|響《ひび》かせない、電気主力のバスが滑るようにやってきた。  旅客機、列車、船舶などの無人操縦技術が開発中だが、中でも一番難しいのは自動車らしい。道路は陸海空の全エリアの中でも、圧倒的に複雑な制御と判断を求められる。なので現時点では|大覇星祭《だいはせいさい》期間中のような、交通制限がある中でしか利用できないようだ。  上条は自動で開いたドアを潜って車内に入る。一般車の来場が禁止されているため、中はかなり混雑していた。運転席は一応あるが、強化ガラスのシールドによって電話ボックスのように隔離されていた。|誰《にれ》もいない運転席でハンドルやアクセルペダルが|滑《なめ》らかに動く様子は、見ているだけで不思議な気分になる。  ガソリンを使っていないため、極端に静かな自律バスは途中で何度か人を乗り降りさせた後、上条を目的地に運んでくれた。  上条はバスから降りる。  ここはまだインデックスと別れた地点ではなく、少し離れた場所である。吹奏楽のパレードで通行止めされた道路があるため、一時的にバスの運行ルートが変わってしまっているのだ。  トコトコと道を歩いていると、|雑踏《ざつとう》の物音に混じって、あちらこちらから競技の放送が聞こえてーる。競技場からのスピーカーは元より、デパートの壁や飛行船のお|腹《なか》にくっついた|大画面《エキシビジヨン》や、テレビ局が臨時で作った屋外中継スタジオなど、様々な媒体が利用されている。 『えー、先程の男子障害物競走の結果についてですが、判定を行った所———』 『今後一時間以内に競技が開始される競技場は次の通りです。競技が 度始まりますと途中入場は受け付けておりませんので、くれぐれもお気をつけ———』 「四校合同の借り物競走でしたが、やはりというか期待を裏切らないというか、|常盤台《ときわだい》中学の圧勝でした。中でもトップ選手は|他《ぽか》に比べて七分以上も差をつけた状態でのゴールという快挙を成し遂げ——』 『迷子のお知らせです。フランスのサントロペよりお越しのシャルル=ゴンクール様。お聞きでしたら最寄の警備ロボットのカメラにご本人のお顔と、学園都市発行の|大覇星祭《だいはせいさい》入場パスをお映し願います。場所の特定が済み次第、至急そちらへお子様をお送りいたします。Veuillezl'entendre. Nous vous annoncons un enfant manquant.———』  あちらこちらでボリュームをガンガン上げて垂れ流される放送を耳にしつつ、|上条《かみじよう》はキョロキョロと辺りを見回す。 (さて、と。インデックスのヤツ、勝手に動いて迷子になってたりしてねーだろうな)  携帯電話で連絡が取れれば良いのだが、|生憎《あいにく》インデックスの〇円携帯電話は電池が切れている。一応彼女には完全|記憶《きおく》能力があり、一度通った道路の道順ぐらいは覚えていそうなものだが、やはり心配なものは心配だ。上条は炎天下の歩道を歩きながら、 (あ、どうせなら途中で屋台でも寄って、お|土産《みやげ》の一つでも買ってやるべきだったか)  考えたが、今から戻るのではもう遅い。上条の方も、次の競技が詰まっている。とにかくインデックスを確保して、クラスの連中が待ってる競技場に急ごう、と彼は足を速めたが、  その足が、不意にピタリと止まった。  見知った顔が人混みの向こうにあったからだ。  赤く染めた長髪。耳のピアス。左右一〇本の指にはめられた銀の指輪。口の端には|煙草《タバコ》があり、右目の下にはバーコードの|刺青《いれずみ》のある、とても神父には見えない神父[#「とても神父には見えない神父」に傍点]。  ステイル=マグヌス。  イギリス清教の『|必要悪の教会《ネセサリウス》』という部署に存在する、本物の|魔術師《まじゆつし》。 (??? 何だろう、インデックスに会いに来たのか?)  魔術サイドの人間であるステイルが、大覇星祭というイベントに興味があるとは思えない。となると、|普段《ふだん》はなかなか会えない。元同僚のインデックスの顔を見に来た、というのが妥当な線だろうか。  上条としては、特に断る理由もないし、やはリインデックスの事情を知っている人間が|側《そぼ》にいるのは心強い。競技中は預かっててもらおう、と彼は何気なく近づいていったが。  彼は、|誰《だれ》かと話をしているらしい。 「———……だから……そうだね。———考えられる事だろう?」  声が、聞こえる。  誰と話しているのか。上条が確かめるようにさらに先へ進むと、そこに立っているのはクラスメイトの|土御門元春《つちみかどもとはる》だった。  学園都市にも、イギリス清教にも、双方に|潜《もぐ》り込むマルチスパイ。  彼は遠目に見れば|人懐《ひとなつ》っこい顔で、しかし周囲には聞こえづらい声で何か言っている。 「ああ。そりゃ……そうだ———。確かに……連中にとっては、今ほどの———チャンス……|他《ほか》にない」  嫌な予感がする。  彼らの顔は、笑っている。それだけ見れば、|大覇星祭《だいはせいさい》の人混みの中にも紛れてしまえそうに感じるが…-何かが決定的に欠けている。少しも楽しそうではないのだ。プラスの感情によるものではない、マイナスの感情によって作ら。れた笑み。それは、明らかに大覇星祭という大きな行事の中から浮いてしまっている。  |上条《かみじよう》はそれらを振り払うため、さらに前へ前へと進んだ所で、  ステイル=マグヌスは静かに告げた。 「だから、この街に|潜《もぐ》り込んだ|魔術師《まじゆつし》をどうにかしないといけない訳だ。僕|達《たち》の手で」  上条|当麻《とうま》の、科学によって形作られた世界は。  その一言で、魔術によって|彩《いろど》られた別の世界へと切り替わった。 [#改ページ]    行間 一  |白井黒子《しらいくろこ》という学生がいる。  能力開発の名門女子校・|常盤台《とさわだい》中学の生徒で、茶色い髪をツインテールにした小柄な少女だ。 |大能力《レペル4》に認定された「|空間移動《テレポート》』の使い手であり、常盤台中学の中でも割と上位の力を誇る白井だが、彼女は|大覇星祭《だいはせいさい》には参加していない。数日前に起きた、とある事件で受けた傷が完治しておらず、今も体のあちこちに包帯を巻いている状態だからだ。  が。  そんな絶対安静な彼女は現在、病院を抜け出して学園都市の大通りにいた、服装はいつもの常盤台中学の制服だが、|車椅子《くるまいず》に乗っている状態だ。一般的なものとは違いスポーツ用のモデルで、車輪がFーカーのようにハの字に傾いているのが特微だ。  スポーツ車椅子を動かしているのは白井黒子ではない、  その後ろから取っ手を握っている、|初春飾利《ういはるかざり》だ。彼女|達《たち》は能力者で構成された学園都市の治安維持機関『|風紀委員《ジヤツジメント》』の同僚だったりする。  初春は白い|半袖《はんそで》Tシャツに黒のスパッツという運動少女な格好をしていたが、どうにも頭に取り付けられた|薔薇《ばら》やハイビスカスなどの飾りがスポーツ向きではない。遠目に見ると頭に花瓶を乗っけているように見えるほど、たくさんの造花が咲き乱れている。  初春はニコニコと|微笑《ほほえ》みながらスポーツ車椅子をぐいぐいと押して、 「いやぁ私達が炎天下で頑張ってる最中に、エアコンの効いたお部屋の中で白井さんが一人ぼっちで休養取ってる姿を想像すると、居ても立ってもいられなくなっちゃって。白井さんにもお仕事手伝って欲しくなってしまったんですよ。てへへ」 「……、|素敵《すてき》過ぎる友情をありがとうですわ。傷が完治したら真っ先に衣服だけを|空間移動《テレポート》して素っ裸にして差し上げますから、心の底から楽しみにしていてくださいですの」  白井はぐったりした調子で答えたが、実は大覇星祭という大イベントの中、一人きりでゴロゴロしている事に退屈を覚えていたため、初春の強引な申し出は|嬉《うれ》しかったりした。ただ、それを知られるのは死んでも|回避《かいひ》したかったが。  当然ながら大覇星祭は初めてではないが、やはり年に一度のイベントというのは空気が違う。いつも歩いている道でも、競技のアナウンスや合図に使われる花火の音などを聞くだけで、がらりと色彩が変わって見える。道行く人々———学園都市の住人ではなく、外から来た人々が物珍しそうな目を向けてくるのは少々|癩《しやく》だが、自分の持っている力を自覚している白井としては、まあ仕方がないかと割り切る事ができた。  |白井《しらい》はスポーツ|車椅子《くるまいす》に腰掛けたまま、軽く周囲を見回して、 「て、今年の|大覇星祭《だいはせいさい》は何か問題でも起きていますの?」 「今の所は、それほど大きなトラブルは起きてません。せいぜい、焼きイカ屋台に化けた産業スパイが生徒の|唾液《だえき》からDNAマップを盗み出そうとしていたぐらいですかね。私は|風紀委員《ジヤツジメント》として参加するのは今回が初めてなので実感ないんですけど、先輩|達《たち》に言わせると今年は易しい方だそうです」 「まあ、確かにAI否定論者による無人ヘリ|撃墜《げらつい》未遂事件やら、精神文化主義者による競技場爆破未遂事件なんかに比べれば、まともな方だとは思いますわね」  サラリと出てきた言葉に、|初春《ういはる》の顔が思わず引きつった。それらの事件は|表沙汰《おもてざた》にされていないため、去年は裏でそんな事が起きてたんですか!? という気分になっているのだろう。白井としては、|風紀委員《ジヤツジメント》として大覇星祭に参加するなら、それぐらいのトラブルに巻き込まれて当然だという覚悟ぐらいは決めてあるのだが。  と、そんな白井の耳に、競技場のアナウンスが聞こえてきた。  デパートの壁に取り付けられた|大画面《エキシビジヨン》のものだ。生中継ではなく、少し前の競技のハイライトを流しているらしい。聞き取りやすい、男性の声が説明を続けている。 『四校合同の借り物競走でしたが、やはりというか期待を裏切らないというか、|常盤台《ときわセい》中学の圧勝でした。中でもトップ選手は|他《ほか》に比べて七分以上も差をつけた状態でのゴールという快挙を成し遂げ———』  パッと画面に映ったのは、どこかの陸上競技場だ。  選手の顔はカメラに撮られていて、競技者の名前も公表される。中継が世界放映されるのなら、とてつもなく知名度が上がりそう……と、思われがちだが、実はそうでもない。選手総数は一八〇万人を超すし、一位と言ってもオリンピックのような歴史に名を残すような競技ではない。これはちょうど、|大舞台《プロリーグ》へのスカウトのない甲子園のようなものと考えると分かりやすいかもしれない。そんな状況では選手全員の顔と名前を完全に覚えておく事など不可能で、その場限りで|騒《さわ》いでその場限りで忘れていく、というのがギャラリーの定石だ。  なので、白井|黒子《くろこ》は大して|大画面《エキシビジヨン》に興味はなかったのだが、 『———一位を獲得した|御坂美琴《みさかみこと》選手はゴール後も体勢を崩す事はなく、まだまだ余力を感じさせる姿を見せてくれました』  ガバッ!! と白井は|瞬間的《しゆんかんてき》に|大画面《エキシピジヨン》の方へ振り返る。  スポーツ車椅子を押していた初春が、ビクゥ!! と|震《ふる》えるほどの勢いで。 「お姉様 |鳴呼《ああ》お姉様 お姉様(五七五)! やはり完全なる圧勝という形で、その|躍動《やぐどう》する肢体を皆へ見せつけていますのね! 生はおろか録画すらできなかったこの不出来なわたくしを力許しくださいですの!!」  キラキラキラキラキラキラキラァッ!! と白井の両目が輝きまくるが、 『|一緒《いつしよ》に走ってもらった協力者さんを|労《いた》わる所も好印象でしたね。この辺りが名門|常盤台《とさわだい》中学の|嗜《たしな》みと言った所でしようか』  なんだと? と|白井《しらい》の頭に疑問符『?』が浮かんだが、 (んな……ッ!?)  次の|瞬問《しゆんかん》、彼女は見た。  |御坂美琴《みさかみこと》が男子生徒の手を握って競技場を走っているのを。  御坂美琴が男子生徒の体を自分のスポーツタオルで|丁寧《ていねい》に|拭《ぬぐ》ってあげているのを。  御坂美琴が男子生徒に自分が一をつけたスポーツドリンクを手渡しているのを。 (あんの若造が……ッ!! お、おねっ、お姉様に手を取ってエスコートしていただき、お姉様の世話焼きスキルで全身の汗を処理してもらい、あ、あまっ、あまつさえ、お姉様の|素敵《すてき》ドリンクにまで手を出してエええええええええええええッ!!)  ぶるぶると小刻みに|震《ふろ》える白井|黒子《くろこ》は、幸福過ぎる男子生徒の顔を見る。  超見覚えがある。  というか、数日前に会った少年だ。  ガターン!! と白井黒子は|渾身《こんしん》の力を込めてスポーツ|車椅子《くるまいす》から勢い良く立ち上がると、「こっ、殺す! 生きて帰れると思うなですのよ!! それにしてもお姉様まで、公衆の面前であんなに|頬《にお》を染めてしまうだなんて! 悔しいったらありゃしませんわーっ!!」 「ちょ、待っ、白井さん!! 落ち着いてくださいっていうかどうしてそれだけの深手を負っているのに立ち上がれるんですか!! ここは少年漫画的ガッツを見せるような場面でもありませんってばーっ!!」  怒り心頭の白井黒子と半泣き寸前の|初春飾利《ういはるかざり》がギャアギャアと|騒《さわ》ぐ中、|大覇星祭《だいはせいさい》はさらに盛り上がりを見せていく。 [#改ページ]    第ニ章 魔術師と能力者の競技場 �Stab_Sword.�      1  次の競技は大玉転がし。  |上条当麻《かみじようとうま》と同学年の生徒|達《たち》は、すでに競技場の中に入場していた。アスファルト舗装の大して広くもない校庭では、|騎馬戦《きばせん》のような形で、それぞれ両サイドに対戦学校の学生達が一列になって待機している。  ルールは変則的で、号砲と共に左右両サイドに二五個ずつ、合計五〇個の大玉を、それぞれ敵軍の後方にあるゴールラインへと転がしていく。先に半数以上の大玉がゴールラインを割った学年が勝利する、といったものだ。  通常の大玉転がしと異なる最大の点は、自軍と敵軍の大玉が、最低一度は必ず交差する、という事。つまり、この|瞬間《しゆんかん》に大玉をぶつけたり、能力を飛ばしたりして相手を妨害する事も可能となる。  上条は直径ニメートル強もの白組のボールに、|他《ほか》のクラスメイトと|一緒《いつしよ》になって手を添えている。汗の|匂《にお》いに、|埃《ほこり》の匂い。号砲が鳴る直前のピリピリした空気が肌に刺さり、お遊びに近い競技と分かっていても人を本気にさせるような|雰囲気《ふんいネ》が周囲に漂い始めているのが分かる。  が、そんな状況下にいて、上条は別の事に気を取られていた。  つい二〇分ほど前に、|土御門《つちみかど》、そしてステイルと交わした言葉について、だ。 『今の学園都市は、一般米場客を招くために警備を甘くしているだろう?』 『その|隙《すき》を突いて、この中に|魔術師《まじゆつし》が侵入してるって訳だぜい』  上条のクラスが担当する大玉の数は、全部で三つ。男子、女子、混合の大玉だ。上条は男子の大玉を担当する。|隣《となり》の大玉から|姫神秋沙《ひめがみあいさ》が何か言いたそうな無言の視線を投げてきていたが、考え事に没頭している彼は気づかない。 『でも、何のために? またインデックスをさらいに来たのか!? だったら!』 『慌てるな、上条当麻。今回の敵の|狙《ねら》いはおそらく彼女じゃない。向こうとしても、あの子に触れれば厄介な事情を増やす羽目になるかもしれないからね』 『あん? どういう意味だ?』 『そっちは後で答えるとして、カミやん。まずは主題から進めようぜ。街に入った魔術師達が何をしようとしているか、ってトコを』  位置について、という声が校内放送のスピーカーから聞こえる。  全員の呼吸が止まる。姿勢がわずかに下へ落ちる。|上条《かみじよう》はチラリと横を見た。サングラスをかけた|土御門元春《つちカかどもとはる》は、|他《ほか》のクラスメイト同様に、大玉に両手を添えている。 『|魔術師《まじゆつし》、|達《たち》? 一人じゃねーのか?』 『現在、確認されているだけでも二人いるよ。ローマ正教のリドヴィア=ロレンツェッティ。そしてそいつが雇ったイギリス生まれの運び屋であるオリアナ=トムソン。両方女だ。さらに、彼女達の取り引き相手である人間が最低一入はいるはずなんだけど、こちらは判然としない。ロシア成教のニコライ=トルストイが怪しいとは言われているが、確認は取れていないね』 『運び屋だって? 取り引きって、一体ここで何をやろうってんだ?』 『そのまんまさ、カミやん。ヤツらはこの街で、教会に伝わる|霊装《れいモう》の受け渡しを行治うとしている訳ですたい』  パン!! という号砲が|響《ひび》く。  考え事をしていた上条の意識は、 |一瞬《いつしゆん》遅れた。 『何でこんな場所で……。だって、学園都市ってオカルトから一番縁のないトコだろ?』 『そうだにゃー。だからこそ[#「だからこそ」に傍点]、って|答《こた》えておこうか。学園都市の|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》は、オカルト側の魔術師を|無闇《むやみ》に|迎撃《げいげき》・|捕縛《ほばく》してはならない。そして同時に、オカルト側の十字軍や|必要悪の教会《ネセサリウス》も、無闇に科学側の学園都市へ|踏《ふ》み込んではならない。ほら、どちらの勢力も手を出しにくい場所なんだぜい、ここは』 『|大覇星祭《だいはせいさい》期間中でなければ、|警備体制《セキユリティ》の関係で、リドヴィア達の行動もかなウ制限されていただろうね。しかし今だけは、|半端《はんぱ》に警備を|緩《ゆる》めなくてはならないから、その機に乗じて大胆に動く事もできるという話だよ』  上条は大玉に置いてきぼりにされないよう、慌てて走る。  たくさんの足音と、巨大なボールが転がる音が地響きのように伝わる。大玉の中身は空気なので重さはそれほど感じないが、逆に風船のように風の|影響《えいきよう》を受けやすく、うっかりしていると横に流されそうになる。 『だったら、そこにいるステイルみたいに、こっそり|必要悪の教会《ネセサリウス》の味方をたくさん|潜《もぐ》り込ませて捕まえりゃ良いんじゃねーの?』 『僕は「君の知り合いだから、個人的に遊びに来た」という大義名分になっているんだ。他の魔術師達は呼べない。「イギリス清教という団体として」やってきた事になれば、それに乗じて今の事態を傍観している、それ以外の多くの魔術組織もコては我々も」と要請してくる。彼らの|全《すべ》てが学園都市に友好的だと思えるかい? |破壊《はかい》工作に走る者が出てくるに決まっている。こんな、オカルトとは正反対の位置に属する街を守ろうなんて考えるものか』 『科学サイドの長である学園都市と、魔術サイドの名も知れぬ一組織じゃ発言力は違うにゃー。 でも、この状況で|迂闊《うかつ》に魔術サイドの意見を突っぱねれば、今度はその揚げ足を取る形でもっと大きな魔術組織が口出ししてきちまうんだ。ま、そんな感じでリドヴィアやオリアナ達の問題はデリケートなんだよ、カミやん。ただでさえ厄介な状況下で、さらに余計な連中を呼び込めば間違いなく学園都市は混乱の渦に|呑《の》み込まれちまう。そういった連中・事態を抑えるためにも、あくまで事件で動けるのは「学園都市にやってきた知り合いの|魔術師《まじゆつし》」だけと思わせておくんだよ。学園都市の人問と接点のある魔術師なんて、ほんの一握りだ。どうしても少数精鋭の攻め方になっちまうのは仕方がないぜい』  ゴロゴロゴロゴロ、と大玉が少しずつ勢いに乗って速度を増していく。|上条達《かみじようたち》の大玉は、自軍の中では一歩先んじていた。つまり、一番初めに敵軍の大玉と接触する危険性が高いという事だ。 『??? でも、知り合いってんなら|神裂火織《かんざきかおり》は? あいつ、確か聖人とかっていうメチャクチャ強い人間なんじゃなかったっけ。人手は多い方が良いんじゃねーのり?』 『神裂は、使えない。今回は特にね。何しろ、取り引きされる|霊装《れいそう》が霊装だ』 『あん? どういう事だよ』 「カミやん。その霊装の名前は「|刺突杭剣《スタブソード》」っていうらしいんだぜい。そいつの効果はな———』  大玉が巨大すぎて、上条の位置からでは前方は良く見えない。もうすぐ来そうやでーっ! という青髪ピアスの言葉に、上条は意識を集中して、 『———あらゆる聖人を[#「あらゆる聖人を」に傍点]、一撃で即死させるモノらしいんだよ[#「一撃で即死させるモノらしいんだよ」に傍点]」  危ない! という声が後ろから聞こえた。  彼以外のクラスメイト達が一斉に大玉から飛び散っていく。 (あれ、敵軍と接触するのって、まだもうちょっと先だよな?)  と、上条が首を|傾《かし》げた|瞬間《しゆんかん》。  真後ろから|衝撃《しようげき》が来た。 「ぐ、ぐわあーっ!!」  後方から猛烈なスピードで追い上げてきたクラスメイト達(女子)の大玉が、背後から上条を呑み込んでいった。その|隣《となり》を男女混合の大玉が追い抜いていき、|吹寄制理《ふきよせせいり》は『何をやっているのよ土条|当麻《とうま》!』と冷たい声を放ち、|姫神秋沙《ひめがみあいさ》は『やっぱり。君には女難の相が出ているのかも』とでも言いたそうな横目でこちらを見ていた。      2  聖人。 「ってのはあれですたい。十字教の『神の子』に良く似た体質の人間の事。十字教の『偶像の理論』じゃ、『神の子』の処刑に使われた十字架を模したレプリカにもある程度の力が宿る性質を持つだろう? それを『神の子』と人に置き換えると、『神の子』に似た人間には『神の子』の力が宿る事になるんだぜい。この選ばれた人間が「聖人』ってヤツですたい。コイツらは普通じゃ考えられないほどの絶大な力を持つんだにゃー。だが」  大玉転がしが終わり(幸い、|上条《かみじよう》の学校はまた勝てた)、競技場から退場した後。運営委員の|吹寄制理《ふもりよせせいり》が『ほらアミノ酸よアミノ酸。黒酢と大豆イソフラボンはこっち』とか言いながら勧めてきたスポーツドリンクを飲みつつ、上条と|土御門《つちみかど》は路上で会話を進めていく。 「聖人には、欠点が一つあるんだぜい」 「そうなのか。だって|神裂《かんざピ》って、本物の天使とぶつかりあっても互角の戦いが演じられるほど強いんだろ?」  天使、という言葉にはいまいち現実味が湧かないが、上条は実際にその目で見たのだから仕方がない。見たといっても、やはり現実味はないが。ミーシャ=クロイツェフと名乗ったあの天使は、指先一つで世界を|崩壊《ほうかい》させるほどの力を有していたはずだ。そんな本物の天使と戦い抜いた神裂の技量は、上条などでは到底及ばないと思う。  が、上御門はスポーツドリンクをガブガブ飲むと、 「その強さには、クセがあるんだよ。いいかい、聖人ってのは、『神の子』に似た性質を持つ人間ですたい。与えられる力も、『神の子』による特徴とか属性みたいなものが付加されてんだぜい。って事は、だ」土御門は一呼吸おいて、「———簡単に言えば、『神の子』の弱点そのものも受け継がれちまってる[#「弱点そのものも受け継がれちまってる」に傍点]って訳なのさ」  あ。、と上条は思わず声を出してしまった。 「『神の子』は一度死んだ。復活しようが天に昇ろうが、その事実は曲げられない。そして十字架に架けられた『神の子』は、一体どうやって殺されたか知ってるかい、カミやん」  土御門は、そんな上条を見てニヤニヤ笑い、 「刺殺、だ。両手と足に鉄の|釘《くガ》を打って十字架に固定し、最後には|槍《やり》で|脇腹《わきばら》をブスリ。槍がトドメだったのか生死を確かめるための|一撃《いちげき》だったのかは神学者でも意見が分かれる所だが、いずれの攻撃も、皆『刺し殺す』ものである事に変わりはないにゃー」スポーツドリンクを、ぐいっと飲んで、「『|刺突杭剣《スタブソード》』ってのは、処刑と刺殺の宗教的意味を抽出し、極限まで増幅・|凝縮《ぎようしゆく》・集束させた『竜をも貫き大地に|縫《ぬ》い止める』とまで言われる|霊装《れいそう》ですたい。普通の人間には何の効果もないが、相手が聖人なら一撃で|葬《ほうむ》る力を誇る。距離に関係なく[#「距離に関係なく」に傍点]、切っ先を向けられただけで[#「切っ先を向けられただけで」に傍点]、な」  言葉に、ゾッとした。  上条の想像を補強するように、土御門はさらに言う。 「怖いだろう? 『|刺突杭剣《スタブソード》』は一度発動したが最後、核シェルターに|籠《こも》ろうが、地球の裏側にいようが、|冥王星《めいおうせい》まで逃げ延びようが、切っ先を向けただけで聖人を殺す。その凶悪さと利便性はレーザー兵器どころじゃないぜい。元々は私欲に走る聖人を|葬《ほうむ》るために作られたものらしいんだけどにゃー」 「そんなもんを取り引きして、|魔術師達《まじゆつしたち》は何をするつもりなんだよ……?」 「もちろん、戦争だろうさ。聖人ってのは、魔術業界じゃ核兵器に等しい意味を持つ。敵軍の聖人だけを|上手《うま》く殺し、味方を保護するだけでも戦況は随分変わってくるぜい」  戦争。  現代日本に住む平凡な高校生には、あまりに実感の|湧《わ》かない言葉。だが、|上条《かみじよう》はその|片鱗《へんりん》に、ほんのわずかに触れた事がある。「法の書』と呼ばれる|魔道書《まどうしよ》と、その解読法を知ると言われるシスター・オルソラ=アクィナスを巡った、イギリス清教とローマ正教と天草式の|三《み》つ|巴《どもえ》の戦い。戦争と言うなら、あれがもっと大きな規模で起こるという事だろうか。それこそ世界中で、関係のない人達までさんざんに巻き込んで地図の形を変。えていくような。 「けど、聖人以外の魔術師だっていっぱいいるんだろ? 例えばイギリス清教だって、|神裂《かんざき》がいなくても戦えそうな気がするけど」 「カミやん。問題なのはそこじゃない。実際に勝てるかどうかではなく、勝てるかもしれない[#「勝てるかもしれない」に傍点]、と|錯覚《さつかく》させただけで、戦争ってのは起こっちまうのさ。力の象徴である聖人の死は、魔術社会の制度全体の破滅を想像させちまうものなんだぜい。王族が殺される事で国中に絶望が広がっていくようににゃー。これをチャンスと思ったが最後、勝てると錯覚した人間は迷わず戦いに身を投じるだろうぜい。———その先に[#「その先に」に傍点]、自分達の惨めな敗北があるとも気づかずにな[#「自分達の惨めな敗北があるとも気づかずにな」に傍点]」  |土御門《つちみかど》の言葉には、背筋を冷たくさせるだけの威圧感がある。  それは実際に、スパイとして活動し、世界の|脆《もろ》さを知る者であるが|故《ゆえ》のものだろうか。 「聖人を|恣意的《しいてき》に殺され、宗教的パワーバランスを狂わされた国や組織は、内外から様々な魔術勢力の|攻撃《こうげき》を受け、やがては|崩壊《ぽうかい》していくだろう。決して表舞台には出ないものの、確実に国家や世界を荒廃させていく流れだ。 一ヶ所のバランスの乱れが飛び火していけば、様々な場所で新たなバランスを築こうと画策して、戦争が起きる危険性もある。対魔術師用の国際治安維持機関であるイギリス清教第|零《ゼロ》聖堂区『|必要悪の教会《ネセサリウス》』としては、これを見過ごす訳にはいかないって事ですにゃー」  決意に近い|台詞《せりふ》であるにも|拘《かか》わらず、土御門の終わりの台詞は極端に口調が軽い。  この辺りがスパイとしての気楽な立場なのか、あるいはプロとして完全に感情を制御下においているだけなのか。|素人《しろうと》の上条には判断のしようがない。  上条はすっかりぬるくなってしまったスポーツドリ。ンクに口をつけながら、 「でも、そんなヤバイ問題ならインデックスに協力を仰いだ方が良くないか?」  そう、この場にインデックスはいない。  土御門やステイルから説明を受けた後、彼はインデックスに会わせてもらえず、そのままズルズルと大玉転がしの競技場へ引きずられて行ったのだ。  魔術に関する問題なら、彼女は非常に|頼《たよ》りになる。というより上条の知る限り、彼女以上に|魔術《まじゆつ》について詳しい人間はいないと思う。  が、|土御門《つちみかど》は一言で切り捨てた。 「|駄目《だめ》だな。今回の件じゃ、あの禁書目録は使えない。事件の現場に近づけさせる事も、事件に関する情報を伝える事もやっちゃいけないぜい」 「……、何で?」 「うーん。色々複雑な事情があるんだけどにゃー。ま、一から説明してやるから良く聞くんだぜい」  土御門は面倒臭そうに頭を|掻《か》きながら言う。 「さっきも言った通り、科学サイドは魔術サイドにあんまり干渉しちゃマズイんだぜい、今の学園都市の内外は様々な問題を|孕《はら》んでる。……ってのは理解してるかにゃー?」 「あん?確か、|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》が魔術師を直接やっつけちまうのは問題なんだよな」  ステイルと一|緒《いつしよ》に|錬金術師《れんきんじゆつし》の|潜《ひそ》む『三沢塾』に乗り込んだ時にも、似たような事を聞いた気がする。  科学サイドと魔術サイドは、互いの技術知識を独占する事で、二つの世界を治めている。例えばこの状況で、学園都市の治安維持機関が魔術師を捕まえてしまうと、魔術サイドの情報が科学サイドへ流れる危険が生まれるとかいう話だ。 「ニュアンスとしちゃ、|墜落《ついらく》した味方の最新鋭|戦闘機《せんとうき》が、敵国の人間に拾われちまったようなもんだっけ?」 「そう。それからさらに、学園都市へ大量の魔術師|達《たち》が組織的に|踏《ふ》み込んでくるのもマズイ。従って、取り引きを行おうとしている魔術師達は、学園都市の中ではやりたい放題って事ですかにゃー。ったく|斬《きり》り捨て御免じゃねーんだっつの」  考えてみれば|馬鹿馬鹿《ばかばか》しい構図だと|上条《かみじよう》は思う。みんなの目的は同じはずなのに、そのせいで|誰《だれ》もその場を動けなくなってしまっているのだ。 「だからこそ、特例でオレやカミやん、ステイルなんかが動いている訳だが」土御門はニヤリと笑って、「それを快く思っていない組織もある[#「それを快く思っていない組織もある」に傍点]、って事さ。ヤツらは何かと理由をつけて学園都市へ|潜入《せんにゆう》できないか、と網を張っているんですたい。事件を解決したい連中もいれば、そうではない連中もいるだろう、そういった連中は、学園都市の外からレーダーみたいな術式を使って、魔力の流れを感知している。少しでも動きがあれば、即踏み込めるようににゃー」 「ふうん。……そういうモンなのか?」  としか、上条には言いようがなかった。正直、魔力の流れとか言われても、どんなものなのかイメージが|湧《わ》いてこない。 「でも、その魔力の感知とインデックスに何の関係があるんだよ。アイツって魔力は使えないんじゃなかったっけ? そのレーダーみたいなヤツを使われたって、インデックスを遠ざけて諮く理由にはならないと思うんだけど」  |上条当麻《かみじようとうま》は|記憶《ピおく》喪失なので、ここら辺は知識としてあるだけだが、インデックスは一〇万三〇〇〇冊の|魔道書《まどうしよ》を管理する代わりに、少しも魔力を使えない。これは魔道書を使った独走・暴走を防ぐための策の一つだった、という話のはずだが、  と、不思議がる上条に、|土御門《つちみかど》は苦笑いして、 「この辺りは価値観の相違ってヤツだぜい。いいかいカミやん。この数ヶ月で、カミやんの周りでは様々な|魔術的《まじゆつてき》事件が起きた。そしてカミやんはそれを見事解決した。でもな、魔術業界じゃ、カミやんの名前なんてあまり出回っていないんだにゃー」 「ま、まぁ、そんなに出回っても困るけど、それが何だってんだ?」 「それに比べて、禁書目録って名前はものすごくメジャーだって言いたいんだよ[#「禁書目録って名前はものすごくメジャーだって言いたいんだよ」に傍点]。魔術業界の連中の多くは、「上条当麻の周りで事件が起きた」とは思ってない。『一〇万三〇〇〇冊の管理者・禁書目録の周りで事件が起きた』と思われてるって訳だ」  あっ、なるほど、と上条は思った。  彼の顔色から何かを読み取ったのか、土御門は楽しげに、 「だから連中の多くは、『何か起きるなら禁書目録が中心となる』と|踏《ふ》んでるって訳ですたい。それなら、インデックスの周囲にサーチが集中するのは常識だろ? ところが、だ。実際問題、学園都市全域を常時カバーできるような大規模感知術式は存在しない。『グレゴリオの聖歌隊』みたいに組織的術式を採用したとしても、おそらく半径一キロあるなしが限界だろうにゃー。だからインデックスを事件の渦中から遠ざけておけば、外の連中はそっちに視線を注目させる事になる。となると、よそで多少の魔術戦が起きても見過ごされる可能性すら考えられるにゃー。逆に事件の核心近くに彼女を招くと、ほぼ確実にアウトだ」 「つまり、あの[#「あの」に傍点]インデックスに|魔《もも》術の事を一|切合財《いつさいがつさい》気づかせないまま、何とかしないといけないって訳かよ?」  それは、簡単そうに見えて結構難しい問題だ、と上条は思う。元々、インデックスはあらゆる魔術師と対抗するために、一〇万三〇〇〇冊もの魔道書を完全記憶しているのだ。彼女はほんの小さなヒントでも見逃さないだろうし、ヒントを手に入れれば自然と動いてしまう。  だからと言って、今回の事件について前もって『動くな』と事情を説明した所で、インデックスはおそらく納得しない。彼女は、他人が魔術に関する事件に巻き込まれるのを何よりも嫌っているのだから、|誰《だれ》かが代わりにやる、という案は|呑《の》んでくれないだろう。  上条が思案していると、土御門は空になったドリンク容器を軽く振って、 「しかしまあ、カミやんにとってはこれも一つの『不幸』なのかもにゃー。自分の手柄が全部インデックスに回ってるなんて、あんま良い気はしないだろ?」 「|馬鹿《ばか》。アイツの身が心配だよ。ったく、インデックスのヤツ。ただでさえ|狙《ねら》われやすい事情を山ほど抱えてるってのに……」  上条は舌打ちし、さらに思考を内側に向けていく。そんな彼の横顔を見て、土御門はわずかに笑う。皮肉でも|嘲《あざけ》りでもない、ほんの小さな笑みを。 「ともあれ、だにゃー。カミやんはインデックス問題も担当するって方向で! 学園都市で事件が起きてる匂いは極力隠すって感じでだにゃーっ! あれだ、適当に辺りを見て回るとか約束して、|魔術戦《まじゆつせん》の起きそうな所からさりげなく遠ざけといてくれってトコですたい」 「あん? 何だそりゃ! お前は簡単に言うけどさあ……ッ!」 「|大丈夫《だいじようぶ》だって! フラグまみれ|上条当麻《かみじようとうま》ならどうってこたないぜい!」 「何だその根拠ゼロの自信の塊は! 大体、|俺達《おれたち》の競技はどうすんだよ。|黙《だま》ってサボったら|吹寄《ふきよせ》とか絶対キレるって! それこそ目も当てられない感じで!!」 「それすら含めてフラグまみれが何とかしろ! 今大事なのはインデックスの方だぜい。つっても、あんな禁書目録なんざ適当に食べ物与えてりゃどうとでも制御できそうな気はするけどにゃー。困ったらとりあえず事件の現場と逆方向にお菓子を投げるにゃーっ!」 「……お前、インデックスに聞かれたら|頭蓋骨《ずがいこつ》までかじられるかもしれないそ。いや、アイツが俺以外の人間に|噛《か》み付きやってる姿は見た事ないけど……」  バシバシと人の肩を|叩《たた》く|土御門《つちみかど》に、上条はぐったりしながら言葉を放った。      3  炎天下のアスファルトはとても熱い。  それが、路上にべったりと倒れ込んでいる空腹少女インデックスの感想だ。  パレードが終わり、道路の通行止めを解除している女性の|警備員《アンチスキル》・|黄泉川愛穂《よみかわあいほ》は、途中で見るに見かねたのか、作業を中断してインデックスをお姫様風に抱き上げた。さしたる冷却効果があるとは思えないが、とりあえず|街《コ》路樹の下のベンチに寝かせてみる。彼女と|一緒《いつしよ》にいた|三毛猫《みけねこ》が黄泉川の足にまとわりつくように追跡してきて、ベンチの上へ飛び乗った。  と、事前に連絡を入れておいた同僚の女教師、|月詠小萌《つくよみこもえ》がようやくやってきた。黄泉川より年上のはずの教職員は、淡い緑色のタンクトップに白の短いプリーツスカートというチア衣装を着用している。生徒と「緒に応援するためのものだろうが、あの|歳《とし》で似合ってしまうのは恐ろしい、と黄泉川は心の中でため息をつく。 「よ、黄泉川先生! 知り合いを預かったっていう連絡を受けてきたんですけどって、うわあーっ!」小萌先生はインデックスの姿を見るなり絶叫する。「し、シスターちゃん!? な、何ですかこの売れ残った野菜みたいなシンナリ具合は! あ、あ、まさか、小萌先生の到着が遅れたばっかりに熱中症にやられてーっ!!」  大音量の絶叫に、|三毛猫《みけねこ》が嫌そうな鳴き声をあげて少し毛を逆立てた。  まあ……と、|黄泉川《よみかわ》はベンチの上に転がっているインデックスを眺めつつ、思う。パッと見では熱中症と考えるかもしれない。何せ、この炎天下の中、かなり分厚い生地の修道服を着て倒れているのだ。暑さにやられた、と見るのは正常な判断だろう。 「|月詠《つくよみ》センセ。センセってば! ほらほら、少し落ち着くじゃんよ?」 「お、落ち着いていられないのです! シスターちゃんは確かにクラスの子じゃないですけど、でもやっぱり先生が守るべき子供の一人な訳でーっ!!」 「はいはい理想の教師論は後にして。この子はあれじゃん、熱中症じゃなくて、ただの空腹じゃんよ」  はい? と|小萌《こもえ》先生はわずかに小首を|傾《かし》げる。  それから、 「だっ、だからって落ち着いていられますかーっ! 栄養失調だって危険な状態に代わりはないのですよーっ!!」 「はあ。この場面で少しも脱力しない月詠センセは本当に尊敬すべき先輩教師だとは思うじゃんか。でもじゃん。この子、すでにウチの携帯食料、三食分は食い散らかしてるじゃんよ」  黄泉川の|呆《あほ》れた声に、三毛猫が『そーそー。|俺《おれ》も分けてもらったぜー』とばかりに気持ち良さそうな鳴き声をあげる。口の周りの毛に食べかすが少し残っていた。 「……、それは空腹じゃなくて満腹で苦しんでいるのではないのですかーっ? というか、あ。なたも教師なら食事と栄養の管理ぐらい……ッ!」 「だったらこの子に直接聞いてみれば良いじゃんよ」  ビッ、とベンチを指差す黄泉川に、小萌先生は人を指差してはダメなのです、とその指を|掴《つか》んで下ろさせてから、改めてインデックスの顔を見る。  ぐったりした白い少女は、か細い声で、 「お、お|腹《なか》減った……。と、とうまはまだなの……?」 「ホントに減ってるんですか!?」 「だから言ったじゃんよ。あー、もうセンセに預けちゃって良い?」  は、はい、お、お疲れ様ですー、と|律儀《りちぎ》に頭を下げる小萌先生に、黄泉川は背中を見せつつ片手をパタパタ振って立ち去って行く。雑な対応だが、それは小萌先生を気兼ねする必要がない相手だと思っているからだ。  小萌先生は改めてインデックスを見る。  ベンチでぐったりしている彼女は、ぶるぶると|震《ふる》えながら、 「そ、ソースの|匂《にお》い……。これ以上|嗅《か》いでいたら、限界がきてしまうかも……」  小萌先生は、ようやく肩の力を抜いて(脱力ではなく、ホッと|安堵《あんど》しているのが彼女らしいが)、それからふとインデックスの言った『ソース』というワードに反応した。鼻をふんふんと動かしてみる。 「む? 屋台ですか?」  彼女は視線を巡らせる。|黄泉川愛穂《よみかわあいほ》が通行止めを解除した大通りを渡った先に、学生|達《たも》が作った文化祭のような手製の屋台が並んでいる一角が見える。 「シスターちゃーん。買ってきたのですよー」  とりあえず|小萌《こもえ》先生が適当に選んできた屋台の品々を見て、ベンチに寝転がっていたインデックスはガバッと飛び起きた。 「お、お、おおおおおおおー……」  未開の遺跡を発見した考古学者みたいな声が出ている。彼女に抱き上げられた|三毛猫《みけねこ》も似たような感じで鳴く。 「とりあえず、焼きソバと、お好み焼きと、フランクフルトと、たこ焼きなんか買ってきましたけどー……って、あ。西洋人のシスターちゃんはタコとか|大丈夫《だいじようぶ》なのですか?」 「食べる食べる! ナットーでもクサヤでも何でも来いって感じだよ!」  透明なプラスチックのパックに入った、学生作であんまり上手には見えない品々を見て、しかしインデックスはキラキラギラギラと食欲に満ちた視線を送る。その執着を動物的本能で悟ったのか、彼女の腕の中の三毛猫がビクッと少し|震《ふる》えた。  小萌先生は苦笑いしつつ、 「あ、あはは。それならものはついでです。この機会に割り|箸《ばし》もグー握りじゃなくて、きちんと使い方を覚えて……って、ああーっ!!」  彼女が何か説明しようとする前に、インデックスはすでに標的に|喰《く》らいついている。ばくばくがつがつむしゃむしゃーっ!! と、あっという間に食料の山が消えていく。三毛猫も負けじと焼きソバに向かっているが、猫舌なのが致命的なハンデとなってしまっていた。  小萌先生はがっくりと肩を落としながら、 「う、ううー。せっかく……せっかく、またとないこのチャンスに、シスターちゃんにも日本文化を理解してもらおうと思っていたのにー」 「むぐむぐ……え? こもえ、何か言った?」  熔好み焼きの最後の一片を|喉《のど》の奥へ通しつつ、インデックスはキョトンと|瞬《まばた》きする。あれだけあった食べ物の山は、すでに残らず平らげられていた。  教育熱心な小萌先生には、教える揚を取り上げられるとヘコんでしまうという弱点がある訳だが、満腹で満足なインデックスは気づいていない、  小萌先生は、小さな肩をふるふると震わせながら、 「べっ、別に何も言ってないのですーっ! 先生はちっとも悔しくなんかあ。りません! これしきの事で泣いたりなんかしませんからねーっ!」 「??? あ、お礼がまだだったね。ごちそうさまでした、どうもありがとう。え、違う? 何でこもえは泣きそうな顔してるの?」インデックスは小首を|傾《かし》げ、「……それにしても、とうまはどこに行っちゃったんだろう? もうすぐお昼ご飯だっていうのに」 「……あの、ご飯って、今……?」  |小萌《こもえ》先生は言いかけたが、やはりインデックスは聞いていない。 「とうま、本当にどこに行っちゃったんだろう……? 私、今日はずっとこんな感じで、とうまとは離れ離れなのかな……」  む、と小萌先生の熱血教育魂が再燃する。  目の前のシスターはどこの学校にも所属していない(ようだ)。、それでは、|大覇星祭《だいはせいさい》で|上条当麻《かみじようとうま》と|一緒《いつしよ》に行動するのは難しいだろう。民間人参加の競技もあるにはあるが、それは|所詮《しよせん》、『学生』と『民間人』を分けた上での事に過ぎない。一緒に参加する、という少女の目的は達成されない。  小萌先生にはインデックスの気持ちが何となく理解できる。  この手のイベントで一人だけ置いてきばりにされるのは、地味だがかなりのダメージを負わされる。逆に言えば、たとえどんなものであれ、何らかの形で|関《かか》わる事さえできれば、きちんと一体感や満足感を得られるものなのだ。まったく上条ちゃんは分かってませんねー、こんな子を一人ぽっちにしておくなんて、と小萌先生は不出来な生徒の有様に首を振りつつ、打開策を考えてみる。  妥協、ではなく、打開の策だ。 「|大丈夫《だいじようぶ》、シスターちゃんにも参加できるものはあるのですっ!」  答えは浮かぶ。こんな|哀《かな》しそうな顔をした子供を助けられないようでは教師失格なのです、と思いつつ、小萌先生はくすくすと笑う。 「はえ? な、何が?」 「ですから、上条ちゃんと一緒に大覇星祭を盛り上げる方法はあるのです! シスターちゃんはもう一人ぼっちにならなくても良いのですよーっ!」  必要以上に明るい声に、インデックスは初めキョトンとして、それから食欲も忘れてジワジワと表情を|緩《ゆる》めていった。|三毛猫《みけねこ》は特に気にせずのんびりとあくびをしている。 「な、なに?——私は何をすれば良いの?」 「これなのですよこれこれー」  小萌先生は笑いながら、自分の着ているタンクトップの胸の辺りを軽く引っ張る。  彼女が着ているのはチア衣装だ。 「え、えへへ。|流石《さすが》に競技に参加するのは不可能ですけど、応援する側なら問題ないのです。やっぱりここはあれなのですよ。チアリーデイングとか似合いそうですよねー? 一人で恥ずかしいと思うのなら大丈夫! 小萌先生も一緒に付き合ってあげるのですよーっ!」  ニコニコと、ニコニコニコニコとひたすら|微笑《ほほえ》み続ける|小萌《こもえ》先生。彼女の現場教育者エナジーが体の中から外へと|濫《あふ》れ出し、ビッカァ!! と顔色がとんでもなく輝き始める。その様子に、インデックスはやや警戒心を抱き、 「な、何で、こもえはそんなに|嬉《うれ》しそうな顔。をしてるの?」 「そんな|赤《あか》ずきんちゃんみたいな質問しなくても|大丈夫《だいじようぶ》なのですよ。先生はですね、えへ、シスターちゃんに対して即席とはいえチア指導をする機会を得て大満足ですとか、えへへ、割り|箸《ばし》指導の借りを今ここで返してもらえそうですとか、えへえへへへ、そんな事は決して思ってないのですよー」  知人の知られざる一面を見たインデックスが凍り付いているのを良い事に、小萌先生は彼女の手を引っ張って、いずこかへと連れて行く。      4  |上条当麻《かみじようとうま》はつい先ほどまで通行止めが行われていた地点まで戻ってみたが、そこにはもうインデックスの姿はなかった。通行止め自体も解除されていて、|警備員《アンチスキル》のお姉さんもいなくなっている。  |土御門《つちみかど》からは、 『リドヴィアやオリアナ|達《たち》を捜すのも大事だが、インデックスに今この学園都市で起こりつつある事を悟られないようにするのも同じぐらい重要な事ですたい。カミやん、オレ達の方で学園都市のセキュリティをチェックしたり、|魔術的《まじゆつてき》な|痕跡《こんせき》がないか調べるから、お前はインデックスと定期的に会ってごまかしておくように。こっちの動きを不審がられたら、おそらく禁書目録は一気に事態を看破して、事件の中心点までやってきちまうに決まってるぜい』  とか言われていたのだが、これでは何もできない。 (インデックスの居場所について、事情を聞ける人もいなければヒントもゼロ。あいつの〇円携帯電話も電池切れで|繋《つな》がらないし……ありゃ、これはもしかしてマジで迷子か?)  学園都市に慣れている上条にとっては何でもない出来事だが、インデックスが迷子になった事をステイル辺りに知れたら、『事情は分かった。君はとにかく死んでくれ』と問答無用で|襲《おそ》いかかられそうだ。 (うーん。インデックスの行きそうな場所となると……)  上条はあちこちを見回し、ふと視線を前に固定させる。大通りを挟んだ向こうに、学生達が作った文化祭っぽい手製の屋台が並んでいるエリアがある。 「ま、まさか。空腹に耐えかねてお金も持たずにフラフラと突入しちまったのか? だとしたらあの一角はすでに『空腹少女の|騒乱《そうらん》』によって|壊滅《かいめつ》している可能性も……ッ!!」  上条は顔を真っ青にした。彼の右手に宿る力『|幻想殺し《イマジンブレイカー》』は、超能力だろうが魔術だろうが、神様の奇跡だって触れただけで打ち消せる特殊な能力だが、あの|噛《か》み付き少女に対しては何の効力も生み出してくれない|無能力《レペル0》なのだ。  それでもあの少女はこの手で止めなーてはいけないんだ、と|上条《かみじよう》は覚悟を決めて屋台エリアへ向かおうとしたが、  ふと、横合いからポンポンと肩を|叩《たた》かれた。  振り向くと、|半袖《はんそで》短パンの|姫神秋沙《ひめがみあいさ》と、清掃ロボットの上にちょこんと座って弁当の売り子をしている|土御門舞夏《つちみかどまいか》の二人がこちらを見ていた。基本的にお弁当を売り回っている舞夏に付き合う形で、姫神は街をうろうろしながら世間話をしているようだ。 「さっきから。何をラスボス手前の。勇者様ご一行みたいな顔をしているの?」 「なんか今にも死にそうな顔してるぞー。お|腹《なか》が減ってるなら弁当食ってくかー?」  今まさに戦場へ|突撃《とっげき》しようと思っていた上条は、彼女|達《たち》の|平穏《へいおん》な声に決意をくじかれてしまう。 「あのね。|俺《おれ》ね。空腹のままインデックスを放置して競技に出かけちゃってさ。戻ってきたらインデックスはいないし、食べ物のある一番近い場所って言ったらあの屋台エリアしかないし、もしかしたらあそこで空腹少女が暴れているんじゃないかって思うと……ッ!!」  ほとんど涙混じりに告げるも、二人の少女はキョトンとして、 「あのシスターなら。あっちを歩いてたけど」  姫神がビッと、屋台エリアとは金く違う横方向へ指を指し、 「なんか上条|当麻《とうま》の学校の名物ミニ教師に手を引っ張られてたぞー?」  舞夏は清掃ロボットに座ったまま、やや斜め上を見上げて思い出したように答える。 「??? 連行されてった……って訳じゃねーよな。|小萌《こもえ》先生はインデックスの事を知ってるんだし。何だろ。学園都市の案内でもしてくれてんのかな。まあいいや。とにかくありがとな。後は自力で捜してみる」  上条はそれだけ言うと、姫神が指差した方向へ歩いていく。後ろから土御門舞夏が『がんばってなー』と伸びた声で言い、姫神は無需だった。 (うーん……。姫神と舞夏。っていつの間に仲良くなってたんだろう? ま、夏休みの間にもあの二人はウチ。の学生|寮《りよう》に来てたし、その時にでも知り合ったのかな?)  そんなこんなで彼は割と大きな通りを歩いていー。道行く人々が、風力発電のプロペラなどをいち。いち感心したように眺。めているのが、こち。らとしては逆に新鮮な感じだ。  と、不意に横合いから。ミャーと猫の鳴き声が聞こえた。  声を耳にしただけで多。少。の特徴が分かるほど聞き慣れた———|三毛猫《スフィンクス》の鳴き声だ。 「インデックス?」  上条は立ち止まり、音のした方を見る。ビルに囲まれる形で、小さな公園があった。ただ、金網のフェンスが普通より高く、それだけで人を拒絶するような威圧感を放っている。入り口からでは、葉の生い茂った木々が|邪魔《じやま》をして、中の様子を見るのは難しい。その視認性の悪さが、さらに客足を遠ざけているようにも見える。  無理もない、と|上条《かみじよう》は思う。  ここは厳密には公園ではない。金網のフェンスには、『|只山《ただやま》大学植物学部所有』という看板が針金で固定されている。植物を育てて生長データを採るための場所だ。|大覇星祭《だいほせいさい》期間中で警備が強化されている状況でも見回りがいない所を見ると、 一応は開放されているようだが、部外者があまり入って良い場所ではないと思う。  と、草木を分けるように、見慣れた|三毛猫《みけねこ》がヒヨョコっと顔だけ出した。上条の顔を見ると、また顔を引っ込めて奥へ奥へと走って行ってしまう。 (三毛猫、だけ……? いや、インデックスがそうそう簡単にあの猫を手放すとは思えないな。となると、やっぱアイツも中に? うーん。育ててるのがリンゴとかだったら、インデックスはふらふらと入っちまうかも)  本人が聞いたら激怒しそうな感想を抱き、とりあえず上条は確かめてみる事にする。入り口を|塞《ふさ》ぐ木々の枝を折らないように気をつけつつ、上条は中へと足を|踏《ふ》み込んで、 「インデックスー? いるならいるって返事してもらえると|嬉《うれ》しいんだけどー」  さらに進み、視界が開けたその先に。  インデックスがいた。  |何故《なぜ》か着替え中の。 「………………………………………………………………………………………………、」  上条とインデックスは、お互いに目を合わせたまま動きを止める。  さらには、チア衣装を着込んでいる|小萌《こもえ》先生がインデックスと向き合っていたが、彼女は上条に背を向けているため、その存在に気づいていない。  おかしい、と彼は思う。  上条の|記憶《きおく》の中にあ。った最新のインデックスは、確か白地に|金刺繍《きんししゆう》の、紅茶のカップのような修道服を着ていたはずだ。それがどういう理屈で、修道服が|綺麗《きれい》に折り畳まれて地面に置いてあるのだろう。そして何故、修道服の上には同色のパンツが置いてあるのだろうか?  一休どこから調達してきたのか、チアリーダーが着ていそうな、白の短いプリーツスカートに、上は淡い緑色のタンクトップ。小萌先生と同じ服装だ。  が、タンクトップはようやく片手を突っ込んだ所だった。斜めになった衣服の端が、インデックスのほんのわずかな胸を押しているのが分かる。そして何より、小萌先生がインデックスの足にチアリーディング用の下着(テニスのアンダースコートと同じものだろうか?)を|穿《は》かせようとしている、まさにその|瞬間《しゆんかん》だった。  インデックスは片足の|太股《ふともも》まで下着を上げて、もう片方の足を差し込もうとしている格好でピタリと止まっている。当然ながら、その状態でスカートが平時の役割を果たすはずがない。 まして、チアリーディング用の衣装は、元々『隠す』役割など持っていないのだ。  繰り返すが、インデックスの修道服はきちんと畳まれて地面の上に置いてある。  そしてその上には、同色のパンツも置いてある。  インデックスが上げた足に下着を通そうとしている|小萌《こもえ》先生の頭がなければ、チラッと見たでは済まされない所まで見えてしまう所だったはずだ。 「……、ぁ、あ」  彼女の顔が|驚愕《きようがく》による一時停止から、徐々に『一刻も早くコイツを食い殺そう』という怒り顔に変わっていく。|上条《かみじよう》は上条で、全身から嫌な汗をダラダラと流しつつも、その場から動けない。すでにチア衣装に着替え終わっている小萌先生だけがそんな二人の様子に気づかず、全く気楽にインデックスへ話しかける。 「ごめんなさいですー。正規の更衣室はその学校の入間でないと使えないって決まりがあって。 こんな所でお着替えさせるのは心苦しいんですけどー……って、きゃあー!? 」  インデックスは最後まで聞いていない。下着を|太股《ふともも》に引っ掛けたまま、勢い良く飛んで上条|当麻《とうま》へ|襲《おそ》いかかる。 「とうまーっ!! これで何度團か数えてみると良いかも!!」 「うおお! スミマセンの精神は|旺盛《おうせい》だがしかしこれ以上|喰《く》われてたまるかーっ!!」  上条は何とか身をひねり、|強襲少《さようしゆう》女インデックスの|噛《か》み付き|攻撃《こうげき》から逃れようとする。飛び掛かったインデックスの両手は上条の後ろへ回り、しっかりとその体をホールドしたが、頭を|狙《ねら》っていた彼女の狙いがほんのわずかに|逸《そ》れて、  かぷり、と。インデックスの口が、上条当麻のほっぺたに直撃した。 「ひっ……!?」  小さな唇の、しかし柔らかい感触が伝わってくる。上下の歯の硬い質感と、その|隙間《すきま》から伝わる温かいモノは舌の先だろうか。上条の体温より熱い吐息がぶつかり、彼女の|唾液《だえき》のわずかな感覚に、全身がぶるりと|震《ふる》える。 「……ぃ、な、インデックスッ!!」 「……、」  上条は顔を真っ赤にして叫ぶが、返事はない。  ササササ!! とインデックスは無音のままものすごい速度で上条から離れた。|普段《ふだん》なら叫び声の一つがあってもおかしくないはずなのに、インデックスは|黙《だま》ったまま表情が見えなくなるほど|俯《うつむ》いて、耳まで真っ赤になっている。もしかすると、今まであまり意識していなかった噛み付くという行為について、何か考えているのかもしれない。気が動転しているのか、自分の 衣服があちこち脱げ掛かっている事にも意識が回っていないようだ。  |上条《かみじよう》は|小萌《こもえ》先生の方を見たが、彼女は。両手をほっぺたに当てて『わ、わああー……』と意味不明な事を言っているだけでちっとも|頼《たよ》りにならない。 「い、いや、あの、インデックス、さん? |大丈夫《だいじようぶ》ですって事故。ですよ事故! こ、こんなのノーカウントなんだからそんなマジにならなくても……って、うわ! ちょっと待てインデックス、お前何でそんな恥ずかしさから一転してお怒りモードの赤面顔になってるんだ! ひょっとして|俺《おれ》は今何か余計にマズイ事を口走りましたかーっ!?」  無言のままブルブルと小刻みに|震《ふる》え始めたチア少女の姿を見て、上条が思わず後ろへ二歩、三歩と下がりかけたその|瞬間《しゆんかん》。 「———、上条」  真後ろから冷たい女性の声が背中に突き刺さった。  上条は予断を許さない状態のインデックスに気を配りつつ、恐る恐る背後を振り返ってみる。  |吹寄制理《ふきよせせいり》。  体操服の上から運営委員の|薄《うす》いパーカーを羽織っている彼女は、 「運営委員の仕事で、|月詠《つくよみ》先生を捜してて、声が聞こえたからここまでやって来てみれば……また[#「また」に傍点]?」  まず初めに上条と小刻みにぶるぶる震えている半裸インデックスを見て、次に顔を真っ赤にしている|小萌《こもえ》先生を見て、そして|綺麗《きれい》に折り畳まれた衣服と下着を見て、最後にもう一度インデックスを———より正確には、彼女の|太股《ふともも》に引っかかったままの下着を見て、 「皆の応援サボってナニをやっているのよ、この学校の裏切り者が!」  何らかの能力ではなく、まんま握り|拳《こぶし》の|一撃《いちげき》を受けて|上条当麻《かみじようとうま》は|薙《な》ぎ倒されるように吹っ飛び、そのまま地面を転がっていった。      5  ボロボロになった上条当麻は、一度公園(というか、植物学の試験場)から出た。というより、ご立腹の|吹寄制理《ふきよせせいり》に引きずられて来た。手を|掴《つか》まれて、ではなく、|襟首《えりくび》を引っ張られるようにだ。向こうでは今もインデックスが小萌先生に手伝ってもらう形で着替えをしている最中だろう。 「まったく。少しは大会を成功させようという努力はできないの、貴様は? 最も努力すべきは運営委員だというのはあたしも分かるけど、ここまでやる気がない人間を見ると腹が立ってくる!」  言いながら、吹寄はパーカーのポケットから、補充しておいたらしき紙パックの牛乳を飲み始める。やはり怒りでカルシウムが不足しているらしい。『あたしは上条当麻が嫌い』というのは照れ隠しでも何でもなく、ただの本音だというのが|雰囲気《ふんいき》だけでビシバシと伝わってくる。  ずるずるずるずるー、とまだまだ襟首を欄まれて引きずられていく上条は、 「ふ、吹寄さ。い、今ってウチの学校は何の競技やってるのかなー……?」 「それぐらい何で覚えてられない? 脳の栄養が足りてないのか。そうかそうか、なら今この場で最優先すべきは糖分の摂取ね!」  そう言いながら、彼女は牛乳パックをゴミ箱に捨て、パーカーの。ボケットをごそごそと|漁《あさ》ってコーヒーに使うシュガースティックを取り出す。 「うっ!? 何の工夫もなく本当に普通のお砂糖かよ!」  上条がビクッと肩を|震《ふる》わせて逃げようとした|瞬間《しゆんかん》、吹寄が彼の首へ腕を回した。そのまま|腋《わき》の下に上条の頭を挟む形で、左腕一本でヘッドロック完了。 「とりあえず寝てる頭を起こしてみなさい。それで|駄目《だめ》なら火豆イソフラボンを試してみるか豆乳プリンで良いわよね!? 」 「ううっ! それなら最初から豆乳プリンにしていただけるとわたくし上条当麻は大変助かります! 糖分だって含まれているはずだし!」  シュガースティックを強引に飲ませようとする吹寄に対して、上条はバタバタと手足を振って暴れ出したが、腋の下でがっちりと頭部を固定されているため、全く動く気配がない。それでも抵抗を続けていると、ふと上条は右側のほっぺたに柔らかいものが当たるのを感じた。  |吹寄制理《ふきよせせいり》の大きな胸だ。 (うわぁ……ッ!?)  |上条《かみじよう》の抵抗力が三倍増しになった。吹寄は状況に気づいていないのか、シュガースティック片手に|眉《まゆ》を少しひそめているだけだ。 「待って待って! そんなのお|腹《なか》いっぱいに食べた所で上条さんのお|馬鹿《ぽか》は治りませんの事よ!!」 「……自分で言ってて|哀《かな》しくないの?」  哀しくないもん! と上条は高速であさっての方向を向こうとする。より…層胸の弾力が伝わってきて、彼の体がガチガチに凍りついた。吹寄は|誹《いぶか》しげな表情のまま、やれやれと上条をヘッドロックから解放する。  助かったー、と上条が息を吐いた直後、再び吹寄は彼の|襟首《えりくび》を|掴《つか》んでずるずるずるずるー、と引っ張りを再開させてしまった。 「今ウチの学校が参加しているのは二年女子の綱引きと三年男子選抜のトライアスロン。どっちの応援が良い? やっぱり女子か。そうよね|所詮《しよせん》は上条だものね!」 「何だこのトゲトゲトーク! 吹寄さんてばどうしてそんなにクールなんだよ!? むしろ心のクールビズですかあなた!!」 「失敬な。あたしのガードはそんな|薄手《うすで》じゃないわよ!」  むしろ鉄壁のウォームビズなのですね! と上条は心の中でツッコんでみたが、どうせ笑ってくれないに決まっているので口には出さなかった。 「時に吹寄、運営委員の仕事の方って|大丈夫《だいじようぶ》なのか?」 「……、何で貴様にいちいち心配されなくちゃいけないのよ」 「取り付く島もないってのはこんな感じなんだろうな……。運営委員って仕事大変じゃねえの? いや具休的に何やってるかいまいち分かってないんだけど、|俺《おれ》なんかに構ってて大丈夫なのかって思ってさ」  競技の準備や審判から、競技前・中・後の放送、迷子預かりや簡単な道案内まで、運営委員は|大覇星祭《だいはせいさい》の様々な雑用を任されている。それでいて選手としても競伎に参加する訳だから、自由時間の少なさは普通の生徒の比ではないはずだ。  が、吹寄はジロリと横目で上条を眺め、 「別に。|月詠《つくよみ》先生への伝言は済ませてあるし。大。体、突発的な事態にも対処できるように、スケジュールにはある程度のゆとりを設けておいたから問題ないわ!」 「もったいねえの。俺みたいなのに|関《かか》わってないで、友。達と屋台とか回れば良いのに」 「思い出の作り方は人それぞれよ。あの子|達《たち》だってちゃんと納得してくれてるし!」  そう言った吹寄の表情は、その時だけ入並みに角が取れていた。相変わらずズルズルと引きずられる上条はため息をついて、 「はいはいっと。……何でも良いけど、|襟首掴《えりくびつか》むのそろそろやめないか?」 「それでは、手」  意外にもあっさりと襟首から手を離してくれた|吹寄《ふらよせ》は、その小さな手をにゅっとこちらへ差し出してきた。ハンドクリームを塗られた柔らかそうな|掌《てのひら》だ。どうせまたコエンザイムQ10とか通販番組でチョコチョコ取り上げられている|流行《はやり》モノの健康グッズなんだろう。 「ありゃ。えーっと、じゃあ失礼して」  彼は少し考えたが、やがて吹寄の手を取った。冷たい手だと思っていたが、予想は外れてあったかかった。たったそれだけの事なのに、|上条《かみじよう》は少し不意を突かれた感覚で胸が高鳴った。  吹寄はちらりとこちらの顔を見て、 「歩くの遅い」 「……、」  何を一人で高鳴ってんだうとため息をつく上条|当麻《とうま》を、鉄壁不機嫌顔の吹寄|制理《せいり》がずるずると引っ張っていく。      6  吹寄に連れられる形で上条は街を歩いていた。  この辺りは特に人混みが激しい。どうも、地下鉄の駅や自律バスの停留所など、交通の要所が集中しているのが原因らしい。電車からバスへ、バスの路線Aから路線Bへ、といった感じに、様々な乗り換えを行うべく色んな方向に人々が行き交っている。  インデックスと別れた辺りから、結構な距離が開いている、と思う。どうも吹寄は上条を学校の応援に向かわせたいようだが、こちらは別行動でオリアナの行方を探っている|土御門《つちみかど》やステイルから連絡があれば即座に動かなければならない身である。困ったもんだなどうしよう、と上条が一人であれこれ悩んでいると、 「ねえ上条。|大覇星祭《だいはせいさい》ってつまんない?」  唐突に、手を|繋《つな》いでいる吹寄が言ってきた。  あん? と上条が|眉《まゆ》をひそめると、 「どうも貴様は浮ついているというか、別の事が気になっているような感じがする!」  ギクリとした。  吹嵜は、そんな上条の顔を見て、 「ま、絶対に大覇星祭に集中しなくちゃ|駄目《だめ》なんて強制はできないし、リタイヤするって言うなら止められないんだけどさ」  どうも、吹寄は大覇星祭の裏で行われようとしている事を|勘繰《かんぐ》っているのではなく、単純に上条の集中力の方向性に疑問を抱いているだけらしい。 「やっぱり、企画を立てて今日まで頑張ってきた身としては、わがままでも皆に参。加して、楽しい思い出を共有してもらいたいと思ってしまうのね。それで皆が笑えれば言う事はないんだけど……。|上条《かみじよう》が今日つまんないと感じたのなら、やっぱり準備を進めてきたあたしが何か不足していたという訳だから、何ともね」 「……、貢任感の強いヤツだな。別につまんねえなんて思ってねーって。この手の|馬鹿騒《ばかさわ》ぎは騒いでこそ華だしな」  |吹寄《ふきよせ》がどういう理由で|大覇星祭《だいはせいさい》の運営委員になったかは、上条は知らない。が、|誰《だれ》に押し付けられた訳でもなく、自分から立候補した以上は、やっぱり彼女なりに成功させたい理由があるのだろう。放課後遅くまで残ってでも、|他《ほか》の友人と|一緒《いつしよ》に自由時間を過せなくなってでも成功させたい理由が。  しかし、彼女は知らない。  そうした|想《おも》いを、|魔術師達《まじゆつしたち》が利用しようとしている事を。『|刺突杭剣《スタブソード》』の取り引きを行うために|暗躍《あんやく》し、学園都市の内外では様々な思惑が|拮抗《きつこう》している事も。  頑張らないとな、と上条は思った。  吹寄だけじゃない。他の運営委員だって大覇星祭を成功させようとしているだろうし、この街を歩いている生徒や外部からやってきた観客達だって、楽しい思い出を作りたいに決まっている。だからこそ、頑張らないとな、と思う。 そんな上条の顔を、吹寄は|講《いぶか》しげに|覗《のぞ》き込み、 「……、やはり他の事が気になって仕方がないみたいね」 「は? いや違うって! 上条さんは超やる気ですよ。何を一人で勝手にセルフイライラモードに突入してるんですか吹寄さん!!」  不機嫌なムカムカで輝きが失われつつある吹寄に、慌てた上条は手を|繋《つな》いだまま彼女の前に回って、その顔を覗。き込むような体勢で答えた所で。  ドン。、と背中を押された。  混雑している歩道で、誰かの肩がぶつかってきたらしい。  おっと、と上条は不意打ちに対処できず、思わず一歩前へ進んでしまった。そのため、上条は覗き込んでいた吹寄の顔との距離を一気に縮めてしまう。  というか、元々顔と顔の距離は三〇センチぐらいしかない。 「だ……っ!!」 「え……っ!?」  とお互いが叫ぶ間もなく、その距離がゼロに縮んでしまった。コツン、という音と共に、上条と吹寄の細でこが軽くぶつかる。ついでに鼻と鼻の先も少し触れた。唇と唇は触れなかったが、彼女の|薄《うず》い吐息がこちらの唇にぶつかるのが分かった。 (なっ……)  |上条《かみじよう》の呼吸が思わず止まったが、 「離れなさい上条|当麻《とうま》!」  次の|瞬問《しゆんかん》ゴッ!! と思い切り|吹寄《ふきょせ》に頭突きされた。 「あどあ!?」  上条の上半身が思い切り|仰《の》け反った。それまで|繋《つな》いでいた手が勢い良く離れる。自分の顔の熱が上がるのが分かる。吹寄の方はそれほど顔の色は変えていないが、じんわりとその表情をイライラに塗り替えていくと、 「……人が|真面目《まじめ》な話をしている時だって、上条当麻はやっぱり上条当麻か」 「ち、違うのにー |俺《おれ》だって真面目に考え事してたのにーっ門"」 「あれよね。あたしは一生、貴様と打ち解ける事はないと思うわ」 「ううっ! 吹寄さんのクールっぷりに磨きがかかった気がする!!」  上条が思わず叫ぶと、吹寄がスパァン! と|掌《てのひら》で彼の後頭部をはたいた。ツッコミにも親愛の情が足りない気がする、と上条はやや頭を下げる形で、後頭部を軽くさすった瞬間、  ぼふっ、と。  今度は下げた頭に、いきなり柔らかいものがぶつかってきた。  冷静に確かめてみると、それは女性の胸だった。 「おわあ!?」  |上条《かみじよう》が慌てて身を|退《ひ》く。さっきから次から次へと一体何が起こってんだ!? とビビリまくる彼に対して、ぶつかってきた女性は『おっとっと……』と、あんまり気にしていないような、適当な声を出していた。横にいた|吹寄《ふきよせ》の『……上条』という低い声の方が、よほど|怨念《おんねん》が|籠《こも》っているように聞こえる。  ぶつかってきたのは、地味な作業服を着た一八か九歳ぐらいの女性だった。|神裂火織《かんざきかおり》と同じぐらいかもしれない。身長は上条よりもやや高い。日本人にしては高い、と評価したい所だが、色の強い金髪や青い|瞳《ひとみ》を見る限り、それは正しい意見とは言えなさそうだ。吹寄|制理《せいり》もクラスの中ではスタイルが良い方だが、こちらの女性はそんな吹寄のスタイルが|霞《かす》んで見えるほど色っぽい。単純に胸や腰などの体つきが良いのはもちろん、何か目に見えない|妖艶《ようえん》さをまとわりつかせているような気がする。  その女性の長い金髪は、ワックスや巻き髪用のアイロンなどで相当手を入れてあるようだ。全体的には髪を細い束ごとにアイロンでクセをつけ、小さな巻き髪を互いに|絡《から》めるように三本の太い束に分けている。その他にも細かい所に様々な手が入り、一回セットするのが大変そうな髪型だ。一方、アクセサリーはない。髪そのものを加工して黄金の装飾品を作っている感じだ。  塗装業の関係者なのか、作業服のあちこちには乾いたペンキがこびりついていて、|脇《わき》には真っ白な布で|覆《おお》われた、長さ一・五メートル、幅七〇センチぐらいの看板を挟んでいる。ピンと伸ばした手の先が、かろうじて看板の下部を|掴《つか》んでいた。  が。 「うわ……」  と、思わず声をあげたのは、上条ではなく|隣《となり》の吹寄だ。  作業服はボタンで前を留めるタイプなのだが、大きく開いている。『第ニボタンまで開いている』とかではなく、『第二ボタン以外、一つもボタンを留めていない』だ。大きな胸の谷間もおへそも丸見えで、水着みたいな感覚なのかもしれないと⊥条は考える。  ズボンもかなり|緩《ゆる》そうで、腰の辺りに引っ掛けて|穿《は》いている、といった感じだ。別にわざわざ後ろに回って確認する気はないが、もしかするとずり落ちたズボンの端からちょっとお|尻《しり》が見えているかもしれない。  そのままの格好でも|露出《ろしゆつ》が多いが、少し|迂闊《うかつ》に動いただけで全部脱げてしまいそうな、別種の危うさを兼ね備えている。自分の体について自覚的である辺りが、ジャージ姿の巨乳|警備員《アンチスキル》さんとは少し系統が異なる気がした。  塗装業者のお姉さんは、看板を脇に挟んでいるのとは逆の手で、適当に拝むような仕草を作ると、意外に|流暢《りゆうちよう》な日本語で、 「ああーっと。ごめんねごめんね、こんな人混みはあんまり慣れてなくて。どこか痛い所とかないかしら。あ、ここ? 頭の後ろが痛いの?」 「う、うう。実は違うんだけど優しさが身に染みすぎて、このまま体を預けてしまいそう……」  ほとんど涙混じりの|上条《かみじよう》の対応に、|吹寄制理《ふきよせせいり》は片目を閉じて、ついさっき一|撃《いちげき》を放った後頭部へ再びゲンコツを振り下ろす。その拍子に、上条の体がもう一度塗装業者のお姉さんの胸へと突っ込んでいく。お姉さんは特に悲嶋をあげる事もなく、片手でゆっくりと上条の体を引き|剥《は》がすと、 「よいしょっと。ほら、|大丈夫《だいじようぶ》? あんまりケンカとかしては、ダ・メ・よ。せっかくのお祭りなんだから、楽しい思い出を残せるようにした方が賢明よね?」  ぶわっ、と上条は顔全体を使って今にも泣き出しそうな表情になり、 「器が大きすぎる! どっかの|噛《か》み付き少女やゲンコツ女とは比べ物にならないっ! 上条さんはこの優しさに|溺《おぼ》れてしまいそうです!!」 「あらまあ。自分のメリットばかりを見て好きだって言うのは、口説き文句としてちょっと幼すぎるかな」  この野郎、という目で上条を|睨《にら》んでいる吹寄に、塗装業者のお姉さんは|薄《うす》く笑って小さく頭を下げる。 「ああっと。そっちのお|嬢《じよう》ちゃんもごめんなさいね」  吹寄はびっくりした顔で、 「な、何であなたが謝るんですか?」 「間接的な原因は、やはりお姉さんにありそうだから、じゃダメかしら?」  余裕があり過ぎる大人の|台詞《せりふ》に少女はたじろぐ。上条が『ホラ見ろあれが大人の女性ってヤツなんだよ見たか見習え参考にしろこの堅物女!!」と|喚《わめ》いた。直後に吹寄は合気道っぽい投げ技を発動して上条を路上に|叩《たた》きつける。 「あー、もう大丈夫かな? それだけ元気があれば」  地面で取り押さえられる少年と取り押さえている少女を見て、塗装業者のお姉さんが話しかけた。それから上条に、にゅっと、握手を求めるように手を伸ばしてくる。 「ぶつかってしまったお|詫《わ》びに、ね。日本じゃ頭を下げるみたいだけど、こちらではこういうやり方の方が一般的ね」 「はあ……そういうもんなの?」 「あら。キスの方が良い?」  ぶっ!! と上条は思わず吹き出しかけた。  純情少年上条|当麻《とうま》はぶるぶるとしばらく|震《ふる》えた後に、 「キスの方が良いッ!!」  叫んだ|瞬間《しゆんかん》に吹寄制理が上条のこめかみに握り|拳《こぶし》を放った。くわんくわん、と頭を揺らす彼に塗装業者のお姉さんは笑いながら、再び握手の手を差し出してくる。  インデックスも噛み付きじゃなくて、こういう優しい文化を身につけてくれないものかしら、と上条は差し出された手を、同じく右手で握り返して[#「同じく右手で握り返して」に傍点]、  バギン!! と。  何かが砕けるような、奇妙な音が|響《ひび》いた。 「は?」  という声を出したのは、|上条《かみじよう》でもお姉さんでもなく、それを見ていた|吹寄制理《ふきよせせいり》だ。当事者の二人は、それぞれ何が起きたのかは理解しているため、そんな声は出さない。  上条|当麻《とうま》は自分の右手に宿る能力[#「自分の右手に宿る能力」に傍点]について思い出している最中だし、  塗装業者のお姉さんは、何を破壊されたのか[#「何を破壊されたのか」に傍点]を確認している最中だ。 「っとっとっと」  お姉さんは無理に苦笑いを浮かべようとし、それすらも失敗して、 「そろそろ、こっちもお仕事に戻らなくっちゃならないから。行っても良いかしら?」  言うだけ言うと、上条|達《たら》の返事も待たずに立ち去ってしまう。仕草や動きに違いはないはずなのに、先ほどまであった、余裕に似たような|雰囲気《ふんいき》がなくなっていた。  握手の形で宙に手を伸ばしている吹寄は、首を|傾《かし》げて、 「……あれ、あたしとは握手しないの? どう思う、上条当麻?」 「あん? お前とは仲良くしたくねーって事じゃねーごァああ!?」  |茶化《ちやか》した所で思い切り頭突きされた。  吹寄は心底|呆《あき》れたようなため息と共に、再び上条の手を|掴《つか》んで連れて行こうとしたが、その時、彼女の携帯電話が着信メロディを鴫らした。どうも運営委員の連絡らしく、吹寄の口から事務的な言葉が漏れる。小声で何か言い合っているのを見る限り、何かちょっとしたトラブルでも起きたらしい。吹寄は上条の顔と時計の文字盤を交互に見る。『次はパン食い競走あるから遅れるんじゃないわよ!』と運営委員らしい|台詞《せりふ》と共に吹寄制理が携帯電話片手にどこかへ行くのを眺めつつ、上条は硬いおでこをぶつけられたほっぺたを手で押さえ、考える。  今、自分が打ち消したのは『|魔術《まじゆつ》』か『超能力』か。  上条は少し考え、『超能力』の線は|薄《うす》いと考えた。学園都市に所属する能力者とは、簡単に言えば学生だ。|大覇星祭《だいはせいさい》期問中なら、普通はそちらに参加するだろう。|土御門舞夏《つちみかどまいか》のような例外があるから断言できないが、どうも塗装業者の格好は、メーカーのロゴなどを見るに『外からやってきた業者』のものであるような気がする。テレビのCMでも時折見かける名前だから、何となく覚えていたのだ。  当然ながら、元々学園都市の内部にいる学生がそんな衣服を手にする機会はない。  だとすると……。  上条当麻は携帯電話を取り出した。用囲を見回し、吹寄がいないのを確認する。今回の件は|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》に動かれると困るらしいので、彼女に聞かれるのもまずいだろうと考えたのだ。それから|土御門元春《つちみかどもとぱる》の番号にかける。 『どうもー。カミやん、インデックスの方は|上手《うま》くごまかせてるかにゃー? こっちは今、オリアナが取り引きに使いそうな警備の|薄《うす》いスポットを割り出してるんだけど、第七学区は意外にポイントが多い。だから一応は、インデックスが近づかないように気をつけてもらえると———』 「いや、それより一つだけ確認しても良いか、土御門」  |上条《かみじよう》の口調が早口気味になっている事に気づいたのか、土御門は声のトーンを落とすと、『……で、聞きたいのは?』 「なんだっけ? ナントカソードっていう|魔術《まじゆつ》アイテムの取り引きを止めるのが、|俺達《おれたち》の目的なんだよな」  上条は人混みへ目を向ける。着崩した作業服の後ろ姿は、まだ見えている。 『「|刺突杭剣《スタブソード》」な。後はアイテムじゃなくて|霊装《れいそ つ》。あん、何? もしかして弱気になってんのカミやん? でもオレ達以外の増援なんて絶対にやって来ないぜい』 「本当だな[#「本当だな」に傍点]?」 『……どういう意味かな。カミやん』  上条は背伸びして、その姿を見失わないように努力する。が、女は角を曲がってしまった。 「俺がある人物と握手した途端に、|幻想殺し《イアジンブレイカー》が何かを|壊《こわ》したんだ。何か、は分からない。でも、そいつは学生っぽくないっつーか、学園都市の外からやってきたっぽい格好をしてて」 『待て。カミやん。こっちも質問するぞ。そいつ、何か大きな荷物を持ってなかったか? 「|刺突杭剣《スタブソード》」は全長一・五メートル、|鍔《つぽ》はそれぞれ左右に三五センチずつ仲びてる。結構|馬鹿《ばか》デカイ剣を隠せるような……何だろうな? スーツケースでも入らないような気はするし』  上条は土御門の質問に、顔を青くした。 「持ってた」 『何が?』 「看板だ。その女、白い布で|覆《おお》われた、大きな看板みたいな物を持っていたんだけど……」 『カミやん。お前今どこにいるんだ?』 「は? いや、えーっと……|一財銀行《いちざいぎんこう》の前だけど」  そこで待ってろ、とだけ声が聞こえ、携帯電話がいきなり切れた。  通話の切れた携帯電話を眺める。女の姿を追ってみるか、ここに|留《とど》まって土御門を待つか、上条は少し考え、塗装業者の女が消えて行った方へと走り出す。土御門が到着するまで待っていては、確実に見失ってしまうからだ。  何かが始まる、と上条は予感する。  それは、決して喜ぶような事態にはならないだろうという事も、同時に思う。      7  作業服を着崩した金髪の女は、|脇《わさ》に大きな看板を挟んだまま、人混みの中を|縫《ぬ》って歩いていく。そして同時に、浮いているな、というのも自覚していた。仕草や動作に気を配っているつもりだが、やはり予測外の出来事に、感情が|完壁《かんぺき》に対処しきれていない。  女は作業服のズボンのポケットに空いた手を突っ込んだ。その拍子に、ほんのわずかにズボンが下がるが気にしない。中から取り出したのは、暗記に使うような単語帳だ。ただしそこには何も書かれていない。ただ白紙の厚紙が金属のリングに通してあるだけ。 「はむっ……」  と、女は単語帳の一ページを歯で|噛《か》んで引っ張り、紙を|千切《ちぎ》る形でリングから取り外す。すると、まるでリトマス紙のように文字が浮かび上がった。筆記体で書かれたのは『|Water Symbol《ウオーターシンボル》』という黄色の文字。  水の象微[#「水の象微」に傍点]という意味を持つ名前が、黄色い[#「黄色い」に傍点]インクによって|紡《つむ》がれる。  女は単語帳をポケットに戻すと、口に|唖《くわ》えた一ページを貝殻のように耳へ当て、 「あー、あー。もしもし。こちらはオリアナ[#「オリアナ」に傍点]=トムソン[#「トムソン」に傍点]。通信は届いているのかな。聞こえているのなら返事をしてもらえると助かるわん」  独り言のような声に対し、耳に当てた単語帳の一枚が、空気の振動を介さない声で[#「空気の振動を介さない声で」に傍点]、 『本名は慎むように。|貴女《あなた》の肉声そのものは、周囲に漏れる危険性が|考慮《りしうりよ》されるが|故《ゆえ》に。そこから正体を看破されると、厄介な事態を招く恐れも推測されるので』  折り目正しい声だった。  だからこそ、オリアナと名乗った女は苦く笑って、 「すでに少々トラブルに巻き込まれているの。お姉さんとしてはアドリブ満載の方が|興奮《こうふん》するんだけど、そちらの好みのシチュエーションではないのよね? リドヴィア[#「リドヴィア」に傍点]=ロレンツェッティ[#「ロレンツェッティ」に傍点]」  リドヴィアと本名を呼ばれた通信相手は、|一瞬《いつしゆん》だけ|沈黙《ちんもく》し、 『|卑狼《ひわい》な表現は慎むように。こちらは信仰上の理由により、貴女の調子に合わせる事を固く禁じられています故に』 「そうねぇ。我慢我漫で|焦《じ》らされるのがお好きな修道女には、言葉責めは少々|辛《つら》すぎるかもしれないわね。知っている? 殉教聖人が|最期《さいこ》に見る天使の幻覚って、実は科学的な視点で考えるとマゾヒズム的なエクスタシーの可能性もあるんですって」 『……、』 「あら? もしかして科学方面のお話はお嫌いかしら。群衆心理を応用した教会の運営法とか聞くと耳を|塞《ふさ》ぎたくなっちゃう人間だったの?」 『……気にしているのは、そちらの方では……』  通信相手はそこまで言うと、不機嫌そうに|黙《だま》り込んだ。これでは通信をする意味がなくなってしまう、と今さらながら|焦《あせ》り始めたオリアナは、 「遊びが過ぎたかな、お嬢ちゃん[#「お嬢ちゃん」に傍点]。だったらごめんね」 『|貴女《あなた》の方が年下ではないかと思われるのですが』 「それでもあなたはお|嬢《じよう》ちゃんよ。いくつになってもお嬢ちゃん。だって、お嬢ちゃんのまま年老いていくのが修道女の|本懐《ほんかい》なのよね?」 『清貧を掲げる身の上としては、お|嬢様《セニヨリーナ》、という富豪に対する表現は不適切かと。大体、貴女も聖書を受け取った身であるはずなのに。修道女とは主の家族の一員となる際に———』  またいつもの説教か、とオリアナはため息をつく。  典型的なローマ正教徒であるリドヴィア=ロレンツェッティは、主に祈るか教えを広める事で気分がハイになっていく、オリアナは適当に聞き流しながら、|頃合《ころあい》を見計らって、 「でね。本題のトラブルというヤツなんだけど」 『———我々修道女は皆、神の子の花嫁であり、それ|故《ゆえ》に他者との性的な|繋《つな》がりは主に対する不貞の罪とみなされ……と、こちらの説教は』 「後でね」オリアナは簡単に流して、「簡単に説明すると、お姉さんが自分に使っていたあの術式[#「あの術式」に傍点]が破られちゃったの」  あの術式。  使い捨てるようにつけた名前は『|表裏の騒静《サイレントコイン》』。  オリアナが用いたのは、一種の保険のようなものだ。自分を追い駆けよう、という気力を奪う術式。|一緒《いつしよ》に向き合って話している時は何の効力もないが、少しでも背中を向けると、『呼び止めるほどの事でもないよな』『また今度でも良いよな』と思わせ、二度とその背中に声をかけようとは思わなくなる、といった効果を作る。『人払い』の術式を応用し構成した|魔術《まじゆつ》だ。  この術式が効果を発揮している間は、たとえオリアナが|掌《てのひら》から炎の塊を生み出そうが何だううが、|誰《だれ》も『呼び止める気がしなくなる』。だからこそ、安心して『取り引き�の計画を済ませられる手はずだったのだが……。  諸事情あって、オリアナは一度|壊《こわ》されたこの術式を、もう一度再構築する事はできない。 『あの、直接的な原因は?』 「分からないわ」 『では、これからの対応策は?』 「分からないわね」 『……、」 「ああっ、切らないで切らないで! お姉さんにはこういう痛い|沈黙《ちんもく》を浴びて喜ぶような|趣味《しゆみ》はないんだから」 『では、これからどのような策に出るのか、代案の提出を』  そうね、とオリアナ=トムソンはニコニコ笑って、 「……まずは、後ろにいる坊やを|撒《ま》かないといけないわね」      8  |上条当麻《かみじようとうま》の見ている先で、作業服の女———おそらくは運び屋のオリアナ=トムソンがいきなり角を曲がった。 (……気づかれた!?)  とにかく見失わないのが先決だ。上条はヘタクソな尾行をやめて、人との|隙間《すきま》を|潜《くぐ》るように走り出す。別の場所にテレビカメラが来ているのか、幸い進行ルートに人は集中していない。  ビルの輪郭に従うように、直角の交差点を曲がる。  思ったより遠くで、金色の髪が揺れているのが見えた。上条は風船を持った子供や手を|繋《つな》いでいるカップルの横を追い越しつつ速度を上げていく。競技用に休操服を着ていたのは救いかな、と思う。別に航空力学などを利用した空気抵抗を軽減させるようなハイテク素材ではないが、それでも学生服のズボンに比べれば随分動きやすいだろう、  割と全力で走っているが、周囲からそれほど奇異の目は向けられていない。もしかすると借り物競走か何かだと勘違いされているのかもしれない。そうこうしている内にグングンと速度が上がっていく。最初に金髪の女とぶつかって、|吹寄《ふニよせ》と別れた場所から軽く一キロは離れている。ましてインデックスが着替えていた植物学試験場は、もう歩いて帰るのも面倒なくらい遠ざかっているはずだ。  と、上条のズボンのポケットで、携帯電話の着信音が鳴った。  走りながら話すのは疲れる。上条は相手によって出るか|否《いな》か決めよう、と考えていたが、番号は|土御門元春《つちみかどもとはる》のものだった。  慌てて出る。 『カミやん、今どこだ!? どうしてその場で待ってなかった!』 「悪い、あのままだったら見失っちまうかもしれないと思って!」  言っている間にも、二〇メートルぐらい先にいる作業服の影がさらに角を曲がる。上条は一気に歩道を走って、曲がり角へ向かう。 『くそ、それで? 今どこにいるんだ?』  角を曲がった上条は、思わず|噂《うめ》いた。先は細い路地で、道は三本に分かれている。彼は耳を|澄《す》まし、足音の聞こえてくる方へ走る。|真《ま》っ|直《す》ぐの道だ。 「場所は……目印になりそうなものがない! こっちのGPSの使用コードをメールで送る。そっちでサーチしてみてくれ!!」  GPS機能付き携帯電話には、『友人の現在地を探す』というサービスもある。ただし、これはサーチされる携帯電話の方から、専用のコードを含むメールを受け取らなければならない。 また、コードも三〇分で新しい物に更新されるようにできている。  |上条《かみじよう》は自分の位置情報を教えるのに必要なコードを|土御門《つちみかど》の携帯電話に送ると、通話を切った。もちろんGPS機能を生かすため、電源はつけたままにしておく。  細い路地をしばらく走る。意外に路地は長さがあった。ビルとビルで作られた細い|隙間《すほま》は途中でゆったりとカーブを描いていて、奥が見えない。先へ先へと進む上条は、ようやく前方から人混みの声や足音を耳で|捉《とら》える事ができた。 「っと!!」  飛び出すと、そこは別の表通りだ。上条は周囲に視線を走らせる。オリアナは、左右に伸びる大通りの歩道を右方向へ走っていた。もうかなり遠くにいる。距離にして五〇メートルか。大きな看板(に偽装した、別の物品だろうか?)を抱えているにしては、|無茶苦茶《むちやくちや》な速度だ、  上条は慌ててオリアナを追い駆けた。  幸いにして、彼女の巨大な看板は周囲から若干浮いているため、即座に人混みに溶けてしまう事はない。が、逆に少しでも目を離せば見失うかもしれないという状況が、必要以上に上条の視線をオリアナ一点に集中させてしまう。心理的に視覚を|狭《せば》められた上条は、周りを歩く人|達《たち》は溢うか、道路のちょっとした段差さえ|避《さ》けられずにつまずきそうになる。「くそっ!」  上条は叫び、さらに走ろうとした所で、バシッ、と背中を|叩《たた》かれた。  土御門|元春《もとはる》と、ステイル=マグヌスだ。  随分と早い。  彼らは後ろからではなく、横合いの小道から割り込むように来た。おそらくGPS地図を見て、上条の現在位置と進行方向から行き先を予測し、近道を通ってきたのだろう。 「どれだ、カミやん? 『|刺突杭剣《スタブソード》』は看板に偽装してるって話だったよな」 「ぜぇ……あれだ。……あの、作業服着ている、金髪の女」  上条が指差すと、土御門とステイルは同時に走り出す。上条を置き去りにしたのは、ここから先はプロの仕事だという意思表示だろう。だが、上条は息を整える事もなく、再びステイル達を追い駆ける。 (しつこい……ッ!)  走りながら後ろを振り返り、オリアナは|密《ひモ》かに舌打ちする。距離にして五〇メートルは離れているが、逆に言えばそれだけだ。角を曲がり、迷いやすい小道を何度も通り、こちらの姿を見失わせるように努めてきたのに、全く効果が上がらない。  看板を持った塗装業者、という今の格好は『仕事中』というイメージを人に植えつける。ホテルにしてもデパートにしてもレストランにしても、看板さえなければ『休憩中に来店してきた』と思ってもらえるだろうが、|流石《さすが》にこの状態で客と同じ正面入り口から店内へ入れば、従業員に声をかけられるはずだ。逃走中に説明を求められても答えられるはずがないし、何度も従業員を振り切り続けるのも、それはそれで目立ってしまう。  かと言ってスタッフを装って裏口から入るには|鍵《かぎ》やIDが必要となる。だからこそ、外の道路を走るしかない、というのも尾行を|撒《ま》きづらい原因の一つになっているのだろうが、それにしてもこれだけ距離を離して正確に追尾できるのは少々異常だ。  しかも、気がついたら追跡者の数が一人から三人に増えている。  最初の一人は尾行のやり方からして|素人《しろうと》臭かったが、新手の二人が来てからは仕事の精度が段違いに上がっている。おそらくプロだ。こちらの心理を読み、逃走パターンを先読みしているのだろう。 (一応、学園都市も教会諸勢力も今の街中じゃ手は出せないって話だったはずだけど、やっぱり甘くはできていないわね……っと!)  オリァナの足が急ブレーキをかける。前方にテレビカメラが来ているのか、異様な人混みができていた。『巨大な看板』を手にしたオリアナには、あそこは通れない。看板に人の壁が引っかかって、思うように進めなくなるのだ。もちろん『看板』を捨てれば飛び込めるが、ここでそれをやっては本末転倒だ。  彼女は周囲を見回し、 (多少苦しいけど、あそこを通るのが一番安全かしら……)  思い、計算し、決断し、オリアナは横合いの別ルートへと飛び込んだ。  |土御門《つちみかど》が一番足が速く、次にステイル、最後に|上条《かみじよう》が続く。もっとも、上条は元々走っていたので体力が|保《も》たなかっただけで、本来ならステイルよりも速そうだ。  距離にして三〇メートルほど先を走っていたオリアナは、歩道の真ん中で突然立ち止まり、周囲を見回すと、横の道へと入って行った。土御門は走りながら|眉《まゆ》をひそめ、 「なんか、これまでと行動パターンがズレてるにゃー……。考えが変わったか?」  言いながらも、大して呼吸を乱さずに走り続ける。うっかり力を抜くと避いていかれそうな勢いだ。上条は両足に力を込めて、土御門の背中を追う。  オリアナが立ち止まった所まで来ると、前方にテレビカメラが来ているのに気づいた。地元の入間が聞けば見当違いとしか思えない説明を|興奮《こうふん》気味に話しているレポーターの声がここまで届いている。その周囲には満員電車のような人混みができていた。オリアナはあれに捕まるのを恐れてルートを変更したらしい。  オリアナの逃げた方へ、上条が視線を向けると、 「……何だこりゃ。バスターミナルか?」  一面アスファルトの空間が広がっていた。  周囲を完全にビルに囲まれた四角い平面。|大覇星祭《だいはせいきい》に合わせて、不要な建物を丸ごと|撤去《てつきよ》して|急遽《きゆうきよ》平地を作った、という感じの一角だ。  横幅は三〇メートル前後、奥行きは数百メートルはありそうだが、少しも『広い』という印象がない。まるでタンカーに乗せるように、たくさんの大型バスが所狭しと並んでいるためだ。ここからでは奥の様子は見えないが、ざっと五〇台から七〇台は|停《と》めてあるようだ。あちこちに金属の柱が立っていて、整備場全体がトタンか何かの巨大な屋根に|覆《おお》われている、|天井《てんじよう》からは自動車工場で車両を組み立てるための金属製のロボットアームのようなものがたくさんぶら下がっていた。  車両はどれも皆、無人の自律バスだ。  おそらくここは自律ユニットを組み込まれたバスのための、臨時の整備場なのだろう。今、街中を走っている自律バスも、洗車や燃料の補給、その他のメンテナンスのためには持ち場を空けなくてならない。そういった時のために、三交代制か何かの対策を取っているはずだ。ここで整備を受けている自律バスは待機組という事になる。  自律バスは大覇星祭期間中にしか使われず、この大きな整備場もそのためだけに作られているのだ。|上条《かみじよう》は改めて、イベントのスケールの大きさを思い知らされる。 『回送』と表示された自律バスが、ほとんど無音で上条|達《たち》の横を通って整備場へ入っていく。 |土御門《つちみかど》はゆっくりと走る自律バスの後ろについていく形で、それこそ音もなく整備場の中へ一歩足を|踏《ふ》み入れた|瞬間《しゆんかん》、  |轟《ごう》!! と。  突然、青白い爆炎が天井から真下へ降り注いできた。  不自然な色の炎は、まるで透明な筒の中でも通っているように、|真《ま》っ|直《す》ぐ土御門を|狙《ねら》って降下する。おそらく|魔術《まじゆつ》による|攻撃《こうげき》———だが、魔術の炎と言っても、もちろんステイルのものではない。となれば、|誰《だれ》が放ったものか。 「クソ、トラップでこっちの足を砕く方向に変更したのか! 伏せろカミやん!」  土御門がとっさに後ろへ跳んで、上条を押し倒そうとする。が、 「何を言っているんだ。ここはこの男の出番だろう?」  その一歩前で、ステイルが上条の首根っこを|掴《つか》んで前へと放り投げた、 「はい?」  土御門が目測を失って地面に転がり、入れ替わるように上条が青白い炎の真下へと|躍《おど》り出る。  見上げれば、そこにはギロチンのような勢いで落下する炎の柱が。 「はい!? ってか、ふざっけんなァあああ!!」  |上条《かみじよう》は慌てて真上ヘアッパーカットを放つように|右拳《みざこぶし》を突き出す。青白い炎の柱が四方八方へ飛び散り、周囲に。燃え移らずに消えていく。  ステイルは、口の端に|哩《くわ》えた|煙草《タバコ》を上下に振って、 「いや、我ながら、なかなかのチームプレイだね。役割分担ができているというのは、分かりやすくて動きやすい」 「お、おまっ、お前……ッ!!」  上条はぶるぶると|震《ふる》えたまま、思わず赤い髪の神父に|掴《つか》みかかりそうになったが、 「ほら。だから自分の役割を果たしてこい」  げしっ、と|蹴《け》られて再び前へと押し戻される。  ヒュン!! と風を切る音が|響《ひび》いた。前方をトロトロ走る自律バスの車体下を潜って[#「自律バスの車体下を潜って」に傍点]、野球ボールぐらいの土の塊が飛んできた。ジャギッ!! とボール表面から石の刃が大量に伸びてウニのような形になると、急激にホップして上条の|顎《あご》へ|襲《おそ》いかかる。 「ちょ、だから待てってェええ!!」  上条がとっさに右手を前に出すと、石弾は氷細工のように砕けて空気に溶けた。|土御門《つちみかど》とステイルは辺りに|停《と》めてある自律バスを壁にするために、それぞれ左右へ跳んでいる。人間不信に|陥《おちい》りかけた上条は迷わず土御門のいる方についていった。  バスの壁に背中を預ける土御門は、整備用通路を挟んだ向かいの車体に張り付いているステイルに向けて、 「ステイル。お前はここでルーンのカードを|貼《は》り付けて待機してくれにゃー。こっちは奥に進んで運び屋を押さえる」 「了解した。|人払い《Opila》は使った方が良いかな?」 「|頼《たの》むぜい。余計な|魔力《まウよく》は|撒《ま》きたくないが、ここで|騒《さわ》ぎが広がるのはさらにマズイ。禁書目録がこちらに向かっていない限りは問題ないだろ」  勝手に話を進めてしまうプロ二人に、上条は疑問を抱き、 「なあ。全員で向かった方が手っ取り早くねーか?」 「カミやん。こんだけ|遮蔽物《しやへいぶつ》が多いと、行き違いになるのも考えられるんですたい。可能な限り、|全《すべ》ての出ロを|封鎖《ふうき》するのが|追撃戦《ついげきせん》の基本だぜい」  そうか、と上条は今さらながらに思い至る。今やっているのは『倒すか倒されるか』の戦いではなー、『捕まえるか逃げられるか』の戦いだ。目的が違えば対策だって変わってくる。  土御門は上条の顔を見て、 「で、カミやんはどうする? オレとしちゃここに残ってた方が安全だと思うが……」  ステイルも上条の顔を見てニヤリと笑い、 「良いね。僕としても残ってもらった方が安全だと思う。君ではなく僕の安全だが」  上条は落ちていた空き缶をステイルに投げつけ、土御門と|一緒《いつしよ》に前へ進む事にする。土御門はバスの陰から整備用通路の奥を|覗《のぞ》き、それから一気に飛び出して走る。|上条《かみじよう》もその後に続く。|幻想殺し《イマジンブレイカー》があるのだから、上条の方が盾役として前へ出るべきでは、とも思ったが、  ゴッ!!  という音と共に、正面から黄色い炎の|槍《やり》が|真《ま》っ|直《す》ぐ|襲《おそ》ってきた。一〇メートルほど先の、何もない空中からいきなり炎が生み出されたのだ。  上条が右手を突き出そうとした所で、左右のバスとバスの|隙間《すきま》から高圧縮の風のギロチンが襲いかかってくる。 「!?」  上条の反応が遅れた所で、|土御門《つちみかど》が彼の|襟首《えりくび》を|掴《つか》んだ。そのまま引きずる形でさらに前へ走る事で左右のギロチンを|避《さ》け、グルンと弧を描く軌道で前方の炎から逃れる。土御門は上条の。襟首から手を離すと、 「カミやん、いちいち全部相手にしようと考えるなー これは時間稼ぎの|囮《おとり》だぜい。まともに対処してたら間違いなく逃げ切られちまう!!」 「んな事言われても……ッ!!」  |天井《てんじよう》からアドバルーンほどの大きさの氷の塊が五つも降ってくる。上条はとっさに右手を使おうとする動きを必死に抑え、一気に前へ前へと駆け抜けた。背後で|膨大《ぼうだい》な重量の氷が砕ける|轟音《ごうおん》と|震動《しんどう》が|響《ひび》き、背筋に冷たいものが走る。  自律バスが並んでいる一角を抜ける。バス用の大型洗車機が並んでいるのが見えた。二階建ての建物ぐらいの高さがあり、内側には車を洗うための機材が詰め込まれている。ガソリンスタンドにあるようなローラー状のブラシではなく、超音波の振動を利用した、巨大で平べったいスポンジのようなものだ。  その陰に飛び込む形で、長い金髪が揺れるのがチラリと見えた。 「いた!!」  上条が自律バスの陰から飛び出した所で、大型洗車機との間を遮るように、横一線に地面が大きく盛り上がった。高さ五メートルにも達する土の壁は、そのまま津波のように上条|達《たち》の元へと|雪崩《なだ》れ込んでくる。  土の壁は整備場の端から端まで伸びている力避けられる状態ではないし、バスの陰に隠れても車体ごと押し|潰《つぶ》されてしまう。何より、天井を支える金属柱を|壊《こわ》されれば整備場を丸ごとプレスされる危険陸もある。 「カミやん、|頼《たの》む! ありゃエクトプラズムに似た|暫定《ざんてい》物質だ、カミやんの手なら問題なく吹っ飛ばせるぜい!!」  土御門が叫ぶと同時、上条は前へ飛び出した。あまりにも巨大な相手に、思わず歯がガチガチと鳴りそうになるが、泣き言を言って逃げられる状況でもない。土砂崩れの根元まで突っ込むと、その右手を迷わず|叩《たた》き込む。  バギン!! という|轟音《ごうおん》。  ガラスが砕けるような音と共に高さ五メートルもの土の壁が粉々に砕け散る、空気に溶けるように壁が消えた後には、何もない。足元のアスファルトも元に戻っている。  |上条《かみじょう》が突き出した右手を手前に引くより先に、|土御門《つちみかど》が彼の横を駆け抜け、大型洗車機の向こうへと消える。上条もその後を迫って、|遮蔽物《しやへいぶつ》の先へと一気に回り込む。  足が止まった。  オリアナの姿はない。  洗車機の壁に、単語帳に使うような、板ガムサイズの厚紙が貼り付けてあるだけだった。上条はその場で立ち止まった土御門を迫い越して周囲を見回すと、洗車機の陰に隠れる形で、小さな裏口があった。しかし、少し離れた所のマンホールの|蓋《ふた》も開いているし、左右の壁となっているビルのガラスは割れていた。簡単な話、どれが本物の逃走ルートか判別できない。 「『|追跡封じ《ルートデイスタープ》』のオリアナ=トムソン、か。……ふざけやがってッ!!」  土御門は壁にあった厚紙を乱暴に|剥《は》がす。その|苛立《いらだ》ちが、状況の悪さを|素人《しろうと》の上条に伝えてきた。 (さてさて。|上手《うま》く|撒《ま》けたかしら……)  オリアナ=トムソンはチラチラと後ろを振り返りながら、表の道を歩いていた。  追っ手の姿が完全に見えなくなった時点で、彼女は走るのをやめていた。相手がこちらを見失ったのなら、距離を離す事より。再発見されない事の方が重要だからだ。|無闇《むやみ》やたらな全力疾走は、人混みの中ではとても目立ってしまう。  それでもやはり気になるものは気になるので、オリアナは白い布を巻いた看板を|小脇《こわお》に抱えながら、さらに後ろを確認する。 (……一時的に撒いたとしても、それで終わりという訳ではないし。やはり次の手を打っておいた方が良いのかしらね、っと)  後ろばかり気にしていたオリアナは、ふと前方を歩いていた人とぶつかってしまった。|剥《む》き出しのおへそに伝わる感触は、人肌ではなく、金属のものだ。|大覇星祭《だいはせいさい》の運営委員か、二人の男子生徒が横に倒した玉入れに使うポール|籠《かご》を運んでいた所へ、体を突っ込ませてしまったらしい。 「っとっと。あら、ごめんなさいね」  オリアナは軽く謝って、その場を立ち去った。男子生徒はオリアナの胸元を見てわずかに固まると、ぎこちない言葉を返してきた。若いわねえ、と彼女はクスクスと笑いながら、 (そのための仕込み[#「仕込み」に傍点]も頑張った訳だし、やっぱりもう少し、痛い目を見てもらおうかしら)  口の中だけで、小さく|眩《つぶや》いた。  それから|土御門《つちみかど》は携帯電話を取り出して、どこかへ連絡した。どうやら相手はステイルらしい。彼らは二人とも|魔術師《まじゆつし》だが、土御門は魔術が使えない。厳密に言えば使えるが、能力者である彼が魔術を使うと拒絶反応が起き、体の中で小爆発が発生する危険性があるのだ。  すぐこちらへ来るように、と伝えた土御門は携帯電話をポケットに突っ込む。  |上条《かみじよう》は土御門の手の中にある厚紙を見て、 「なあ。それって一体何なんだ?」 「あん? オリアナの使ってる|霊装《れいそう》ってヤツだにゃー」  土御門はややイライラした声で言い、上条に厚紙を見せた。読みにくい筆記体で、『Soil Symbol』と青い文字が書かれている、英語の成績が悪い上条には何の意味なのか分からない。 「土の象徴、って意味ですたい。五大元素、RPGとかで聞き覚えないかにゃー? 火とか水とか土とか風とかっていう、あれの事だ」 「……じゃ、これは『土のお札』って感じなのか? 良く分からんが」 「いや、それだけじゃない[#「それだけじゃない」に傍点]。土の属性色は『緑』だが、コイツは『青』で書かれてるだろ?」土御門は厚紙をくるくると回し、「『青』は水の属性色だ。普通、土の魔術には使わない。土を使いたければ、相性の良い『緑』や『|円盤《アイテム》』なんかの象徴を重ねるはずだ。ステイルが赤色のカードを使って炎を操るようにな」 「……あの女、間違えたのか?」 「まさか。わざとやってんだよ。ズレた配色を意図的に設置して、その反発力を|攻撃力《こうげきりよく》に変換する形でな。五行で言うなら|相克《そうこく》だ。悪い相性は悪い効果を生む、ってトコですたい」  そうこう話し合っている内に、整備場の奥からステイルが走ってきた。  土御門はヒラヒラと厚紙を振って言う。 「魔力の|霊装《コール》を押さえた。オリアナが逃げながら遠隔操作で操ってたんなら、ケータイみたいに魔力の送受信が行われてた可能性が高いぜい。コイツを使って逆探の術式を組みたいんだが、手伝ってくれるかにゃー?」      9  土御門|尤春《もとはる》は魔術を使えない体だ。  厳密に言えば、使うと暴走に巻き込まれる。人間の体力はゲームのように数値化されていないため、何回耐えられるかは決まっていないとの事だ。四、五回|保《も》つ事もあれば、一度で死ぬ事もあるらしい。  言ってしまえばロシアンルーレットのようなもので、一撃で決着がつく、その確信がない限り、土御門は極力魔術を使わないようにしているらしい。戦場で行動不能に|陥《おちい》れば、後に何が待っているかなど決まっているからだ。  なので、『逆探の|魔術《まじゆつ》』は|土御門《つちみかど》が使う訳ではない。  土御門は地面にオリアナが残した厚紙を置き、その周りにテキパキと円を描いたり色とりどりの折り紙を配置している、だけだ[#「だけだ」に傍点]。実際に術式を発動させるのは、ステイルの仕事らしい。 「術式の名前は『|理派四陣《りはしじん》』って言うんだが———『|御使堕し《エンゼルフオール》』ん時もコイツが使えりゃ楽だったんだけどにゃー……。あの時は、オレは|影響《えいきよう》から逃れるために防護の魔術を一回使ってボロボロだったし、|神裂《かんざき》ねーちんは結界張るのが苦手だしでメチャクチャだったぜい。|流石《さすが》に他宗派のロシア成教のメンツに術式教える訳にもいかなかったし……」 「口ではなく手を動かしたらどうだい。話によると探知範囲は半径三キロないんだろう?」 「おっ、言ってくれるぜい。ああ、カミやんは離れてろ。『理派四陣』の術式を右手で砕かれたら|堪《たま》ったもんじゃないし」  土御門に言われて、|上条《かみじよう》はハッとしたように後ろへ下がる。土御門はあれこれ地面に印をつけた後、上条の横に並ぶように、自分も身を|退《ひ》いた。  地。面には直径五〇センチぐらいの黒い円が描かれていて、その中心に、オリアナが洗車機の壁に|貼《は》り付けた厚紙が置かれている。三六〇度の円を四等分するように、九〇度の位置にそれぞれ胃、白、赤、黒の新品の折り紙が設置してあった。どうも東西南北に区切っているようだ。  ステイルは、土御門が描いた円の手前で|片膝《かたひざ》をつき、両手を組む形で、祈るように目を閉じる。彼の額を、ほんの一滴の汗が伝った。 「———|風を伝い《IITIAW》、|しかし空気ではなく場に意思を伝える《HAIICTTPIOA》」  告げると同時、四枚の折り紙が、風もないのに動いた。まるで見えない糸に|繋《つな》がれたヘタクソな人形劇のように、ふらふらと折り紙が起き上がる。四枚の色紙は垂直に立つと、ピン、と動きを止める。折り紙の縁は刃物の鋭さを連想させた。 「ルーンってのは、染色と脱色の魔術だぜい」土御門は地面の円を眺めながら、「まずは意味のある文字を刻み、その溝を力で染める事で術式を発動し、脱色する事でスイッチを切る。ステイルの場合は、印刷という手段を使って『あらかじめ染めておいた』カードを使うから、術式の発動が異常に速いぜよ。カードを『燃やす』事で脱色のプロセスも|一瞬《いつしゆん》で済ませられるしにゃー。その分、|普段《ふだん》は『あらかじめ染めておいた』術式しか使えない訳だが……」  四枚の折り紙が、円の上をグルグルと回る。滑り続けるそれらがラインを描くたびに、地面に折り紙と同じ色の曲線が描かれていく。ジリジリと、ジリジリと、円は少しずつ狭くなっていき、中心にあるオリアナの残した厚紙へと向かっていく。 「下地となってる『染色と脱色』の法則さえ守れば、意外とルーンの標準フサルクニ四文字から外れてもルーン魔術ってのは発動できるんだにゃー。実際、単に『ルーン文字』っつっても、時代によって数パターンにも派生してるし」  ———|狭《せば》まる円から中心点まで、あと一五センチ。  上条は高速で回転する四枚の折り紙を眺めながら、 「これを使うと、そんなピタリとオリアナの位置が分かるもんなのか?」 「ま、半径三キロ以内なら、ほぼ確実だにゃー。けど、そのラインから外に出られちまった場合は何にも|掴《つか》めないぜい」 「……三キロ。ちょっと遠いよな。三キロギリギリの所で発見できたとして、こっちが追い駆けている間に、あっちだってどこかへ移動しちまう訳だし」 「さらにもう一点。一回『|理派四陣《りはしじん》』を発動させると、次の準備に一五分ぐらいの|空き時間《タイムラグ》が必要になっちまうにゃー。ま、一回で成功させりゃ問題ねーがにゃー」  |土御門《つちみかど》はそう言うが、もしも失敗したら、 コ五分。短いように聞こえるけど、電車やバスを使われたらマズイんじゃねーの」 「別にどこまで逃げようが知った事じゃねーぜい。カミやん、忘れたかい?オレだって|魔術師《まじゆつし》なんだぜい。一発限りになっちまうが、困った時の『赤ノ式」ってのもあるんだよ」  ———円から中心点まで、あと一〇センチ。  |上条《かみじよう》は嫌そうな顔をして、 「あれって……、確か『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止めるために、海の家から|俺《おれ》の実家を|砲繋《ほうげき》したヤツだろ? あの長距離砲撃が使えるなら何とかなりそうだけど……。待てよ。あからさまに学園都市の中で魔術を使ってるのがバレたら、外で待機してるたくさんの魔術師|達《たち》が侵入する口実ができちまうんじゃなかったっけ?」 「いや、できないよ。カミやん。|何故《なぜ》ならその口実は『街に入り込んだ悪い魔術師から民間入を守るため』というものだ、オレが一撃必殺で決めたら、『|刺突杭剣《スタブソード》』の|残骸《ざんがい》でも|手土産《てみやげ》にこう宣言すりゃ良い。『もう危機は去った。だからお前達は必要ない』ってにゃー」  ———中心まで、残り五センチ。  土御門は、上条にニヤリと笑いかけ、 「とはいえ、オレが魔術師として事件解決の表舞台に立つと色々マズイ。だからこその『赤ノ式』なのさ。得意な水の術式『黒ノ式』じゃなくてにゃー。『|誰《だれ》が魔術を使った?』という質問が来たら、炎が得意なステイルが砲撃しました[#「炎が得意なステイルが砲撃しました」に傍点]って言えば済むって話なんだぜーい」 「……ま、また大胆だな。そんなに|上手《うま》く|騙《だま》せんのか?」 ぞきるできる。『|必要悪の教会《ネセサリウス》」には|魔道書《まどうしよ》一〇万三〇〇〇冊分の知識が保管されてんですよ? 十字教以外の術式を勉強してたって少しもおかしくないにゃー。ステイルのルーンだって、それ自体は十字教とは関係ない術式なんだし。ま、魔力の練り方を東洋じゃなくてちょっと西洋っぼく加工しなくちゃなんねーがにゃー」 「……、」 「何ですたい、その|呆《あき》れ顔は? とにかく、オリアナの位置さえ正確に掴めればこっちの勝ちだぜい。できれば直接捕まえて、リドヴィアともう一人の取り引き相手[#「もう一人の取り引き相手」に傍点]についても吐かせたかったトコだけど、今はとにかく『|刺突杭剣《スタブソード》」の取り引き中止が最優先だしにゃー。そのためなら『|刺突杭剣《スタブソード》騙を吹っ飛ばそうがオリアナの体を砕こうがお構いなしだぜい」  ———中心まで、残り〇センチ、  四枚の折り紙がオリアナの残した厚紙に触れた。パン! と乾いた音と共に色紙は周囲に|弾《はじ》かれ、今度は|物凄《ものすご》い速度で地面に精密な地図を描いていく。初めはピンボケしたカメラのようにぼんやりした像だったものが、徐々にフォーカスを合わせていく形で。  道路、建物、街路樹、ベンチ、自販機、風力発電のプロペラから空き缶一つに至るまで、記号化・簡略化された地図と言うより、衛星から撮影した超高解像度写真のように。  やがて浮かび上がってきた場所は……。  ピクン、とオリアナ=トムソンは顔を上げた。  白い布を巻いた看板状の物体を|脇《わき》に挟み、唯一留めている第ニボタンにさらなる負荷を加えるように、大きな胸を少し反らして、頭上の空を見る。  九月下旬の青空にはポンポンと花火の自い煙が弾けていて、残暑ながらも心地良い風が吹いている。まだらな白い雲はゆったりと同じ方向に流れ、何もかもが|平穏《へいおん》の象徴のように見えた。  にも|拘《かか》わらず、オリアナの肌はピリピリとした|緊張感《セんちようかん》を|捉《ヒら》えていた。  まるで、銀行強盗が立て|籠《こ》もる建物の中へ|突撃《とつげき》する前のような。  オリアナ=トムソンは、自分の身に何が迫っているかを少し考え、 「|風を伝い《IITIAW》、|しかし空気ではなく場に意思を伝える《HAIICTTPIOA》、ね。———お姉さんには筒抜けよん♪」  それから[#「それから」に傍点]、ニヤリと笑った[#「ニヤリと笑った」に傍点]。 「ごっ、がァああああああああああああああ———ッ!?」  いきなり、ステイルがボデイブローでも浴びたように体をくの字に折り曲げた。  バギン!! という物音と共に、地面に描かれつつあった地図のラインが|全《すベ》て四方八方へ飛び散った。まるで砂で描いた絵画をくしゃみで吹き飛ばしたように。べぎべぎごきごき、と何かを砕くような音が|響《ひび》く。|上条《かみじよう》は|一瞬《いつしゆん》、ステイルの骨の音だと思って息を|呑《の》んだが、 「|魔力《まワよく》の暴走で空間がたわんだ音———単なるラップ音だ! カミやん、ステイルの体を|殴《なぐ》れ! 多分それで止まると思う!!」  |土御門《つちみかど》の言葉に、上条はハッとする。とにかく『何が起きているか分からない』という状況が怖かった。上条はステイルの|懐《ふところ》へ飛び込むと、体をくの字に曲げている彼の背中を慌てて|叩《たた》く。速さ優先で、力の調節など考えていられなかった。  バシュッ、と空気が抜けるような音が響く。  ステイルは脱力したように、地面に倒れ込んだ。が、それで一応の異常は収まったらしく、変な音ももう聞こえない。ステイルはしばらく荒い息を吐いていたが、やがて汗でびっしよりに|濡《ぬ》れた長い髪を手でかき上げると、 「なん、だ。今のは……逆探知の防止術式の一種、みたいなものか……?」  |土御門《つちみかど》は動かなくなった折り紙の一枚を、地面から拾い上げる。指で挟み、指を|這《は》わせ、指でいくつか折り目をつけていくと、 「だったら、『|理派四陣《りはしじん》』の|魔法陣《まほうじん》たるこっち[#「こっち」に傍点]にも|影響《えいきよう》がありそうだが……そんな|痕跡《こんせき》はないぜい」|綺麗《きれい》なままの折り紙をヒラヒラと揺らすと、「おそらく、ステイルの魔力を読まれてる。その上で、ステイル個人の魔力に反応して作動するような|迎撃《げいげき》術式が組まれてんだろうさ。オリアナの野郎、突然反撃に移ったと思ったら、|狙《ねら》いはこれだったって訳だ。オレ|達《たち》に|魔術《よじゆつ》を使わせて、魔力を読み取り、それを送信するための魔法陣でも仕掛けやがったに違いないにゃー」  |上条《かみじよう》は折り紙をいじり続ける土御門の言葉に首をひねりつつ、ステイルに手を差し伸べる。彼は|鬱陶《うつとう》しそうに上条の手を振り払うと、よろよろと自分の足で立ち上がった。  ステイルは口の中の|唾《つば》を地面に吐き出し、 「僕の魔力を個人識別して封じにかかる迎撃術式か。まったく、厄介な物を組まれたものだね」 「……何だそりゃ? ようはステイル個人をピンポイント攻撃できるって事なのか?」  上条は言っている事の半分も理解していないような顔で言った。  土御門はため息をついて、 「確かに魔力ってのは、術者の練り方次第によって質と量は変わるモンだ。……けど、それだけで|完壁《かんべき》な迎撃条件を整えられるとは思えないんだけどにゃー」  土御門は短パンのポケットに手を突っ込みながら言った。話しながら取り出したのは、赤い筆ペン……のようなものだ。  彼の話によると、魔力というのは生命力という原油を、流派や宗派という製油所を使って精製した、ガソリンみたいなものらしい。  しかし、例えばルーン使いのステイルがアステカの流派に従って魔力を練れば、作られる魔力の質は大きく変わる。同じ原油を使って、ガソリンではなく重油や軽油を作るみたいな話だにゃー、と土御門は言った。天草式の聖人である|神裂火織《かんざきかおり》などは、十字教の|他《ほか》に仏教や神道のエキスパートであり、状況に合わせて魔力の質と術式を自在に使い分けているとの事だった。  オリアナからすればステイル一人を迎撃するために、彼が作り出すであろう魔力の種類を|全《すベ》て把握しなければならず、整備場でステイルが精製した魔力パターン一つを封じた程度でオリアナが安心するとは思えない、というのが土御門の意見だった。オリアナはステイルの力量を把握し切ってはいないはずなので、彼の実力を問わずそれらの可能性を|考慮《こうりよ》するのが普通だろう、と。 「あの、じゃあオリアナは何をどうしてるんだよ?」 「そうだな……。多分、こういう事だと、思う」ステイルは、ふらふらとした調子で、「魔力そのものは、複数のパターンが存在する。しかし、その前段階なら違う[#「その前段階なら違う」に傍点]。どういう方法で魔力を精製するかは、宗派や術式、個人の生命力によって異なってくる。後は数学の問題と同じだろう。逆算すれば答えは出る」  例えば、二〇ポイントの|魔力《まりよく》Aと、魔力精製方法Bがあったとする。この二つを照らし合わせると、魔力精製方法Bを使って魔力Aを二〇ポイント精製するためには、こういう種類の生命力が何ポイントあれば良い、という感じで———元の『生命力』は|弾《はじ》き出されてしまうらしい。  ステイルはイライラした調子で、箱から。新しい|煙草《タバコ》を一で引き抜き、祝線を|土御門《つちみかど》の方に投げた。土御門は手の中の折り紙に赤の筆ペンのようなもので印をつけている。この状況を打破するための陣を作ってるんだよ、と土御門は折り紙に目を落としたまま|上条《かみじよう》に言った。  ステイルは再び視線を上条の方へ戻すと、 「魔力に個性はないが、当然ながら生命力には個性がある。それをオリアナに読まれた[#「読まれた」に傍点]って訳さ。くそ、|迂闊《うかつ》にルーンのカードなんか配置するんじゃなかったな。……しかし|処刑《ロンドン》塔とかウインザー城地下とか、|魔術師《ホじゆつし》を収容するための大規模拘束施設を利用するならまだしも、生身一つで生命力の探知・解析・逆算・応用・|迎撃《げいげき》まで|全《すべ》てをやってのける術者がいるだなんて |流石《さすが》は『|追跡封じ《ルートデイスタープ》』のオリアナ=トムソンといった所だね」  |忌《いまいま》々しげに言い、ステイルは珍しくマッチを取り出し、靴底で|擦《す》って火を|点《っ》ける。魔術を使って火を|熾《おこ》すのを警戒。しているのだろう。今すぐ反撃に転じず、土御門の準備を待っているのもそのためだろうか。この自尊心の塊みたいな男が『警戒』しているという時点で、オリアナの底の深さが|垣間見《かいまみ》えていた、  言われてみれば、さっきの整備場での|戦闘時《せんとうじ》に明確な「魔術』を使ったのはステイルだけだったような気がする。 「術式そのものを逆算して迎撃が入るなら、地面に『|理派四陣《りはしじん》』とやらのサークルを描いた土御門の方にダメージが向かったはずだよ。それがないという事は、やはり僕の生命力の方に反応していると見た方が良いね」  ステイルは続けて言った。土御門は変な作業に没頭しているため、会話は上条とステイルだけで進められていく。 「じゃあ、オリアナめヤツ、逃げながらステイルの魔力だの生命力だのってヤツを解析してたって事なのか?」  上条は訳が分からずに首を|傾《かし》げていたが、ステイルはそれを見て|苛立《いらだ》ったように煙を吐いた。 ダメージのせいで余裕がないのか、あるいは魔術師にとっては当たり前の事を説明し直すのが面倒臭いからか。 「それができたら、彼女は君の右手以上に……重宝されているだろうさ」彼は煙草の煙を体いっぱいに吸い込みながら、「オリアナの迎撃術式……つまり|処刑《ロンドン》塔施術クラスの魔術となると、|魔法陣《まほうじん》、いや、それ以上の施設の設営は必須だろう。オリアナは術式だけでなく、設備を丸ごと作り上げたって訳だ。超高速のコンピュータを一台用意して、そちらに解析を任せているような状態なんだろうね。それならオリアナは逃げる事にだけ集中できる。しかし……」 「しかし、何だよ?」  |上条《かみじよう》が聞くと、ステイルは苦い声で、 「……、いや、気のせいだろう。どうも、この『自動処理』という人間味のないやり口に、どこか見覚えがあるんだけど……まさかな。いくらオリアナと言っても、アレ[#「アレ」に傍点]を所持しているとは思えないし……」  ほとんど独り言に近い声だつた。  上条は訳が分からず|眉《まゆ》をひそめただけだったが、ふと|隣《となり》の|土御門《つちみかど》が折り紙と筆ペンを動かす手を止めて、ニヤリと笑った。 「いや、ステイル。オレも同じ事を思ってたトコだぜい」 「本気かい? ……確かに、アレ[#「アレ」に傍点]なら逃げるオリアナが別に設置しておいても自動的に作動するのは理屈が通る。だがそうなると、ヤツは|魔術師《まじゆつし》ではなく|魔導師《まどうし》という事になるぞ」 「はてさて、ホントにそうかにゃー? オレはどうもオリアナには不安定な部分があるように思える。マジで魔導師として完成してるとすりゃ、アイツにレクチャーされた魔術師が部下としてついてるはずだ。どっちかってーとそれはリドヴィアの役割だと思うけどにゃー」  土御門は話しながら、さらに自分の折り紙に筆ペンで印をつけていく。印の上に別の印を重ねていくような感じだ。 「??? アレ[#「アレ」に傍点]って?」  二人の魔術師はそれぞれ勝手に言っていて、|素人《しろうと》の上条にはサッパリ分からない。そんな上条の顔を見て、土御門は小さく笑った。 「そっかそっか。カミやんは、実物を見た事はないだろうにゃー。けど、知識としては分かっているはずだぜい。魔術に関する知識を詰め込まれ、それ自体が術者の意志によらず一つの魔法陣として起動するもの。術者が魔力を与えずとも、地脈や|龍脈《りゆうみやく》から漏れるほんのわずかな『力』を増幅させてほぼ半永久的に活動し続けるものだよ」  土御門は笑みを深くする。  青いサングラスのレンズが、ギラギラと光を跳ね返す。 「まだ分かんないか。カミやんほどアレ[#「アレ」に傍点]の近くにいる人間はいないと思うけどにゃー。何せ、お前の|隣《となリ》には、アレ[#「アレ」に傍点]を一〇万三〇〇〇種類も|記憶《きおく》している禁書目録がいるんだぜい?」  一〇万三〇〇〇種類。  禁書目録。  土御門の|台詞《せりふ》全体の意味は分からなくても、その言葉が何を指しているかは分かる。 「ま、さか」 「そうだよカミやん」  思わず|眩《つぶや》いた上条に対して、土御門は手の中の折り紙を軽く振ると、軽い調子で、 「魔道書の原典だ[#「魔道書の原典だ」に傍点]」  原典。  |魔術《まじゆつ》についてのノウハウを記した書物の事だ。それだけなら大した事はなさそうだが、まともな入間が内容に目を通せば精神が|崩壊《ほうかい》すると言われ、また|魔道書《まどうしよ》の文章・文節・文字が一つの|魔法陣《まほうじん》として起動してしまうため、魔道書を破壊しようとする者へは半永久かつ半自動的に|迎撃《げいげき》を行うらしい。  力持つ魔道書の『原典』は|誰《だれ》にも破壊できず、|故《ゆえ》に一時的に封印するという応急手段が取られている。頭に一〇万三〇〇〇冊もの魔道書を|記憶《きおく》しているインデックスも、原典『法の書』の解析を行おうとしたオルソラ=アクィナスも、|全《すぺ》ては危険な魔道書に立ち向かうための行為との事だった。  |上条《かみじよう》は魔術についてはほとんど|素人《しろうと》に近い。本物の『魔道書』など見た事がない。そのくせ、彼の周りでは魔術や魔道書に関する事件が異様に多く、知識だけが外堀を埋めるように与えられていた。  |土御門《つちみかど》は重たい息を吐くと、筆ペンで折り紙の四隅に印を描き、 「元々、魔法陣と魔道書は似たような性質を持つからにゃー。ってか、そもそも魔道書の原典にある副次効果は魔法陣効果によるものだし」  上条は|眉《まゆ》をひそめた。土御門が何を言いたいのかサッパリ理解できない。そもそも、 「魔道書と魔法陣のどこが似てるってんだ。魔道書ってのは古びた本で、魔法陣の方は良くRPGなんかに出てくる、円の中にお星様が描いてあるようなヤツだろ?」  尋ねると、ステイルは|苛々《いらいら》したように目を細め、 「……また、くだらないたとえを。それはダビデの刻印だ。それが単品ではなく[#「それが単品ではなく」に傍点]、円形陣の一部として使われた[#「円形陣の一部として使われた」に傍点]のは中期の魔法陣だよ」彼は土御門の手元に視線を投げつつ、「まずは『陣』の説明から始めてやるか……。最初期の魔法陣は、単なる円だった。こんな感じだ」  言いながら、彼は地面に落ちていた石を拾うと、地面にしゃがみ込んで、アスファルトに直径五〇センチほどの円を描いた。フリーハンドにも|拘《かか》わらず、恐ろしく正確な円だ。上条は|驚《おどろ》いたが、折り紙に筆ペンを振るう土御門は視線も向けなかった。陣なりお札なりを自分で作る魔術師には手先の器用さも大事……なのかもしれない。 「君のような素人でも思い浮かべられる|五芒星《ごぼうせい》や|六芒星《ろくぼうせい》は、追加効果に使われているものだ。 ベースとなる円の効果を増すために、ソロモンやダビデの刻印などを重ねて描いたという訳さ」  |煙草《タバコ》の煙を吐きながら、ステイルは続けて円の中に五芒星を付け足していく。これもやはり、五つの頂点は円を完全に五等分し、直線にも一切|歪《ゆが》みがない。  が、それが魔道書と何の関係があ。るのだろう、と上条は首を|傾《かし》げる。  そんな|上条《かみじよう》の様子を見て、ステイルはわずかに舌打ちした。彼がイライラしているのは上条に対する感情や自分の体のダメージの|他《ほか》に、|土御門《つちみかど》が考えている(らしい)現状打破のための準備に時間がかかっている事もあるのだろう。 「ここからが後期の|魔法陣《まほうじん》だ。……何度も説明するのは面倒だ。良く見て労け」ステイルはさらに小石を動かし、「後期の魔法陳では、さらに他の物を重ねて書く。それは文字だ。多くの場合は、円の外周に力を借りたい天使の名前を書いたりする訳だが……」  言いながら、ステイルは円に沿って何か書き始めた。おどろおどうしい魔法陣というのだから|得体《えたい》の知れない古代文字かと思っていたが、彼が書いているのはただの英語だ。  ガリガリと、ステイルの小石がアスファルトに文字を刻む。 「こんな風に、まずは力を借りるべき天使の名を書く。まあ、これは『火』や『風』と同じく、欲しい力の種類を指定するようなものだね。どんな質の『|天使の力《テレズマ》』を、どの程度の量が必要なのかを明記しておく。力の質はもちろん、意外に重要なのは量だ。少なすぎれば当然術式は発動しないし、多すぎても余剰部分が暴走する。この適量というのが結構難しいものなんだ」  あっという間に、アルファベットが円を|辿《たど》って一周する。それでもステイルは手を止めず、もう一ライン外側に、二列目の文章を書き続ける。 「異なる界から適切な質を保った必要量の『|天使の力《テレズマ》』を取得したら、次はその力をどう使用するかを書き記す。術者の|杖《つえ》に注いで特殊な効力を得たり、魔法陣の周囲に配して防御力を手に入れたり、とかね。すると 」  二列目、三列目、四列目と、まるでロールケーキのように次々と文章が増えていく。  それは、記号を重ねた魔法陣というよりも、 「———本のページみたいに見えるだろう[#「本のページみたいに見えるだろう」に傍点]?」  ふう、とステイルは地面の陣に煙を吹きかけた。  実際、ステイルの言う通りだった。、文字の書き方自体は変則的だ。普通の本のように、縦書きや横書きなどの指定はない。しかし、円に沿って書かれた文字列を、普通の横書きに直したらどうだろうか。まして、『どういう質と量の力が必要で、どういうやり方で魔法陣に組み込んで、どういう結果が生まれるのか』という内容なら———それはもう、術式のレシピのようなものではないだろうか。  術式のレシピ。  それはまさしく|魔道書《まどうしよ》そのものだ。 「もっとも、こういった方法の魔法陣にも弱点がある。図形を複雑にすればするほど、陣の制御が難しくなるんだ。例えばfrontという単語には、『前方』という他に『遊歩道』という意味もある。術者の頭と魔法陣の記述の間にこうした誤読が生まれると、術式は|容易《たやす》く暴走し、術者を巻き込んでしまう。……まあ、自分で描いた魔法陣の意味を自分で読み違える、というのは相当に間抜けな術者だと言えるけどね」  ステイルは言って、ゆっくりと立ち上がった。  今まで握っていた小石を横に投げ捨てる。それを見ていた|土御門《つちみかど》が口を開き、 「結局、|魔法陣《まほうじん》ってのは情報量の多さが威力に直結してるんだぜい。複雑な模様も、書き足された文字列もそのための小細工に過ぎない。さっきの『|理派四陣《りはしじん》」に四枚の折り紙を使ったのだって、各方位に四色の情報をあしらったアクセサリーだぜい。とすると、一冊丸々|魔術《まじゆつ》の知識が詰め込まれた|魔道書《まどうしよ》ってのはどれだけの情報量を誇ってると思う? ———言っちまえば、魔道書の原典ってのは超高密度の魔法陣ってトコなんだよ。プロの魔術師でも手を焼くほどのにゃー」  土御門は結論を言った。彼の手の中にある折り紙は、赤の筆ペンで印を描いてはその上に別の印を重ねてというのを繰り返し、もはやベタベタになっていた。  |上条《かみじよう》は少し|黙《だま》る。  それから、考えていた事を口に出した。 「じゃあ何か。オリアナのヤツは|大覇星祭《だいはせいさい》に合わせて、自動制御の|迎撃《げいげき》術式を組み込むためだけに、わざわざ魔道書の原典を一冊用意したって訳か?」  ゾッとする話だった。  上条は『法の書』と呼ばれる一冊の魔道書を巡って、三つの魔術組織が起こした|戦闘《せんとう》に巻き込まれている身だ。無論、魔道書にも価値やランクの違いがあるのだろうが、どう考えても普通のセンスではない。スケールが大きいというより、大き過ぎて|無駄遣《むだつか》いしているようにすら感じられる。  が、上条の意見にステイルは同意しなかった。 「……そんな事が、本当にできるものなのか? |錬金術師《れんきんじゆつし》アウレオルス=イザードも魔道書の著者として知られているが、|隠秘記録官《カンセラリウス》の中でも最速筆で知られたヤツが不眠不休で取り掛かったとしても、一冊書くのに|薄《うす》くて三日、分厚い物なら一ヶ月は必要としていたんだ。僕にはどうしても、逃亡しながら魔道書の『原典』を編むなんて事ができるとは思えない。それとも事前に『原典』を用意しておいたのか……」 「いいや。確かに「冊の本を丸々作るとなれば、それぐらいの時間は必要だろうにゃー。でも、オリアナの目的はそうじゃないだろ」土御門は気軽な調子で、「アイツにとって重要なのは、魔法陣化した魔道書の効果だけだぜい。本の体裁なんざ気にしちゃいない。他入に読めるかどうかも分からない、走り書きのメモみたいな感じなんじゃねーのかにゃー?」  全面が赤く擁り替えられたような折り紙を片手に、土御門は言う。 「……『|速記原典《シヨートハンド》」、といった所か。僕にはやはりできるとは思えないが……いや、良い。今はどんな可能性でも|考慮《こうりよ》しておこう」  上条は|術《うつむ》いて、彼ら魔術師の言葉を頭の中で転がす。  やがて顔を上げて、 「原典ってのは、|誰《だれ》にも|壊《こわ》せない|魔道書《まどうしよ》なんだろ? そんな風に戦うたびにポイポイ原典を作り出していたら、世界中が原典だらけになっちまうと思うんだけど」 「そうだにゃー。『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の方でもそんな報告は受けちゃいない。あくまで予測だが、きっとオリアナの『|速記原典《シヨートハンド》』は|完璧《かんぺさ》じゃないんだろ。本物の原典は、自らのページを|魔法陣《まほうじん》に変えて半永久的に活動し続ける。でもオリアナのはハンパだから、短時間で勝手に|崩壊《ほうかい》しちまうんだと思うぜい」  |土御門《つちみかど》はスラスラと答える。べちゃべちゃの折り紙の上に、さらに筆ペンを走らせながら。 表面だけでなく、どの順番でどの印を重ねていくかが重要なんだよ、と土御門は苦笑して、 「過去、そういった出来損ないの原典の執筆中に、暴走に巻き込まれて死んだ|魔術師《まじゆつし》ってのも結構いるしにゃー。あるいは、それを逆手に取ってオリアナは『|速記原典《シヨートハンド》」を自由に破壊できるのかもしれない。そっちの方が術者としちゃ扱いやすいだろうし。原典と魔術師の混合術式———知識や技術を後世に伝えるためではなく、今|一瞬《いつしゆん》で破って使って捨てちまう原典……ってトコだにゃー」  うーん、と|上条《かみじよう》は腕を組む。 「その原典だの魔法陣だのってのはいまいち埋解できなかったんだけどさ」 「……、君は本当に説明し|甲斐《がい》のない人間だね」  ステイルはダメージで青ざめた顔のまま、唇の端をわずかに|歪《ゆが》めた。 「|迎撃《げいげき》が入るって事は、ステイルはもうオリアナに向かって魔術は使えないって訳なのか?」 「いや、迎撃術式をどうにかしない限り、どんな魔術も使えないと思う。あの術式は『僕が魔術を使おうとするのを感知して迎撃する』ものだろう。「何のために使用されるか』なんて識別しちゃいないし、そんな面倒な命令文をわざわざ付け加えておく意味もないはずだ」  ステイルは自分の弱点を告白するような言葉を告げたが、その口調に|忌《いよいま》々しい|響《ひび》きはあっても弱々しい感情は見当たらない。ここで終わった訳ではない、という意思表示のようだった。 「それなら結局どうするんだ? ステイルはもう魔術は使えないだろ。その、『|理派四陣《りはしじん》」……だっけ? それでオリアナの位置を探知するのも難しいんじゃないのか。だって土御門の方は元々魔術は無理っぽいし」 「いや」  土御門は首を横に振った。彼の手の中にある朱墨で|濡《ぬ》れた折り紙は、どうしてまだ破れないのかと疑問に感じるほど、たっぷりと水分を含んでいる。  上条とステイルは、彼の顔を見る。 「言ったろ? これは『|速記原典《シヨートハンド》』による自動迎撃術式だ。なら、そいつを押さえれば良いぜい。|上手《うま》くいくと対抗策としての護符も作れるかもしれないが、相手は曲がりなりにも『原典』。まずはぶっ|壊《こわ》してステイルの魔術を使えるようにした方が無難かもしんねーにゃー」  上条は自分の右手にチラッと視線を落とす。確か『原典』はどんな方法を使っても壊せない |魔道害《まどうしよ》という話だったが、彼の|幻想殺し《イマジンブレイカー》ならどうにかなるかもしれない。  ステイルは煙を吐きながら、 「『|速記原典《シヨートハンド》』を|潰《つぷ》すのは良いが、それをやっている間にオリアナが『|理派四陣《りはしじん》』の探索範囲外へ逃げる可能性は?」 「ある。が、速攻で逃げ切る自信があるなら、わざわざ|迎撃《げいげき》術式なんて綴まないと思わないかにゃー? あれだって、用意するのは手間がかかるだろう。ただでさえ切羽詰まった中で、わざわざ仕事量を増やすような|真似《まね》なんて、普通はしないぜい」  ふむ、とステイルは腕を組む。  |上条《かみじよう》は|眉《まゆ》をひそめた。根本的な円的はそれで良いのだろうが、 「なあ、その「|速記原典《シヨートハンド》」ってのは、結局どこにあるんだ?」 「僕はどこかに仕掛けているんだと思っているけどね」 「オリアナが持ち歩いてんじゃなくて?」 「『|速記原典《シヨートハンド》』の細かい使用条件が分からないから、何とも言えないけどにゃー。でも、オリアナはステイルの生命力パターンを探るために、設置型の|罠《わな》をこの整備場に配置して、|掴《つか》んだ生命力をオリアナの元に送る自動|魔法陣《まほうじん》も用意して、コトを進めてる。なら一連の術式のラストも同系統の設置型で統一してる……って考えるのもアリなんじゃねーのかにゃー?」 「じゃあどこに『|速記原典《シヨートハンド》』を仕掛けたのかって、分かってるのか?」  彼女がどこを通って逃げているのか分からなければ、当然、どこに迎撃の魔道書を仕掛けておいたのかも判別できないはずだ。 「これからそいつを調べるんだにゃー」  どうやって? という上条の疑問に、彼は即答しなかった。  |土御門《つちみかど》は、本当に小さく、一度だけ息を吐いて呼吸を整える。今まで動かしていた赤い筆ペンをポケットに戻し、べったりと染まった折り紙だけを大切そうに両手で抱える。  それから言った。 「ステイル[#「ステイル」に傍点]。何でも良いから魔術を使え[#「何でも良いから魔術を使え」に傍点]。どこから妨害がやってくるのかを知りたい[#「どこから妨害がやってくるのかを知りたい」に傍点]  冷たい言葉だった。  上条はギョッとして、ステイルは完全な無表情になる。 「オリアナはステイルの生命力を読み取った後に、『|速記原典《シヨートハンド》』を使ってこちらの動きを妨害してる。その迎撃の術式にしても、|魔力《まりよく》が使われてるはずだ。そいつに反応する、リトマス紙みたいな「|占術円陣《せんじゆつえんじん》』をお前の周りに設置する。|誰《だれ》の魔力も通っていない未使用の魔法陣だ。『占術円陣』は迎撃魔術の魔力に反応する形で起動し、どこから魔力が飛んできたのか、その方角と距離を逆算してくれる」  言いながら、|土御門《つちみかど》は赤く染まった折り紙を持って地面に|屈《かが》み込んだ。それから、まるでテーブルに|布巾《ふきん》を走らせるように折り紙を動かす。あっという間に、地面に直径ニメートルほどの朱色の円が描かれた。彼は作業を終えると、いかにもつまらなそうな仕草で立ち上がる。  まるで説明書を読み上げるような感情のない声に、|上条《かみじよう》は土御門の正気を疑った。慌てて彼の両肩を|掴《つか》んで、 「だって、無理だろ土御門! |迎撃《げいげき》が入るって、具体的に何が起こるか分かってんのか!? そんなの実行すれば、もう一度ステイルが倒れる羽目になるんだぞ!!」 「もう一度?」  土御門は不思議そうに|眉《まゆ》をひそめ、 「|誰《だれ》がそんな事を言った。一度で済むはずがないだろう[#「一度で済むはずがないだろう」に傍点]? ステイルはここでリタイヤする訳じゃないぜい。最低でも、迎撃術式を|破壊《はかい》した後にもう一回、オリアナを捜すための「|理派四陣《りはしじん》』を使ってもらう。それ以前に、一度の「|占術円陣《せんじゆつえんじん》』で迎撃術式の場所が|掴《つか》めなければ、何度でも試してもらうしかない[#「何度でも試してもらうしかない」に傍点]」  上条の表情が変わる。 「……、テメェ。本気で言ってんのか?」  対して、土御門も正面から向き合うように、 「カミやん。忘れているようなら一つだけ教えておく。オリアナ=トムソンが目の前にいなくても、刃や銃弾が|交錯《こうさく》してなくても、これはやっぱり|命懸《いのちが》けの戦いだ。それも結果によっては国や世界が傾くほどの、な」 「でも……ッ!!」  上条は靴底で地面を|蹴《け》り、 「ステイルが一回傷つく代わりに、絶対勝利が掴めるってんならまだ分かる。でも、何でそこを確約しねーんだよ!? それって、コイツがどれだけダメージを負っても、何の効果も上がらない可能性だってあるって事だろ! しかも、仮に迎撃術式の発見と破壊ができたとして、そのままボロボロになったステイルを引き連れて戦うって言うのか、ふざけんな!! そんなもん納得できる訳ねえだろ!!」  そこまで叫び、しかし上条はギリギリの所で最後の|台詞《せりふ》だけは|呑《の》み込む。  ……土御門だって、傷を負いながら戦うのが嫌だから、代わりにステイルに|魔術《まじゆつ》を使ってもらってるはずなのに……。 「分かったよ。それで行こう」  誰がどう考えても理不尽な提案に、ステイルは答えた。 「だって、お前……ッ!!」 「気持ちが悪いから慣れ合うなよ上条|当麻《とうま》。それで全部終わらせられるなら聞題はない」  言って、彼は土御門を|睨《にら》みつける。 「代わりに、何があっても|迎撃《げいげき》術式の居場所を突き止めろ。そしてこの問題は、僕|達《たち》だけできちんと片付ける。これ以上大きな聞題には、絶対に発展させない。分かったか?」  |睨《にら》まれた|土御門《つちみかど》は、視線を外す事もなく、 「オーケー。これ以上問題をこじらせる事で、インデックスに強制帰還命令が下るような結果にはさせないぜい。彼女の学園都市での生活は確実に守る[#「彼女の学園都市での生活は確実に守る」に傍点]。それがお前の条件だったな?」  土御門の言葉に、|上条《かみじよう》は思わず絶句した。  結局ステイルは、どれだけ自分が傷ついても、とある少女の幸福しか考えていない。  たとえ、その幸福な世界に、自分の姿がなかったとしても。  かつて自分が立っていたはずの屠場所に、上条|当麻《とうま》が立っているとしても。  彼は、その程度の事実では、止まらない。  |魔術師《まじゆつし》・ステイル=マグヌスは上条達に背中を向けて、|懐《ふところ》からルーンのカードを取り出す。  |占術円陣《せんじゆつえんじん》。  土御門|元春《もとはる》が地面に描いた朱也の円の中へ、ステイルは迷わず|踏《ふ》み込んだ。 「上条当麻。……僕は、君が今ここにいる事が気に食わない」  赤い髪の神父は、揺るぎのない声で、 「|何故《なぜ》、あの子の|側《そば》にいないんだ。あの子がそれで顔を|曇《くも》らせたら、全部君のせいだろうが」  直後、ルーンの炎が|炸裂《さくれつ》し、同時に迎撃のための術式が発動した。  絶叫が|響《ひび》き、|誰《だれ》かの倒れる音が聞こえる。  それが、ステイル=マグヌスという一人の人間の生き方だった。 [#改ページ]    第三章 追う者と逃げる者の戦略 Worst_Counter.      1  |吹寄制理《ふきよせせいり》は|大覇星祭《だいはせいさい》の運営委員だ。  |警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》のような特別権限は持たないものの、競技の準備や審判を担当するため、割と|馬鹿《ばか》にできないポジションだったりする。世間にとっては大きなスポーツの祭典程度の印象しかないが、大覇星祭は各校ごとの能力開発の進み具合を簡単に評価できるため、学校の予算編成にも|影響《えいきよう》してくるのである。  当然ながら運営委員も競技に参加する。  よって、彼女|達《たち》は自分のスケジュールとの都合をつけて運営委員としての仕事に従事しなければならない。言葉で言うのは簡単だが、ここは東京都の三分の一を占める学園都市。競技場の位置によっては、相当の距離が開く。まるで時刻表ミステリーのような計画性と、開始や終了のタイミングが細かく変動する競技時間をアドリブで乗り切るだけの行動力がなければ務められない。|全《すべ》ては時間との戦いなのだ。 (次の『玉入れ』の競技場に向かうには地下鉄よりも自律バスを使って……いや、これは|駄目《だめ》だわ。あの大通りは長距離走に使われるから、今の時間は通行禁止のはず。となると地下鉄……いっそ、同じ学区内なのだから走った方が速いか!)  吹寄は両手にスポーツドリンクの詰まったボックスを抱えながら考える。運営委員なら地図とスケジュールぐらい頭に入れておくのは常識だ。さもないと、パンフレットに書かれていない突発事態が起きた時に対処できなくなる。  現在、彼女は自分が審判を行う競技場へ向かっている最中だが、最短コースから外れて、かなり遠回りなルートをぐるりと|迂回《うかい》している。理由は単純で、人混みの多いエリアを|避《さ》けて進んだ方が、最終的な時間短縮になるからだ。  そんなこんなで、わざわざ|上条当麻《かみじようとうま》を引きずってきた道を逆戻りする形で、吹寄制理はズンズンと前へ進んでいく。 (地下鉄だと駅から競技場までやや距離があるし、ちょうど人混みのエリアを抜けなくちゃ駄目。なら、人の少ない小道を走った方が、結果として速く進めそうね。……準備運動なし。て走るのは少し怖いけど!)  口の中でブツブツ言いながら歩いている吹寄は、しかし不意に|眉《まゆ》をひそめて足を止めた。  視界の先。  ほんの数メートル先に、チアリーディングの格好をした銀髪の女の子が、四つん|這《ば》いで打ちひしがれている。炎天下のアスファルトに手をつくのは熱そうよね、と|吹寄《ふきよせ》は思った。すぐ近くに植物学試験場があるのだから、木陰に入って涼めば良いのに。 「う、ううっ……せっかくお着替えして、とうまに見せてあげようと思ってたのに。私の事なんて待ってないで、勝手にどっか行っち。やったみたいだし……」 「し、シスターちゃん。そんなに落ち込まないで、きっと|上条《かみじよう》ちゃんにも何か深い訳があったのですよー?」  ぐったリチアリーダーの横で気の毒そうに|慰《なぐさ》めているのは、さらに小柄な少女のように見えるが、吹寄のクラスの担任、|月詠小萌《つくよみこもえ》だ。彼女もまた外国人の少女と同じく、明るい色合いのチア衣装を着込んでいる。  吹寄は|眉《まゆ》をひそめたまま、 「あたしが先生にお伝えした案件はどうなりました? 大体、公衆の面前で何をやっているんですか。軽い|錯乱《さくらん》ならホットミルクなど温かい飲み物でお|腹《なか》を満たして沈静化を促すか、|唐辛子《とうがらし》などの刺激物を使って思考を外側へ向かせると良いと思います。今、手元には唐辛子しかありませんが使いますか? ほら!」 「いっ、いえ、|大丈夫《だけじをワぷ》なのですよー吹寄ちゃん。———ホントに大丈夫なのですよ! だからシスターちゃんの鼻に唐辛子を押し込もうとしないで下さい! なんか江戸時代の女性に対して行われた奇妙な刑罰みたいですよそれーっ!!」  そうですか、と吹寄|制理《せいり》は七味啓辛子の入った小さなヒョウタンをポケットに戻す。  あわわわと顔を青くしている小萌先生だが、四つん這いチアリーダーは自分の身に降りかかろうとしていた事にも気づいていないほど落ち込んでいるらしい。微妙にお|尻《しり》が高く上がっているため短いスカートの中が見えそうだがやっぱり見えない。  彼女は言う。 「と、とうまは? とうまは一体どこに行ったんだろう……?」  さあ? と吹寄は首を|傾《かし》げた。  あの少年は、どこで何をやっているのだろう?      2  地面に倒れたステイル=マグヌスの休は、動かない。  秋風が|緩《ゆる》く整備場を流れるが、黒い装束がゆらゆらと揺れるだけで、反応がない。一応は呼吸をしているようだが、まともな体調とは思えない。  |土御門元春《つちみかどもとはる》は、 「反応は……出た出た。『|占術円陣《せんじゆつえんじん》』に反応ありですたい。ここが、こう変化すると……方角は北西か?」  倒れた同僚の方を、見ていなかった。目の前のステイルを視界にも入れず、彼の周囲に張り巡らせていた、直径ニメートルほどの真っ赤な|魔法陣《まほうじん》に目を落としている。 「『|速記原典《シヨートハンド》』らしき反応までの距離は……、この色の強味から考えて、三〇ニメートル。チッ、意外と近くに仕掛けてやがったのか。反応が全く動かない所を見ると、予想通り設置型って感じかにゃー。こりゃオリアナ自身も遠くに行ってない可能性があるな。|無闇《むやみ》に走るよりゆっくり歩いた方が集団に紛れやすいと踏んでるのかも。おいカミやん、地図持ってないかにゃー? ここから北西三〇ニメートル地点に何が建ってるかを知りたい」 「つち、みかど……」  |上条《かみじよう》は|呆然《ばうぜん》と突っ立ったまま、ぶるぶると|震《ふろ》えていたが、やはり|土御門《つちみかど》はそれも視界に入れていない。彼は自分の声に上条が|応《こた》えない事に気づくと、顔も見ないまま、 「カミやん、地図だよ地図。|大覇星祭《だいはせいきい》のパンフレットでも良いぜい。ああ、携帯電話のGPS地図もあったか。それならこっちでやるから」 「土御門ォォおおおおおおおおッ!!」  気がつけば、思わず上条は土御門の体操服の胸倉を|掴《つか》んでいた。ブチブチと嫌な音が聞こえ、彼の首に巻いてあった金の飾りの|鎖《くさり》が引き|千切《ちぎ》れる。怒りのあまり、思わず右手で地面の魔法陣を|叩《たた》き|壊《こわ》そうかと思った。それを最後で押し|止《とど》めたのは、やはり地面に倒れたまま見向きもされないステイルの姿だった。  と、土御門は胸倉を欄まれたまま、上条の顔を静かに見据えると、 「カミやーん。ステイルなら心配はいらないぜい。コイツだってプロの|魔術師《まじゆつし》だ。術的な|攻撃《こうげの》耐性ぐらいはあるんだよ、大体、オリアナの張った術式はあくまで『妨害』がメインであり、『攻撃』のためのものじゃない」  上条の怒りなど軽く受け流して、 「この迎撃術式は、平たく言えば『ステイルの魔力精製を空回りさせるように』動いてんだぜい。魔力ってのは生命力から作られるもんだ。それが空回りを続ければ、エンジンが焼け付くみたいに人間の肉体も変調を起こすにゃー。言っちまえば、それだけだよ[#「それだけだよ」に傍点]、カミやん。ざっと見たが、こりゃ日射病みたいなモンだ。わざわざ|興奮《こうふん》するほどの事でもない」 「ナメた口|利《き》いてんじゃねえよテメェは! コイツが|誰《だれ》のためにわざわざ傷を負ったか分かってねえのか!? 何でそこまで冷たくなれるんだよ!!」  上条がさらに力を加えて土御門を手前に引き寄せようとした所で、  ピツ、と。  土御門のこめかみが、|薄《うす》く切れた。  一歩遅れて赤い血の玉が浮かび上がるのを合図に、体操服に|覆《おお》われた|脇腹《わむばら》が、内側からじわりと赤く染まり始める。みるみる内に赤い色は広がっていき、まるで刃物で刺されたような惨状へと変わっていく。 「つ、ちみかど……?」  |上条《かみじよう》は慌てて胸倉から手を離す。|上御門《つちみかど》は、表情も変えない。 「飛んでくる術式の|魔力《まりよく》に反応して、距離と方角を伝えてくれる『|占術円陣《せんじゆつえんじん》』。そんな便利な|代物《しろもの》を、魔力を使わずに発動できるはずがないだろう[#「魔力を使わずに発動できるはずがないだろう」に傍点]、カミやん……|」  ギクリとした。  そう、|魔法陣《まほうじん》を描いただけで、魔力という力を使わなくても|魔術《まじゆつ》が使えるなら、インデックスにだって使えるはずだ。むしろ魔力を扱えない彼女からすれば、それは立派な切り札になると思う。しかし当然ながら、上条はインデックスがそんな物を扱っている姿も、得意げに『占術円陣』とやらについて説明している姿も見た事がない。  土御門は、ほんのわずかに呼吸を乱しながらも、 「ステイルに、使わせた……探索の魔術に比べれば、使った魔力は、微々たるモンだが……それでも、この|醜態《しゆうたい》だ」血に|濡《ぬ》れた|脇腹《わきばら》に、片手を当てて、「いいかい、カミやん。お前の言う通り、ステイルが倒れたのは、全部オレのせいだ。オレがもっと、まともに魔術を使えてりゃ、こんな事にはならなかった。認めてやるよ、だから好きなだけ恨め」  告げる。  揺らぐ両足に力を込め、崩れ落ちそうになる体を必死に支え、 「でも、オレは成功させるぞ。オリアナが張った、|迎撃《げいげ 》術式は、必ず見つけて、|破壊《はかい》する。そしてオリアナも捕まえて、『|刺突杭剣《スタブソード》』の取り引きも、絶対に、この手で|潰《つぶ》す。それで、まずはイーブンだ。残りの利子は、全部、終わってから……ステイルに返してやるさ」  気にしていないはずが、なかったのだ。  それを強く自覚しているからこそ、上御門は冷酷に|徹《てつ》する事にしたんだろう。倒れた同僚の努力に報いるために。そして何より、一刻も早く|戦闘《せんとう》状態を終わらせる事で、少しでもステイルの負担を軽くするために。  |呆然《ぱうぜん》とする上条に、土御門は|薄《うす》く笑う。  別に、ステイルを傷つけたのに代わりはないのだから態度を改めるな、とでも言うように。 「カミやん、地図だ。北西三〇二メートルの位置に何があるかを知りたい。きっとそこに、オリアナが仕掛けた迎撃術式の「|速記原典《シヨートハンド》』があるはずだ」 「あ、ああ……」  |大覇星祭《だいはせいさい》のパンフレットは分厚いため、体操服のポケットに収まるようなものではない。上条は携帯電話のGPS機能を使って、上御門が指定した場所の座標を調べる。  そして、  目を疑った。 「な……ッ。土御門、本当に北西で良いのか?距離は三〇二メートルで間違いないのか!?」 「正確には、北を〇度に置いた場合、時計回りで三一八度。北西で間違いないにゃー。距離の方は少し|曖昧《あいまい》だが、大体間違いはないぜい」 「……、くそったれが」  |上条当麻《かみじようとうま》は指定された座標が表示された携帯電話の画面を、|土御門《つちみかど》に見せた。  彼の顔が|驚《おどろ》きで凍る。  無理もないだろう、と上条も思った。  そこに表示されていたのは、とある中学校の校庭の真ん中だった。秋空をゆっくりと流れていく飛行船が、次の競技の案内を放送している。あと一〇分もしない内に、その校庭では競技が始まるらしい。      3  上条|達《たち》は倒れたままのステイルをどうする事もできない。可能な限り|騒《さわ》ぎを外に漏らさないためにも、だ。土御門はオリアナ探索のための『|理派四陣《りはしじん》』の折り紙と|魔法陣《まほうじん》を、再度ステイルの|側《そば》に描いた。|迎撃《げいげき》術式|破壊《はかい》と同時に携帯電話で連絡を送り、それを合図に『理派四陣』を起動させて欲しい、と土御門は言っていた。  ステイルは地面に転がったまま、しかしわずかな動きで|頷《うなず》いた。それだけでも『生きている』感じがして、上条はホッと|安堵《あんど》する。  土御門は自分が傷っく事は計算に入れていたのか、体操服のポケットから包帯を取り出すと、テキパキと|脇腹《わきばら》を止血していく。が、体操服にべったりついた血の染みは隠しようがない。このまま外に出れば、確実に騒ぎになる。  服はどうにかするから先に行け、と土御門は言った。とにかく、ここで二人とも立ち往生していても意味はない。上条だけでも、問題の中学校へ走る事になった。  そんなこんなで、現在、上条はたった一人で秋晴れの歩道を全力疾走している。老人に手を引かれる子供や、パンフレットを手にした男女がこちらを見ていたが、いちいち気にしていられない。ゆっくり回る風力発電のプロペラの下をくぐり、さらに加速を続ける上条の手には、携帯電話があった。  相手は土御門だ。 「ステイルの|魔術《まじゆつ》をあっさり封じたり、少人数の尾行に対する逃げ方を見せてる辺り、オリアナのヤツ、こっちの事情をある程度|掴《つか》んでるっぽいにゃー。わざわざ|露出《ろしゆつ》の高い競技場に迎撃術式の拠点を設置するだなんて、完全に嫌がらせ入ってるぜい』 「しっかし、いくら競技前だからって、校庭の真ん中に小細工なんかできんのかよ? なんか透明人間になれる魔術でも使ってんのか、オリアナのヤツ」 『それが使えりゃ、オレ達が追跡してた時も使ってそうだがにゃー。にしても、カミやん。競技開始まで残り時間はどれだけだっけ?』 「七分。そこらの電光掲示板にも載ってるぞ」  |上条《かみじょう》はデパートの壁に|貼《に》り付けられた|大画面《エキシビジヨン》に目をやりながら、直線の歩道を走る。 『だとすると、もう競技の準備は終わってるな。客もカメラも入ってるだろ。今からこっそり校庭に入ってオリアナの「|速記原典《シヨートハンド》」をどうこうするのは難しそうだ』  競技内容によっても違うが、一つのプログラムを終えるのに三〇分から、長いものでは一時間ぐらいかかる種目もある。『|理派四陣《りはしじん》』の探索効果範囲が三キロ前後である事を考えると、終わるまで待っていたら、オリアナはのんびり歩いても範囲から逃げ切れる計算になる。 「じゃあどうするんだよ。校庭の|迎撃《げいげき》術式を放って溢く訳にもいかないだろ」 『当然。カミやん、そこの学校でやる競技って何だったっけ?』 「あん? 確か———」  勢い良く角を曲がりつつ、上条は電光掲示板を探す。歩道をゆっくりと進んでいるドラム缶型の警備ロボットが、スピーカーを使って|近隣《きんりん》の競技場の情報を流していた。上条はそれを聞きながら、 「———玉入れ、みたいだぞ。中学の学校対抗で、全校生徒が参加する大規模なヤツらしい」 『そかそか。いや、こっちも今、飛行船からの案内放送で確認したぜい。「|速記原典《シヨートハンド》」ってのがどんな形をしてるか分かんねーが、そこにあるのは間違いない。なら、やるのは一つだろ、 カミやん。……その競技に、選手として潜り込むしかない[#「選手として潜り込むしかない」に傍点]』  上条は足がもつれて盛大に転ぶかと思った。 「本気で言ってんのか!?」 『時間内に、怪しまれずに校庭に入るならそれしかないにゃー。なに、学校対抗って事は、三|桁《けた》単位の人間が入り混じるはずだ。一人二人|潜《もぐ》った所で何とかなるぜい』 「でも|俺達《おれたち》はコーコーセーであって、チューガクセーの集団に混ざるのはちょっと無理があると思うんですがその辺りは何か対策が!?」 「カミやん。若さだよ。|溢《あふ》れる若さを取り戻せば怪しまれる事もないぜい』  なんか色々と|駄目《ぜめ》かもーっ! と、上条はくじけそうになる。競技はテレビカメラが回るのだ。下手をするとお茶の間クラスの恥をさらす危険もある。  と、土御門がこれまでの口調より、ワンランク低くした声で、 『いや、カミやん。ここで渋る訳にもいかないんだ。オリアナの捜索の事はもちろん、|他《ほか》にもヤバそうな理由がありそうだし』 「あん?」  上条は走りながら携帯電話に耳を傾ける。 『あの迎撃術式は、ステイル個人だけを|狙《ねら》うモノじゃないかもしれないんだよ。条件さえ|揃《そろ》っちまえば、他の人間に|牙《むば》を|剥《む》く危険性もあるって事ですにゃー。それこそ、オレ達以外の一般人でもな』 「……何言ってんだ、お前?」  競技場が近いせいか、周囲に人が多い。公式競技なら開始一〇分前には来場受付を終了していそうなものだが、この辺りが『運動会』といった所か。入場条件が甘い分、警備の人数は増えているようだが。 『良いかカミやん、冷静に聞け。オリアナの|迎撃《げいげき》術式は、「|魔術《まじゆつ》を行うための準備を読み取り、そこから使用者の生命力を識別して妨害する」っていうヤツだ。ここまでは分かるか?』 「あ、ああ」  実はあんまり良く分かっていない。  が、とりあえずオリアナが放った「|速記原典《シヨートハンド》』が、ステイル個人を何らかの方法で区別して、彼の魔術を妨害した、というのは分かる。 「それがどうかしたのか?」 『まあにゃー。ここが問題なんだ。「魔術を行うための準備」。これ、何が当てはまると思う?』 「……は?そりゃ、まあ……変な|呪文《じゆもん》を唱えたり、|得体《えたい》の知れない|魔法陣《まほうじん》を描いたり、とか?」  準備とか言われた所で、|上条《かみじよう》には具体的に『魔術とはどういうものなのか』が理解できていないので、上手に答えられるはずがない。  |土御門《つちみかど》の声が、さらに渋くなる。 『しかし、それで良いなら……なあカミやん。例えば、「|言霊《ことだま》」って術式があるんだぜい。言葉の意味による|影響力《えいきようりよく》を利用した術式だが、これの準備は、ただ声を出すだけだぞ[#「ただ声を出すだけだぞ」に傍点]?』  上条はギョッとした。  それでも足は止めない。問題の中学校はすぐそこだ。 『あくまで可能性の話だが、もしもこれに反応するってんなら、非常に厄介だ。オリアナの「|速記原典《シヨートハンド》」の近くで話をしただけで、その迎撃術式はターゲットの追加オーダーを入力するはずだ。そしたらステイルと同じくぶっ倒れちまう。……声を出すのに魔術師も一般人も関係あると思うか? 普通の生徒や観客だって十分危ないんだよ』 「でも、そんなのってありえるのか? ステイルが倒れた時、|俺達《おれたち》だって普通に話をしていただろ」  競技場に向かう観客達を追い抜いて、上条は一気に中学校の入り口へ向かう。  学園都市に入る時点で入場料を取られるため、競技場そのものにパスは必要ない。 『そうだにゃー。言霊の並べ方には法則性があるし、使えるワードにも制限がある。短歌や俳句みたいなもんか。だから、単に声を出すぐらいじゃ反応しないかもしれないが……。なら、世界で最も簡単な魔術|儀式《ぎしき》って、何だか知ってるか?」 「はぁ???」  競技場入り口、つまり中学校の正門には入場待ちの列ができている。あそこを|上手《うま》く突破しないとな、と|上条《かみじよう》は思っていたが、 『「触れる」事だよ。特に「手で触れる」事に加わる意味は強いにゃー。多くの宗教で右と左の価値が異なるのも、元は右手と左手の役割分担によるものだ。新約聖書でご|活躍《かつやく》の「神の子」だって、右手で触れる事で病や死から人々を救ったと言われてるぜい。もしも、オリアナの「|速記原典《シヨートハンド》」がそれに反応するとしたら?』 「ちょ……待てよ」  上条の足が、思わず止まった。  |土御門《つちみかど》はさらに続きを言う。 『あるいは、本格的な|魔術師《まじゆつし》だったら、「触れた」ぐらいじゃどうって事はないかもしれない。 「触れる」ってのは十字教のみならず、様々な宗教・流派で採用されてる魔術的動作だ。それだけじゃ術者の生命力の「解析条件」としちゃ|曖昧《あいまい》すぎると思うしにゃー。ある程度の防壁を備えたプロの魔術師なら、「|速記原典《シヨートハンド》」の術的侵攻を|弾《はじ》き返せる可能性もあるだろうぜい。———が』  そこで彼は言葉を一度切って、 『防壁を全く持たない|素人《しろうと》に対してなら、ある程度条件が曖昧なままでも強引に生命力を解析し、侵攻だってできるはずだ。その上、魔術師としての防御力がない分、症状はステイルよりずっと強くなる。重い日射病や熱中症が人を死なせるのと同じで、これは相当危険な状態に|陥《おちい》ると言って良いと思う』 「で、でも、ステイルを|攻撃《こうげき》したヤツってそもそも魔術を妨害する術式なんだろ? 魔術師でない一般人とか能力者に反応するもんなのか?」  とにかく、止まった足を再び動かす。しかし、上条の動きは遅い。まるで|緊張《きんちよう》で足がもつれるのを防こうとしているように。 『厳密に言うなら、反応するのは「魔術の準備をした」人間の「生命力に対して」だから、一般人でも十分危ないぜい。魔力を練られるかどうかは関係ないし、魔術の知識技術のあるなしも、おそらく関係ないにゃー。ステイルが使った「|理派四陣《りはしじん》」の探索|魔法陣《まほうじん》だって、オレが描いただけの受け売りだっただろ?』  最悪だ、と上条は思う。  正門のすぐ先に見える、土の校庭を眺める。  あの校庭の、どこかに地雷が埋めてあるようなものだ。実際に|誰《だれ》かが|踏《ふ》むと決まった訳ではないが、これからあそこで、たくさんの人間が何も知らずに競技を始めてしまう。それもリレーや一〇〇メートル走のように決まったコースだけでなく、校庭全部を使った玉入れだ。当たりを引く確率は格段に高い。 『とにかくカミやん、|犠牲《ぎせい》が出る前に迎撃術式を片付けるぞ。カメラの前で魔術現象を起こすのはマズイし———何より、一般人に傷をつけたくない』  通話が切れた。  |上条《かみじよう》は携帯電話をポケットに突っ込むと、正門から離れた。今から列に並んで入るのは、時間的に無理だ。彼は学校の|敷地《しきち》を区切る金網のフェンスに沿って走る。フェンスの高さはニメートル前後だが、乗り越えようとすれば上空を飛んでいる無人偵察ヘリが動くはずだし、|騒《さわ》ぎが大きくなれば別の場所から|戦闘《せんとう》ヘリが飛んでくるだろう。彼はぐるりと回る形で校舎の裏手まで駆けると、そちらには裏門があった。  当然ながら、裏門にも|警備員《アンチスキル》は詰めている。この中学校の体操服とIDがあれば問題ないだろうが、このままの格好で行けば、学園都市内の住人であっても引き止められるはずだ。 (さて、どうしたもんかな……)  上条はジュースの自動販売機に寄りかかりながら、思案する。競技開始まで残り五分前後。 |他《ほか》の出口を探している余裕はないが……。  と、裏門に動きがあった。一人の女子生徒が、スポーツドリンクのたくさん入ったクーラーボックスを抱えて裏門から、敷地内へ入って行ったのだ。|半袖《はんそで》短パンの休操服の上から|薄手《うすで》のパーカーを羽織っていて、|裾《すモ》から短パンのお|尻《しリ》がチラチラと見えている。  運営委員の|吹寄制理《ふきよせせいり》だ。 「うそっ!?」  上条は慌てて自販機正面から、側面へ回り込んで自分の体を隠した。 「……、?」  吹寄はクーラーボックスを抱えたまま、裏門の少し奥でピタリと止まると、こちらを振り返って、しかし首をひねりながら校庭へ消えて行った。  見られてはいない……と、上条は思う。もし発見されていたら『何で応援もしないでこんなトコでサボっているの上条|当麻《とうま》。頭の成長が足りてないのねそれならDHAよマグロの目玉いっぱい食え!』とか、メチャクチャ怒られそうな気がする。  しかし、 「や、ヤバそうだ……。|土御門《つちみかど》のヤツ、競技中に|潜《もぐ》るとかっつってたけど、アイツが運営委員として審判の仕事とか始めたら、一発でバレそうだぞ……。くそ、やっぱ土台んトコから計画に無理があるんじゃねーのか?」 「……なーにが無理そうなんだにゃー?」  突然後ろから聞こえた男のささやきに、上条はビックゥ!! と|震《ふる》える。『もう追い着いたのかよ!?』と慌てて振り返ると、そこには真新しい体操服に着替えた土御門が立っていた。傷の手当ても完全らしく、ちょっと見ただけでは|怪我《けが》をしているようには思えない。 「お、お前もやっぱり、裏門から侵入する事にしたのか?」 「まーな。正門を突破するよか簡単そうだし」  土御門は気軽に言う。しかし、と上条は改めて裏門を見た。完全装備の|警備員《アンチスキル》が三人、さらに上空には無人偵察ヘリ。こっそり忍び込む、なんて事ができるのだろうか?  あれこれ考えている|上条《かみじよう》の|怪誹《けげん》そうな顔を見て、|土御門《つちみかど》はニコニコ笑い、 「いやいやマジで簡単よ? ほらカミやん、そこに|水溜《みずた》まりがあるだろ。ここんトコ雨は降ってないし、おそらく運営委員が水を|撒《ま》いてったんだと思うけど」 「ああ。で、これをどうするって?」 「こうするぜい♪」  言って、土御門はいきなり上条の足を払った。『ぶわっ!?』と上条が叫ぶと同時、勢い良く水溜まりの中へ転がっていく。土御門は『わははは! まさかこの|歳《とし》で泥遊びをするとはにゃーっ!!』と叫ぶと、倒れた上条の上ヘフライングボデイプレスをお見舞いする。  ドゲシャア!! とコメディ映画でも聞いた事がないような効果音と共に、上条の体がさらに沈む。裏門にいた|警備員達《アンチスキルたち》が不審そうな目でこちらを見ていた。 「ぶっ、あがが……ッ! て、テメェ、いきなり何を……ッ!?」  土御門の下でのた打ち回る上条に対し、サングラスの男は小さな小さな声で、 「(……カミやん、体操服はしっかり泥で染めたな? パッと見でどこの学校のデザインか分からなくなるぐらいに[#「パッと見でどこの学校のデザインか分からなくなるぐらいに」に傍点])」  は? と上条が疑問の声を投げる前に、泥だらけの土御門は立ち上がる。上条に手を差し伸ベる、というより強引に立たせるように腕を|掴《つか》むと、今度はやや警戒気味に近づいてきた|警備員《アンチスキル》の男性に向かって、 「うわーすみません! ウチらこれから競技なんですけどどうしましょう! やっぱ、この格好のまま出場しなくちゃ駄目でしょうか!? カメラもあるのに!」  突然の申し出に、|警備員《アンチスキル》は面食らったようだった。  彼は上条達の格好を上から下まで眺めたが、泥に染められた体操服は、どこの学校のものか、細かい個性をまとめて塗り|潰《つぶ》してしまっている。 「は、ハァ?い、いや、参ったな。替えの体操服は用意していないのかね?」 「あーあったあった!でも部室の中ですけど」 「で、では早くするんだ。もう競技開始まで四分ない。ああすまない、一応規則なのでIDを確かめさせてもらう。すぐ終わるから」  上条は思わずギョッとした。  |警備員《アンチスキル》はボールペンサイズの細長い円筒を取り出した。円筒てっぺんのボタンを操作すると、円筒側面から、まるで巻物のようにスルスルと透明な板が出てくる。縦横共に一五センチぐらいの大きさだ。|掌《てのひら》を押し当てる事で、指紋、静脈、生体電気信号パターンなどを読み取る、学園都市の簡易ID照合器だった。 (……ちょ、おい土御門! こんなのどうやって突破するんだよ……ッ!?)  |緊張《きんちよう》で声が出そうになる上条だったが、土御門は泥だらけの掌をぐっと突き出すと[#「土御門は泥だらけの掌をぐっと突き出すと」に傍点]、 「はい、ペタリっと……って、ああ!? なんかエラーが出た!!」 「なあっ! き、きちんと手を|拭《ふ》いてから使わんか!」  |警備員《アンチスキル》は慌てて照合番を操作したが、泥を吸った読み取り部分はうんともすんとも言わない。 彼は首を巡らせ、|他《ほか》の同僚|達《たち》の顔を見たが、首を左右に振った。照合器を持っているのは彼だけらしい。 「くそ、今、正門の方から替えの機材を回してもらってくるから……」 「時間がありませんって! ウチら、これから部室に向かって着替えてから入場門に向かうんですよ!?」  切羽詰まった|土御門《つちみかど》の声に、|警備員《アンチスキル》は再度、同僚の方を振り返る。残りの二人の内、一人は来い来いと手招きし、もう一人は|駄目《だめ》だと顔の前で手を左右にパタパタ振っている。  少し考え、|警備員《アンチスキル》は小さく|頷《うなず》いた、多数決は二対一で|上条《かみじよう》達の入場を認めたらしい。 「行くなら早く! 時間になったら途中参加は認められないそ!」 「ありがとーございまーす!!」  土御門は上条の手を引っ張って走り、裏門を正々堂々とくぐっていく。上条はうんざりした調子で、しかしやるべき事は忘れず、 「おい土御門! 替えの体操服ってどこにあると思う!? |流石《さすが》にこんな泥だらけの格好じゃ『紛れる』のは無理っぽいだろ!」 「なあに、こういうのは保健室にあるってのが相場なんだよカミやん! 救護用にあそこは今日も開放されてるだろうしにゃーっ! ちゃっちゃと済まして上手に紛れようぜい!!」  上条と土御門は、話し合いながら土の校庭の端っこを走り、コンクリートの校舎へ向かう。  競技開始まで、およそ三分弱。      4  次の競技は玉入れだ。  |御坂美琴《みさかみこと》は土でできた校庭に立っていた。  最新鋭の設備を持つ|常盤台《ときわぷい》中学に慣れている身としては、不規則な凹凸があり、|衝撃《しようげき》の吸収効率も場所によって異なる土の競技場というのは逆に新鮮だ。少し風が吹くだけで|砂埃《すなぼこり》が舞う、こんな西部劇みたいな場所で、果たして精密な能力測定などできるのだろうか、とも思う。あるいは、不規則な地形を想定した実戦的な訓練場なのかもしれない。  生徒数は二〇〇人弱と少なく、しかもその全員が|生粋《きつすい》のお|嬢様《じようさま》という常盤台中学の陣営は、見た目には|華奢《きやしや》を通り越して|可憐《かれん》にすら映る。観戦席にカメラの数が多いのも、その実力よりも、単に映して華になるという意図が強そうだ。  しかし、それは学園都市の『外』から見た意見。  学園都市の『中』から見た意見は、全くの逆だ。  |常盤台《ときわだい》中学のお|嬢様《じようさま》が戦うというのは、つまりは最低でも|強能力者《レペル3》が、最高では|超能力者《レペル5》までが参戦する事を意味する。いかに数や体格に差があっても、笑顔でイージス|艦《かん》を沈めかねないほどの令嬢軍団相手に楽観などできるはずもない。  事実、土の校庭の向こう側……玉入れ用の、ポールのついた|籠《かご》を挟んだ反対側にいる対戦相手の中学校は生徒総数二〇〇〇人を超えていたが、何やら悲壮な覚悟にも似た異様な|雰囲気《ふんいき》に包まれているのが遠目にも分かる。彼らからは負け|戦《いくさ》の|匂《にお》いがしますわ、というのが常盤台中学陣営の総括であり、気位の高そうな連中は早速それを鼻にかけて、おっほっほウォッホッホッホ!! と高笑いを始めてしまっている。  しかし、|御坂美琴《みさかみこと》は気に入らなかった。  思わず両手を腰に当て、前髪から全身からバチバチと青白い火花を散らしてしまうほどに。 (……一体何なのよ)  軽く一〇〇メートルは離れた対戦相手の陣営。二〇〇〇人を超す中学生|達《たち》の中に、何か居てはいけない人間が混じっているのが見える。ご|丁寧《ていねい》にも、どこかから学校指定の体操服まで用意して。  一度も勝負に勝てた事のない人物の姿が。  喉一泣き顔を見せた事のある少年の姿が。 (ア・ン・タ・は、そこで何やってんのよ。ねえ……ッ!?)  美琴の周囲では後輩の少女達が恐る恐る何かを尋ねてきているが、|俯《うつむ》いたまま暗い暗い笑みを浮かべてバッチンバッチン空気を鳴らしている彼女は気づいていない。  選手入場の後、自分の陣営で対戦相手について聞いた|上条当麻《かみじようとうま》は顔を真っ青にした。 「(……えーっ!? 戦う相手って常盤台中学なの! か、覚悟はしておけ|土御門《つちみかど》! あそこのお嬢様は怒ると東京タワーでもへし折れそうな|雷撃《らいげき》の|槍《やり》を飛ばしてくるぞ!!)」 「(……にゃー。連中の能力干渉レベルを総合すると、生身でホワイトハウスを攻略できるとかウワサされてるからな。流れ弾にはくれぐれも気をつけようぜい、カミやん)」  本人達に聞かれたら即座に|狙《ぬら》い|撃《う》ちされそうな事を言い合いつつ、彼らは|土壇場《どたんば》の作戦会議を行う。 「『|速記原典《シヨートハンド》』ってのは、あくまで方式の名前であって、実際に分厚い本がそのまんま仕掛けてあるとは思えないにゃー、|占術円陣《せんじゆつえんじん》の反応は確かに校庭を指してんだけど、パッと見で怪しげなモンはないだろ?」  土御門の言葉通り、校庭には『|魔術《まじゆつ》っぽいもの』など見当たらない。  土でできた地面の上に、玉入れに使う金属ポール状の籠が一〇本、横一列に並んでいる。その周囲に散らばっているのは、赤と白の玉だ。二〇〇〇人強の生徒達が参加するため、籠も大きいし、玉の数も|膨大《ぽうだい》だ。  仕掛けてあるとすれば、一体どこだろうか。 「ったく、最初っから古びた本の形をしてりゃ良いのにな」 「それが向こうの|狙《ねら》いなんだよ。確かにオリアナの手の内は見えちゃいないが、設置型である以上は必ず|魔術的《まじゆつてき》な仕掛けがある。落書きや引っ|掻《か》き傷、染みや汚れに偽装してる可能性もあるけど、このオレに見破れないとでも思うかい、カミやん。オレが修めた|陰陽《おんみよう》には、景色や建物に細工を|施《ほどこ》す風水技術も含まれてんだ。この手の魔術的記号の『読み取り』は、オレの|十八番《フイールド》なんだよ」  |土御門《つちみかど》は小さく笑って簡単に答えた。  |上条《かみじよう》はちょっと考えて、 「なあ土御門。ここのどこかにオリアナの「|速記原典《シヨートハンド》』があるって話だったけどさ。それって|魔道書《まどうしよ》……しかも、原典とかってヤツなんだろ? 読んだら人の心が|壊《こわ》れるって話だけど、それって玉入れに参加した人間がみんな倒れちまうって事にはなんねーだろうな?」 「いや、多分ない。『|速記原典《シヨートハンド》』ってのは、読み手に理解させようって努力ゼロの魔道書だ、元々内容の読めない|殴《なぐ》り書きの魔道書なら、汚れた知識が伝わる事もない。だから、その点はおそらく心配ないぜい」  そっか、と上条は|安堵《あんど》した。  しかし、土御門はわずかに表情を引き|締《し》めて、 「むしろ重要なのは、オリアナがどういう形で魔道書を設置してるかってトコだにゃー。ルーンを刻んだ石板の場合は、石板そのものが魔道書とみなされる[#「石板そのものが魔道書とみなされる」に傍点]。どこまで範囲が伸びるかは知らないが、|馬鹿《ばか》デカイ物を『|速記原典《シヨートハンド》』にしないで欲しいモンだぜい。触れる機会が増えちまう」  上条は選手|達《たち》の頭越しに校庭を見る。あるのは、横一列に並ぶ一〇本の玉入れ用のポール付き|籠《かご》と、辺り一面にばら|撒《ま》かれた、赤と白の玉だけだ。 「あの籠ならともかく……例えばさ、あの玉が魔道書だったりしたら厄介だよな。選手の数は双方合わせて二五〇〇人ぐらいか? だったら、玉は紅白合わせて最低でも二倍は用意してそうだし。何より、玉は触る機会が多い[#「玉は触る機会が多い」に傍点]」  一つ一つを調べるだけでも骨が折れるし、選手達は絶えず玉を|掴《つか》んで投げてしまう。ゴチャゴチャとランダムに並べ替えられたら、どこまで調べたかも分からなくなってしまうだろう。 「違うな。玉はついさっきばら撒かれたモノらしいぜい。ステイルが|迎撃《げいげき》術式にやられた時は、まだ倉庫の中だ。となると、倉庫の方に「|占術円陣《せんじゆつえんじん》』の逆探知がいかないとおかしい」 「っつーと?」  上条は土御門の顔と校庭の先を交互に見る。 「籠が怪しいにゃー。あっちは随分前から設置されてたらしいぜい。『籠の周りに玉を撒く』んだから、最初に籠の位置を決めておく必要があったんだろ。なら、籠に魔術的細工を施された可能性が高いって訳だ」 「でも、どうやって……? 準備中だって、もう観客は集まり始めてた|頃《ころ》だろ。|呑気《のんき》に近づいて行ったら絶対に気づかれないか」  当然だが、校庭は|遮蔽物《しやへいぶつ》になるような物がない。それとも、今の|上条達《かみじまうたち》のように変装でもしてきたのだろうか。 「いや、転そらくオリアナは校庭には近づいていないぜい。カミやん、さっき裏門のセキュリティ見たろ? 逃げてる最中に、わざわざ|無駄《むだ》にアレを破っても労力の無駄ですたい。……あの|籠《かご》、よそからの借り物じゃねーかにゃー。|敷地《しきち》の外を搬入している間にオリアナが「|速記原典《シヨートハンド》』の小細工を|施《ほどこ》して、そのまま校庭まで運ばれて行ったと思うんだが」 「でも、触ったら被害が出るんだろ。だったら搬入係が倒れないか?」 「発動と停止のタイミングはオワアナの方で計れるんだろ。競技の経過はカメラが中継してる。そこらの電光掲示板でも見れば、準備の様子だって|欄《つか》めるはずだしにゃー」 「停止……?」  上条が疑問の声を投げると、|土御門《つちみかど》はニヤニヤと笑い、 「オリアナだって、取り引きを安全に進めるためには極力|騒《さわ》ぎは起こしたくないはずだぜい。おそらく競技が終わって、運営委員が片付ける段階になったら停止させる気だろ。もちろん、それまでには遠くに逃げ切ってなきゃおかしいけどにゃー」  しかし、競技中に|誰《だれ》かが『|速記原典《シヨートハンド》』に触れたらアウトだ。どんな形をしていて、どこに設置されているかも分からない|魔道書《まどうしよ》に。 「オリアナのヤツ……最初っからそこまで考えてたのか?」 「さあにゃー。案外なんにも考えてないかもしれないそ。まあ、パンフレットに競技予定は書かれてるから、それに伴う運営委員の動きを事前に調べていれば、できない事はないぜい」  土御門が答えると同時、校内放送のスピーカーのスイッチが入る。  位置について、という声が聞こえる。  この場にいない敵との戦いの|火蓋《ひぶた》が、切って落とされる。  校庭の端の方にある、運営委員用のテントの中で、|吹寄制理《ふきよせせいり》はマイクを握っていた。 『位置について』  |喉《のど》の声とスピーカーの声が重なる。運営委員の仕事は、負傷者の回収から競技開始・終了の合図まで多岐にわたる。実況のようなものはテレビ局の仮設スタジオなどでも行われるが、合図だけは運営委員が仕切る事になっていた。  その|他《ほか》に面倒なのは、玉入れの籠に入った玉の数を数える仕事か。これだけの人数が戦うとなると、使用される玉の量も|半端《はんぱ》ではない。玉入れに予定されている時聞も、三分の一が『カウント時間』に当たる。 『用意』  |吹寄《ふおよせ》の合図は開始だけ。後の合図は|他《ほか》の運営委員の仕事だ。彼女はこれが終わったら、玉を数える作業の方に移らなければならない。面倒だ、と思うが、それとは別に、吹寄は心の中で首を|傾《かし》げる。 (あの集団の中に|誰《だれ》かいたような気がするんだけど。……、疲労かな? ビタミンが足りていないのかしら。頭の疲れには大豆が良いとも言われていた気がするけど。でもあの通販番組は肥満でも血液サラサラでも|記憶力《きおくりよく》でも肌年齢でもとにかく大豆イソフラボンと言うのよね!) 疑問を解決できないまま、彼女は告げる。 『始め!!』  ピーッ!! と笛の音と共に玉入れの競技が始まる。校内放送のスピーカーが、運動会で良く使われるような行進曲を流し始める。  テンポの軽い音楽を完全に無視する形で、二つの学校の生徒|達《たち》が、左右から一斉に中央へ向かう。行き先は横一列に並んだ、高さ三メートルほどのポールと|籠《かご》だが。 「うおおっ! カミやん、なんかいきなり伏せろおおおっ!!」  |土御門《つちみかど》が叫び、|上条《かみじよう》が横っ飛びに地面を転がった|瞬間《しゆんかん》、ポール籠を挟んで数十メートル先にいた|常盤台《ときわだい》中学陣営から、赤や青や黄色の色とりどりの|閃光《せんこう》が|襲《おそ》いかかってきた。それは地面に着弾すると同時、|衝撃波《しようげきは》を|撒《を》き散らし、一発一発が|砂埃《すなばこり》と共に数十人の男子生徒を|薙《な》ぎ払っていく。 「ちょ、なんか連中一〇メートルぐらい後ろに転がってますがーっ!?」  人混みの一部分がごっそりとなくなっている。上条が少し前に参加した棒倒しでも能力による攻撃はあったが、こちらは段違いだ。土の地面が直径数メートルものサイズのクレーター状にえぐれているし、舞い上がるべき砂埃も衝撃波で薙ぎ払われてしまっている。  上条はゾッとして背後を振り返ったが、吹き飛ばされた生徒達はふらふらとしているものの、傷はない。どうも爆破と同時に、常盤台中学の別の能力者達が『|空気風船《エアバツグ》』や『|衝撃拡散《シヨツクアブソーバ》』など、防護系の能力をかけているらしい。敵側の面倒まで見る世話好きのお|嬢様《じようさま》達だ。  しかし上条の右手の|幻想殺し《イマジンブレイカー》はそんな心優しい防護能力など吹き消してしまうかもしれないし、土御門は薙ぎ倒された衝撃で|脇腹《わきばら》の傷口が開くかもしれない。 「……、」 「……、」  思わず無言で顔を見合わせる上条と土御門。  そんな彼らへ、さらに赤や青や黄色の閃光が襲いかかり、火炎放射や雷撃の|槍《やり》や真空の弾丸などが次々と飛来してくる。 「な、ナメやがって……ッ! 確かにプログラムには玉入れと書いてあったはずなのに!」 「どっちかって言うと玉っていうより砲弾が飛んでるって感じだにゃーっ!!」  集団の部分部分が|砲撃《ほうげき》でガツガツと欠けていく中、|上条《かみじよう》と|土御門《つちみかど》は人混みに紛れながらも、死ぬ気で校庭の中央、横一線に並んでいるポール|籠《かご》の根元まで|辿《たど》り着く。ポール籠は人が支えるのではなく、金属製のスタンドで地面に固定されたものだ。 「……(よーしカミやん。オレはこれからポール籠を順番に調べてくる)」 「……(あん? って、|俺《おれ》はなんか手伝える事とかないのかよ? )」 「……(あったらとっくに押し付けてるぜい。良いから待機しててくれにゃー。「|速記原典《シヨートハンド》』を見つけてからがカミやんの出番ですたい)」 「……(分かった。けど〉」  その間どうしよう? と上条は思う。とりあえずカムフラージュのために地面に落ちていた白組の玉を拾うが、競技に参加してしまうと、|潜《もぐ》りの自分が結果を変えてしまいそうで、いまいち乗り気にならない。  土御門は籠を支える金属製のボールの下で、わざと玉を籠に入らない軌道ヘポンポン投げつつ、その表面を下から上へと丹念に観察しているようだ。ポールの高さは三メートルにも達する。首を巡らせて一本調べるだけでも大変。そうだ。  どうも、土御門は元々オリアナが使っていた単語帳のページの有無はもちろん、ポールの支柱に変な文字が刻まれてないか、地面の金属スタンド部分に妙なマークが描かれてないかなど、様々な角度から調べているらしい。 「(……土御門っ)」 「(……外れだカミやん、これじゃない)」  彼は首を横に振ると、地面から白組の玉を回収しつつ、次のポールへ向かう。  |隣《となり》にある二本目、三本目のポール籠も調べていくが、結果は|芳《かんば》しくないらしい。それを見ている上条は、時間だけがじりじりと経過していくような|錯覚《さつかく》を感じる。  残りは七本。  上条も土御門の後に続こうとした所で、横合いから、キラッ、と白い|閃光《せんこう》が|弾《はじ》けた、 「うわっ!?」  慌てて右手をかざすと同時、丸い光の砲弾が|真《ま》っ|直《す》ぐ飛んできた。それは上条の右手に触れると同時、バシン!! と軽い音を立てて吹き飛ばされた。少し離れた所に、|常盤台《ときわだい》中学の少女がポカンと口を開けているのが見えたが、上条は相手にしない。下手に注目される訳にはいかないのだ。なので、隣でビビッて動けなくなっている男子生徒を|肘《ひじ》でつついて適当に|褒《ほ》める。コイツのおかげという事にしておく。 「(……カミやん、四本目も違う。次だ)」  ムキになった常盤台中学の少女がその男子生徒を集中砲火しているのを|尻目《しりめ》に、土御門と|上条《かみじよう》は五本目のポールへ向かう。  と、目の前で人の壁が揺らいだ。  上部の|籠《かご》だけを見て玉を投げていた男子生徒の一団が、後方から押されて将棋倒しを起こしたのだ。彼らは一つの塊になって、五本目のポール籠に激突した。  ゴン! という金属音と共に、ポール籠が|震動《しんどう》する。  もしもオリアナが五本目のポール籠に、|迎撃《げいげき》術式『|速記原典《シヨートハンド》』を仕掛けていたら———間違いなく、|犠牲《ぎせい》が増える。  ステイルが受けたような、重度の日射病に似た状態。  |魔術《まじゆつ》に耐性のない人間なら、死に至る危険性もある迎撃魔術。 「クソッ!!」  |土御門《つちみかど》は慌てて集団に向かって走る。上条もその後を追おうとしたが、ふとその足が動きを止めた。  ぐらり、と五本目のポール籠が大きく揺れる。  五本回のポール籠が横に倒れていき、|隣《となり》にあった六本目のポール籠に激突する。  六本目のポール籠も揺れて、倒れていく。  金属製のポール籠が倒れていく先に、|常盤台《ときわだい》中学の女の子が立っていた。  両手で赤組の玉を持ったままの少女は、ポカンとしたまま、目の前にゆっくりと向かってくる重さ三〇キロ超の鈍器を眺めていた。  まるで、突然やってきた事態に頭が追いついていないように。  上条はそこへ向かおうと走るが、五本日のポール籠で将棋倒しを起こした男子生徒|達《たら》が限りなく邪魔だ。 「ちっくしょう! 土御門ッ!!」  上条は叫ぶと、五本目に向かっていた上御門の背中を|踏《ふ》んで一気に将棋倒しのエリアを飛び越える。高く跳んだ上条は、空中でバランスを崩したが、そのまま女の子のランニング状の体操服の首の後ろを|掴《つか》む。ろくに受身も取らずに地面へ激突し、しかしその勢いを使って女の子を横方向へと強引に引っ張って移動させて、倒れてくるポール籠の軌道から逃した。  その時、少し離れた所で、能力による炎弾が爆発した。  倒れつつあった六本目のポール籠が、爆風に|煽《あお》られて上条達の方へと進路を変える。金属バットの数十倍もの重量が勢い良く|襲《おそ》いかかってくる。 (くそ、|避《さ》けた先に軌道修正してくるんじゃねえよ!!)  地両に倒れ込んだ直後の不安定な姿勢では、続けて跳ぶ事など不可能だ。上条は落下の|衝撃《しようげき》で痛む体を動かして、動けなくなっている女の子だけでも突き飛ばす。びっくりした顔の女の子は、最後まで自分の身に何が起きているか良く分かっていないようにも見えた。 (……ったく!!)  |上条《かみじよう》は思わず歯を食いしばる。  三〇キロ超の金属ポールが倒れかかってくる。  |瞬間《しゆんかん》。  ゴォン!! という教会の|鑓《かね》を鳴らすような|轟音《ごうおん》と共に、六本目のポール|龍《かご》が真横に跳ねた[#「真横に跳ねた」に傍点]。オレンジ色の光線に|弾《はじ》かれたポール籠は真っ二つに引き|干切《ちぎ》られ、地面を何回も跳ねて、何十メートルも滑っていく。周りの生徒|達《たち》は思わず身を|屈《かが》めたが、数秒も待たずに再び戦乱状態へと戻っていく。その間も、ガンゴンと音を立ててポール籠の|残骸《ざんがい》は地面を飛び跳ね続けていた。  |超電磁砲《レールガン》。  音速の三倍もの速度で弾丸を|撃《う》ち出す|超能力《レベル5》の一つ。  ふらふらと振り返った上条|当麻《とうま》が見たのは、銀色のコインを親指で弾いて全身からバチバチ火花を散らしている|常盤台《ときわだい》中学のエース、|御坂美琴《みさかみこと》の姿だった。  目が合う。  えへへ、と上条が力なく笑う。 「ったく……アンタってヤツは、そーこーまーでーしーてー私に罰ゲームを喰らわせたいって言うのかしらーん!?」  と同時、美琴は迷わず|雷撃《らいげき》の|槍《やり》を次々と放ってきた。 「う、うおおっ!! こ、こんな大規模なとばっちりを受ける前に逃げて逃げてそこの女の子! ここは|俺《おれ》が食い止めるから君はさあ早くーっ!!」  上条はやたらめったらに右手を振って雷撃の槍を弾き飛ばす。その背後ではさっき助けた女の予が、ありがとうございましたそしてごめんなさいと叫びつつペコリと|行儀《ぎようぎ》良く頭を下げて、|物凄《ものすご》い速度で戦線離脱していく。あっという間にその姿が能力をぶつけ合っている選手達の中へと消えて行ってしまった。  上条は振り返らず、そして静かな声で。 「……ふう。あれだけ元気いっぱいなら、とりあえずは|大丈夫《だいじようぶ》そうダゼ」 「アンタ。人様の競技に|潜《もぐ》ってナニ格好つけてんのよ……?」  |喧騒《けんそう》の中、美琴はおでこに手を当てつつ、ぐったりと脱力する。そのまま、手近の———七本目のポール籠に、小さな手をつけて寄りかかろうとして、 「ストップ! 待て御坂!!」 「な、何よ?」  びくっ、と御坂はわずかに手を引く。そのまま、宙で手を止める。  上条は美琴の顔を見ていない。そのまま、七本目のポールを観察している。御坂美琴が手をつこうとしていた高さの位置に、何かがある。  板ガムぐらいの大きさの……長方形の厚紙だ。  ここからでは読めないが、何か細かい文字が書いてあるような気がする。 (単語帳のページ!? まさか『|速記原典《シヨートハンド》』の正体ってこれの事だったのか!!)  |上条《かみじよう》の背筋に冷気が突き抜ける。  嫌な予感が一気に体中を駆け巡り、彼の体を硬直させる。 (そういう事か……。|土御門《つちみかど》は|迎撃《げいげき》術式に特別な「|速記原典《シヨートハンド》」を使ったって言ってたけど、そうじゃねえ。オリアナの単語帳のぺージ[#「オリアナの単語帳のぺージ」に傍点]、あれが一枚一枚全部[#「あれが一枚一枚全部」に傍点]『速記原典[#「速記原典」に傍点]』なんじゃねーのか[#「なんじゃねーのか」に傍点]!?)  まずい、と上条は思う。、  上条と|美琴《みこと》の距離は、およそ一メートル五〇センチほど。近いと言えば近いが、手を伸ばして届く範囲てはない。  縦に|貼《ぬ》り付けられた。厚紙は、上部一ヶ所だけをセロハンテープで留めてあった。|緩《ゆる》い秋風を受けるたびに、ひらひらと揺れている。  |御坂《みさか》美琴の|掌《てのひら》から、ポール|籠《かご》の支柱の位置まで、距離はおよそ三センチ。  厚紙が強い風に吹かれただけで———触れてしまう[#「触れてしまう」に傍点]。  上条は、突然ステイルが倒れた様子を思い出して、息を呑む。  慎重に言葉を選び、ゆっくりとした声て、危機の真ん中にいる少女に語りかける。 「良いか、御坂。訳は後でちゃんと話す、だからそこから離れるんだ。大事な話だから」 「はぁ??? アンタいきなり何言ってんの?」  案の定とでも言うべきか、美琴は|眉《まゆ》をひそめた。手は……そのまま、動かない。進みも戻りもせず、ピタリと三センチの距離を保っている。  ひらり、と厚紙がわずかに揺れた。  美琴はそれが示す意味に、気づいていない。 「あのね。今のアンタが人に何か命令できる立場な訳? アンタ、何でこんなトコにいるの? なんかポールも倒しちゃってまともに競技が進むのかも分からない状況になっちゃってるし、ちゃんと説明して欲しいんだけど———」  その時、ヒュン、という風切り音が聞こえた。  音は上条の後方から。|常盤台《ときわぜい》中学の対戦校の男子生徒が、美琴に向かって|真《ま》っ|直《す》ぐに土の|槍《やり》を放ったのだ。能力による加速が加わっているのか、土の槍は金属矢のような速度で空気を引き裂く。直撃すれば人間の|肋骨《うつこつ》ぐらいは砕くかもしれない。  美琴はとっさの事に|驚《おどろ》くも、前髪から紫電を散らして迎撃に移ろうとしたが、 「|邪魔《じやま》すんじゃねえよ!!」  それより早く、上条が右腕を真横に突き出した。土の槍と美琴の間に割って入った少年の|拳《こぶし》が、一撃で土の槍を粉々に打ち砕く。  |砂埃《すなぼこり》が舞い、上条の|頬《ほお》も汚れていくが、彼は|拭《ぬぐ》いもしない。  そんな事をしている暇はないとばかりに、その視線はただ御坂美琴を|捉《とら》える。 「ばっ、」  |美琴《みこと》は、砕かれた土の|槍《やり》の|残骸《ざんがい》と、目の前の|上条《かみじよう》の顔を交互に見て、 「|馬鹿《ばか》じゃないの。味方の|攻撃《こうげき》なんか防いじゃって。べ、別に、アンタになんか助けてもらわなくても、私の力ならどうとでもなったわよ。そもそも、大事な話って何なのよ。競技が終わってからじゃダメなの? わざわざこんなトコまで|潜《もぐ》り込まなくちゃいけないような話なのかしら」 「だから後で話すって。|御坂《みさか》、今はとにかくそこから離れろ!!」 「あーもう! だから何でアンタはいっつも人の話を聞かないのよ! 大体ここから離れるのはアンタの方でしょ!!」  怒った美琴は、八つ当たり気味にポールの支柱を手で|叩《たた》こうとした。  |焦《あせ》る上条は思わず、 「待て御坂! 今は何も言わずにこっちに来てくれ!! そこは危険なんだ! お前に|怪我《けが》なんてして欲しくないんだよ!!」  うっ、と美琴の動きが止まる。  |何故《なぜ》かそのほっぺたがみるみる赤くなっていく。彼女は首を動かさず、しかし視線だけは上条から逃げるようにあちこちに巡らせて、 「これぐらいの競技で、そこまで心配してくれなくても。私の能力があれば、どんなヤツが攻撃してきたって、どうにでも、できるんだから……」  何か言っていたが、上条は聞いていない。それどころではない。真剣に美琴の動き一つ一つを目で追いかける。汗が|頬《ほお》を伝う感覚に、右手の甲を使って|拭《ぬぐ》うと、ジャリっと砂の感触が返ってきた。  一方、|眼差《まなざ》しを今まさに受けている美琴の方は、ううっ、と背筋をピンと伸ばすと、ポール|籠《かご》につけようとしていた手を、ゆるゆると自分の胸元の方へと寄せていく。ややあって、彼女はブンブンブンブン!! といきなり首を横に振った。 (とりあえず……何とか、なったか? ってか、コイツ何で顔を赤くしてんだ???)  疑問はあるものの、ポール籠の支柱についた厚紙から、美琴の手は確実に離れている。その事に、上条が|安堵《あんど》した|瞬間《しゆんかん》、 「ったく、急に変。な事口走って|驚《おどろ》かせないでよね」  美琴は伸ばしていた背筋を丸め、  脱力したように右手でポール籠の支柱を|掴《つか》もうとした。 「ちっくしょう!!」  上条はとっさに前へ出る。厚紙が風になぶられ、強く揺れる。美琴の|掌《てのひら》に触れる。その直前で、彼は彼女の元へ突っ込んでいた。そのまま勢いを殺さず、身を低く|屈《かが》め、両手を美琴の細い腰に回すようにして、地面へ叩き付けるように一気に押し倒す。 「え? え?」  倒れたまま、自分に|覆《おお》い|被《かぶ》さる上条を見上げている美琴は、両手を胸の前に寄せた状態のままカチコチに凍り付いている。 「わっ、わっ、な、ななななな」  顔が爆発したみたいに真っ赤になっている|美琴《みこと》は、言葉を|上手《うま》く|紡《つむ》げていない。|上条《かみじよう》の顔に真剣味が増した。 「|黙《だま》ってろ。ちょっと動くな」  言って、彼は美琴を押し倒したまま、彼女の顔を間近から|覗《のぞ》き込んだ。|魔術《まじゆつ》について|疎《うと》い上条には判断がつかない。が、|素人目《しろうとめ》で観察した感じだと、彼女の顔は赤くなっており、まるで熱にうなされているようだ。 (確か、日射病の重たいヤツみたいな症状になるって言ってたな……)  もっと間近で観察するため。上条はさらに顔を近づけていく。 「ひっ……え、えっと……」  美琴はパチパチと|瞬《まばた》きをした後、真剣な顔を近づけてくる上条に何かを察すると、やがてゆっくりと両目を閉じた。  それを見た|上条《かみじよう》は舌打ちし、慌てて右手を彼女のおでこに押し付ける。 「くっそ、そんなに苦しいのか、|御坂《みさか》!! 体温の上昇は……ちくしょう。なんか顔が真っ赤じゃねーか!!」  上条の叫びにハッとしたように、|美琴《みこと》は慌てて暴れ始めた。 「え、ええい! 赤くなってない赤くなってない! 別に熱なんて出てないわよ!!」  おや、と上条は顔を遠ざける。一般人はステイルより重い症状が出るらしい事を考えると、美琴はどうもポール|籠《かご》には触れていないようだ。  しかし、オリアナが仕掛けた単語帳のページ———|迎撃《げいげき》術式の位置は分かった。  上条は美琴の上から身を|退《ひ》きながら、周囲を見回して、 「|土御門《つちみかど》、こっちだ! 七本目のポール籠に———ッ!!」  叫びかけた所で、ふと彼の|台詞《せりふ》が中断される。  見たからだ。  七本目のポール籠の支柱にセロハンテープで|貼《は》り付けられた厚紙。そこには『|野義《のぎ》中学校備品』と書かれているだけだった。  土御門は、このポール籠はよそからの借り物ではないか、と言っていた。  これは紛失しないようにするための、名札のようなものなのだ。 (違った!? じゃあ、本物の『|速記原典《シヨートハンド》』はどこに!!)  上条は慌てて周囲を見回す。  その時、ピッ! と笛の音が|響《ひび》き渡った。校内放送のスピーカーから、それまで流れていた競技用の行進曲がピタリと止まる。  直後。  ガシッ、と。八本目のポールを[#「八本目のポールを」に傍点]、横合いから掴む手があった[#「横合いから掴む手があった」に傍点]。 「まったく。上条|当麻《とうま》、貴様はここで何をしているの?」  問いかける声。 「訳は後で聞くとして、今は大人しく向こうへ行ってなさい。競技は一度仕切り直しになるみたい。これだけ多くの籠が倒れたら公平に進めるのは不可能だし」  運営委員の|吹寄制理《ふきよせせいり》が、|怪認《けげん》そうな顔でこちらを見ている。  体操服の上から|薄《うす》いパーカーを羽織っている少女。 「聞こえていない? これ以上あたしにカルシウムを食べさせる気?」  しかし、上条は彼女の姿を見ていない。彼女の声を聞いていない。  吹寄制理の手元。  ポール籠の金属の支柱と、彼女の柔らかい|掌《てのひら》の|隙問《すむま》に、一枚の厚紙が挟まっている[#「一枚の厚紙が挟まっている」に傍点]。  セロハンテープで留められた厚紙。  上条は、七本目のポールと同じく、単なる名札のようなものだと信じたかったが。  そこには青い文字で、何かの英文が筆記体で書かれているように見えた[#「何かの英文が筆記体で書かれているように見えた」に傍点]。  バギン!! という異音が|炸裂《さくれつ》する。  ぐらり、と|吹寄《ふきよせ》の体が斜めに揺らいだ。 「ふ……」  彼女の手が、力なく支柱から離れていく。握り込んでいた位置には、青い筆記体で『Wind Symbol』とだけ記されている。 「吹寄ェぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」  |上条《かみじよう》は思わず叫ぶが、返ってくる言葉はない。  吹寄は、そのまま支柱から遠ざかる形で、地面に倒れた。どさり、と。あまりにも力の加わっていない倒れ方だった。横倒しになったまま、手足は投げ出され、動かない。ぐにゃりとした皮袋を連想させるような光景だ。  バキバキミシミシと、吹寄の周囲で空気が|軋《きし》むような音が聞こえる。 「な、なに?」  |美琴《みこと》が|怪謁《けげん》そうな声を出す。が、選手の中で異常に気づいているのは美琴だけだろう。|他《ほか》の生徒|達《たち》も多少は不審そうな顔をしているものの、まさかこれが|魔術《まじゆつ》などという|得体《えたい》の知れない|攻撃《こうげき》とは考えないだろう。元々、様々な能力が入り混じる競技場なのだ。多少不思議な現象が起きた所で、それを異常だと思うはずがない。  その時、ようやく|土御門《つちみかど》が上条の元まで走ってきた。 「(……カミやん、吹寄を|叩《たた》け! 彼女は|魔術師《まじゆつし》じゃない。これ以上は身が|保《も》たないぞ!!)」  声に、上条はようやく我に返る。倒れた吹寄|制理《せいり》の元へ駆け寄り、彼女の身を起こす手伝いをするような姿勢で、右手を吹寄の背中に回す。  バシュッ、と。空気が抜けるような、小さな音が|響《ひび》く。  それでも。  それでも、吹寄制理の体に力が戻らない[#「吹寄制理の体に力が戻らない」に傍点]。 「くそっ……」  理屈では分かる。ステイル=マグヌスと吹寄制理では、魔術に対抗する力に違いがある。プロであるステイルでさえ、あれだけの威力を受けたのだ。ただの|素人《しろうと》である吹寄が、何の準備もなく攻撃を受ければ一体どういう結果を招くのか、|誰《だれ》にだって想像はできる。  しかし。  どう考えた所で、|何故《なぜ》、と思ってしまうのは止められない。 「土御門!!」 「冷静になれカミやん。こいつは生命力の空転によって体に過負荷がかかっているだけ———重度の日射病と同じだって言っただろう。救護室……じゃ|駄目《だめ》か。救急車でも呼べば、今ならまだ何とかなるかもしれない。少なくとも、この炎天下で寝かしておくよりはずっと良い」  彼は落ち着いて対処法を告げる。  けれど、その|台詞《せりふ》には断定がない。プロがプロであるが|故《ゆえ》に、根拠のない楽観を抱かせるような言葉は口にできないとでも告げるように。  校庭の端に建てられたテントから、バタバタと何人もの運営委員が走ってくるのが分かる。トラブルの|匂《にむ》いを|嗅《か》ぎつけたのか、教員の姿もチラホラと見える。彼らの目には、突然倒れた女子生徒を、どう介抱して良いのか迷っているように映ったのだろう。運営委員や教員はあっという間に|上条《かみじよう》の手から|吹寄《ふさよせ》の体を奪い取ると、すぐにどこかへ連絡を始めた。  一人だけ取り残された上条|当麻《とうま》は、ゆっくりと立ち上がる。  彼は、ただ|俯《うつむ》いたまま、  しかし、恐るべき速度で|拳《こぶし》を真横に突き出した。ゴォン!! という金属音が|響《ひび》き、支柱に|貼《は》り付けてあったオリアナのページがビリビリと|震《ふる》える。|美琴《みこと》が|驚《おどろ》いた顔で上条を見るが、彼はそれにも気づかない。右手の|一撃《いちげき》を受けたページから、浮かび上がっていた文字が溶けるように消えていく。 「上等だ、オリアナ=トムソン……」  震える唇を、ゆっくりと動かし、 「これがテメェのやり方だって言うなら。無関係な人間をさんざん巻き込んだ挙げ句に、それを眺めて何も感じないって言うなら———」  伏せていた顔を上げ、正面を見据えて、 「———テメェのふざけた幻想は、|俺《おれ》がこの手で跡形も残さずぶち殺してやる」  一言で、宣言した。 [#改ページ]    行間 二  苦しい、と。  |吹寄制理《ふきよせせいり》は、|朦朧《もうろう》とした意識の中で、そう思った。  自分が今、担架に寝かされた状態なのは分かる。救急車から下ろされ、病院の|緊急《きんきゆう》外来の出入りロへ向けて運ばれているのも、何となく理解できる。  しかし、現実味がない。  上も下も、前後左右も判断できないような状態だった。ぐらぐらと揺れているのが担架のせいなのか、意識の問題なのかも区別がつかない。周りの大人|達《たち》が吹寄の意識レベルを確かめるように何かを叫んでいるが、その内容も|上手《うま》く聞き取れない。彼女の耳には、酔っ払いのろれつの回らない意味不明な声のようにしか、|捉《とら》えられない。その中で、『日射病』という言葉だけが不思議と耳に残った。  日射病。  学校の体育や全校集会などでは、それほど珍しくもない症状だ。だからこそ軽視されがちだが、その原因は急速な脱水症状であり、重度になれば死の危険すらもあるのだ。  吹寄にしても、別に日射病にかかるのは今日が初めてという訳ではない。だからこそ、今の自分が倒れた原因についても、何となくだが想像はできる。  しかし、ここまでの状況は経験した事がない。|普段《ふだん》は一定のラインで止まるはずの頭痛が、|留《とど》まる事なく深く深く進行していくような気がするのだ。 (……ぅ……)  吹寄は|大覇星祭《だいはせいさい》の運営委員として、簡単な応急処置のレクチャーを受けている。だからこそ、日射病が|侮《あなど》れないものである事を、普通の学生よりは多少実感できる。  何が悪かったのか、と彼女は思う。  水分は取っていたし、体の熱も適度に逃がしていた。疲労や寝不足、体調不良などの。要因もない。万全の準備を整えておいたのに、それを無視していきなりきた、という感じだった。 (だとすると……考えられるのは……)  緊張、だろうか。  そんなに肩に力が入っていたのだろうか、と吹寄は思う。  この手の心因的な問題は、当の本人には案外実感できないものだ。言われてみれば、という感覚で吹寄は考えを巡らせる。確かに、彼女が今日の今日まで準備してきたのは、|全《すべ》てこの日のためだ。ここで失敗しては何もかもが台無しになる。準備期間に|他《ほか》の運営委員の生徒達と一緒に笑って努力した事も、審判の手順を|一生懸命《いつしようけんめい》暗記したのも、帰り道に喫茶店ぞ皆と|一緒《いっしょ》に競枝スケジュールの確認を行ったのも、その|全《ずぺ》てが『失敗だった』の一言で塗り|潰《つぶ》されてしまう。だからこそ、彼女自身が気づいていないレベルで、|緊張《きんちよう》していたのかもしれないが。 (……|馬鹿《ばか》、みたいだ……)  勝手に|肩肘《かたひじ》を張って、勝手に倒れて、勝手に競技を台無しにして。こんなものは|白業自得《じこうじとく》だと、|吹寄《ふきよせ》は思う。もう十分に迷惑をかけたんだから、これ以上迷惑を増やさないように、さっさと|大覇星祭《だいはせいさい》から退場してしまうべきだ、とまで思う。  全部自分が悪いのだから。  なのに、  どうして、  あの少年は、あんなボロボロの顔で叫び声を放ったのだろう。  ただの日射病に対する反応ではなかった、と思う。  何か予想外の事が起きた、という表情だった。しかしそれは、あらかじめ想定していたトラブルの範囲を超えた、というニュアンスが含まれていた。突発的な事態に対するものというよりは、事前に防御していたのに、その抜け穴を突破された、という感覚に近い。  彼は何を知っていたのだろう?  彼は何を後悔していたのだろう?  知りたい、とは思う。だが、それ以上に、 (嫌、だな……)  吹寄|制理《せいり》は、わずかに唇を動かす。  いつも軽い調子で、何をやっても|真面目《まじめ》にならないような印象があった少年だが、あんな顔も浮かべられるのか、と吹寄は|驚《おどろ》いていた。  そして同時に、あの少年は、残る大覇星祭の日程を、ずっとあんな表情で過ごし続けるのかもしれない、という事実に、吹寄はほんのわずかに|眉《まゆ》をひそめた。 (……それは、すごく……嫌だな……)  別に|上条当麻《かみじようとうま》の事なんて好きでも嫌いでもない。  はっきり言えば、赤の他人だ。  だが、吹寄制理が今まで運営委員として大覇星祭の準備に取り掛かっていたのは、皆に楽しんでもらうためだ。そこに吹寄個人の好き嫌いなんて関係ない。まして、これだけのイベントの中、たった一人だけが|俯《うつむ》き続けるような状況など、絶対に作りたくはない。  自分が|関《かか》わったイベントなのだから。  今日の今日まで、一生懸命頑張ってきたのだから。  わがままだとは思うけど。  やっぱり、|誰《だれ》にとっても大成功であって欲しい。  ぼんやりと思う彼女を乗せた担架が、|緊急《きんきゆう》外来の出入り口をくぐって建物の中へと入った。 そこには白衣を着た医者が待っていた。カエルにそっくりの顔をしていて、思わず笑ってしまいそうになる。  カエルの医者は、見た目に反してものすごく素早い動きで指示を飛ばしていた。  |朦朧《もうろう》とする|吹寄《ふきよせ》には、その内容は聞き取れない。ズキズキと頭が痛む。思考の歯車が何個も外れてしまったように、考え事をまとめようとしてもポロポロと意識がこぼれていく。重度の日射病、という言葉だけが、グワングワンと|頭蓋骨《ずがいこつ》の内側を跳ね回っていた。急激な脱水症状によって引き起こされ、重度になれば循環器系に|悪影響《あくえいきよう》を及ぼし、体内の酸素や栄養素の配分パターンが崩れて全身の内臓が機能障害を起こし、最悪の場合は死に至る危険性がある、とも。  日射病は、その度合いによって危険度が大きく変わる症状だ。  そして重度に発展すると、まるでスイッチが切り替わったように、ショック症状という形で全身の各部が悲鳴をあげてしまう。  ガチガチと歯が鳴った。  死にたくない、と思う。  何がそんなに怖いのか、吹寄は自分自身でも正しく理解できていなかった。|襲《おそ》ってくる頭痛や全身の寒気が嫌なのか、これから自分がどうなってしまうか予測がつかないのが不安なのか。それらの整理すらできず、彼女の心はグチャグチャの感情に|苛《さいな》まれていく。  周囲の人々が何を言っているのか分からない。  自分の体がどれだけ深刻な状況になっているのかも判断できない。  だから、彼女はそれらを無視して、一言だけ問いを発した。 「……私は……助かる、の……?」  本当に声が出ているのか、唇が動いているかどうかも自信のない声。  対して、カエルの医者は指示出しの声を止めて、確かに吹寄の顔を|覗《のぞ》き込んだ。  朦朧とした意識の中、人の声など聞き取れないような状態なのに、医者の声は不思議と吹寄の耳に届いた。  彼はただ一言、担架に乗せられた少女にこう告げた。  絶対の|信頼《しんらい》を与える、|完壁《かんべき》なる笑みと共に。 「———僕を誰だと思っている?」 [#改ページ]    第四章 戦いの結末は勝利か否か Being_Unsettled.      1  自律バスの整備場の地面に、ステイル=マグヌスは座り込んでいた。  先程から定期的に、メンテ機械をメンテする[#「メンテ機械をメンテする」に傍点]技師|達《たち》が行き来しているが、ステイルの位置はちょうど死角となるらしく、|誰《だれ》も気づいている様子はない。いつもなら『|人払い《Opila》』のルーンでも使えば心配するような事はないのだが、今はそれも使えない。 (少し切り札を失った程度でこのザマか。僕も成長していないな……)  ステイルは、浅い息を吐く。  思えば、今年の七月末に、|上条当麻《かみじようとうま》に『|魔女狩りの王《イノナンテイウス》』を攻略された時もそうだった。ステイルは自分の切り札を奪われると途端に弱くなる。その後、反省を生かすように努力はしてきたが、それらは|蜃気楼《しんきろう》による|回避《かいひ》術式の考案や、ルーンのカードをラミネート加工するなど、基本的に『切り札を奪われないようにする』ための方策であり、もっと根本的な部分での努力は怠ってきたような気がする。 (これだけの|醜態《しゆうたい》をさらして、僕はあの子を守れるのか……? もしも今回の敵の|狙《ねら》いがあの子だったら、どうするつもりだったんだ。この|三下《さんした》が……)  と、彼の思考を断ち切るように、携帯電話が|震《ふる》え出した。  ステイルは胸の所から携帯電話を取り出し、通話ボタンを押す。相手は|土御門《つちみかど》だ。 『カミやんがオリアナの「|速記原典《シヨートハンド》」を|破壊《はかい》した。なんか体調に変化はあるかにゃー?』 「言われた所で、実感はないが……」  ステイルは恐る恐る、ルーンのカードを一枚取り出す。一度深呼吸し、呼吸を止め、さらに深呼吸してから、口の中で小さく何かを唱える。  ボツ、と。小さな音と共に、人差し指の先にオレンジ色の炎が|点《とも》った。  全身に|襲《おそ》いかかる拒絶反応のような、例の|迎撃《げいげき》術式の気配は……ない。 「……いける。問題はなさそうだね」 『そうか。なら、「|理派四陣《りはしじん》」の探索術式を|頼《たの》むぜい。折り紙と|魔法陣《まほうじん》の配置は事前にオレが用意しておいたはずだけど、使い方は分かるな?』  みくびるなよ、とステイルは答える。  彼の足元には、土御門が描いた円と四方を固める折り紙、中心にはオリアナが残した厚紙のページがある。この|陰陽《おんみよう》を用いた配置方式そのものは理解できないが、間借りした術式の起動ぐらいなら難しくもない。 「しかし、そちらは|大丈夫《だいじようぶ》なのかい? 確か、オリアナの|迎撃《げいげき》術式は競技場の真ん中に設置されていたと言っただろう。|潜《もぐ》り込んでいるとしたら、競技が終わるまでは不用意に抜け出せないんじゃないのか?」  競技中に侵入するのも難しければ、脱出するのも困難だろう。一人二人がこそこそと校庭の外に向かえば、いやでも注目を浴びるはずだ。  が、|土御門《つちみかど》は気軽に言う。 『それなら問題ないにゃー。オレ|達《たち》はもう競技場の外に出てるぜい』 「……、どうやって?」 『オレ達の目の前で、生徒が一人やられちまった。そいつは重度の日射病って事で病院に運び込まれてる。オレ達は意識を失ったそいつを介抱し、競技場の外へ運ぶふりをしながら退場レたって訳だ』  声が、いつものふざけた調子ではなかった。  |魔術師《まじゆつし》の声だと、ステイルは思う。  そうか、と彼は告げて、 「|上条当麻《かみじようとうま》は、荒れているか?」 『分かっているなら|頼《たの》むぜい。そろそろこっちも反撃に出たい。じゃねーと、倒れちまった生徒さんに申し訳が立たないにゃー』  土御門は通話を切った。  ふむ、とステイルは携帯電話を|懐《ふところ》に戻しながらも、 (|誰《だれ》だって、|完壁《かんぺさ》な訳じゃない。かつて僕を倒した上条当麻でも、やはり失敗する事はある)  しかし、と彼は続けて、 「———だからこそ、自分の未熟を悔いている、か」  それは、目の前で誰かを救えなかった上条当麻自身が、一番自覚している事だろう。だからこそ、ステイルはそれ以上は何も言わない。彼はただ|黙《だま》って、己の|為《な》すべき事をする。彼自身は自覚していないが、まるでこれ以上の負担を与えないようにしているかのごとく。  四枚の折り紙が回転を始め、「|理派四陣《りはしじん》』の|魔法陣《まほうじん》が起動した。  オリアナ=トムソンの居場所を探る術式が。      2  人の行き交う大通りの真ん中で、オリアナは電光掲示板を見上げていた。  多くの人々は、画面の中で展開されている出来事に気を配ってもいない。いたとしても、急病人が出たため競技が一時中断された事に、ほんの少しの興味を抱いているだけだ。無理もない。ただ急病人が一人出た、というだけのニュースなのだから、話題性も乏しいだろう。  あくまでも[#「あくまでも」に傍点]、表面上は[#「表面上は」に傍点]。 「……、これは」  白い布を巻かれた、看板のような物を|脇《わき》に挟みながら、彼女は静かに|眩《つぶや》く。第ニボタンしか留めていない、へそも出ている作業服姿が、|緊張《らんちよう》の感情を全身で表現する。 「予想外の展開、かな」  言って、しかしオリアナは電光掲示板から目を離した。  彼女は歩き出す。  やるべき事がある、と、オリアナは脇に挟んだ物へ、手の指を食い込ませた。  |上条当麻《かみじようとうま》と|土御門元春《つちみかどもとはる》は、ほとんど人を突き飛ばすように歩道を走る。道行く人々が迷惑そうな目を向けてくるが、気にしている余裕などない。  土御門の携帯電話はスピーカー機能がオンになっていて、二人は同時にステイルの声を聞きながら道を走っている。 「オリアナ=トムソンの位置を確認した。第七学区・地下鉄の|二日駅《ふつかえき》近辺だ。もう少し時間があれば、もっと正確な場所を特定できる』 「二日駅!? 通り過ぎちまったぞ!」  上条は慌てて靴底を滑らせるようにブレーキをかけて、今まで走っていた方向へと引き返す。途中の道を横に曲がって、細い道へと飛び込んだ。  先程までは土御門が主導権を握っていた|追撃戦《ついげきせん》だが、ここにきて完全に上条へ移っていた。プロであるはずの土御門の方が振り回されつつある。 『北上……そう、北方向へ動いているみたいだ。道は……三本に分かれているが、どれかはまだ分からない。すぐに特定させる……』  声を聞き終える前に、上条と土御門は細い道を抜ける。歩道の隅に寄り添うように、地下鉄駅の下り階段入り口が見えた。彼らはそのまま北の道へと走って行く。 『三本の道は……今……今……出た。良いか………』 『一番右の道だ! 見つけた!!」」  上条が叫ぶと同時、二〇メートルぐらい前方を歩いていた金髪の女がグルリと振り返った。それから人の山をかき分けて走る二人組の姿を確認すると、慌てて脇道へ逃げていく。  上条と土御門もその後を追う。  脇道は短い。すぐに別の通りに出た。ただし、こちらは表通りと違って、きらびやかな感じがしない。小規模のテナントばかりが並ぶ一角で、そもそも客を歓迎している|雰囲気《ふんいき》すらない。通り全体に商店街のようなアーチ型のアーケードが備え付けられているが、単に日当たりを悪くしているようにしか見えなかった。  まだ昼前なのにどの店もシャッターが下りているのは、経営側も最初からこの一角は客の入りが悪い事を自覚しているからだろう。おそらくもっと人の多い、競技場近くに仮店舗を設けているはずだ。  通りは横一直線に、左右に伸びている。  作業服のオリアナ=トムソンは左の道を走っていた。|上条《かみじよう》と|土御門《つちみかど》は彼女を追い駆ける中、後ろからやってきた自律バスが彼らを追い抜いて行く。  何気なくその行き先を目で追った上条は、そこでギョッとした。オリアナの行く先に、バス停がある。 「マズイ……ッ!!」  オリアナは自律バスを停車させるために、バス停にある信号のボタンのような物を押している。果たして、自律バスは特に疑問も抱かずに、ゆっくりと動きを止めた。オリアナは開いた自動ドアから車内へと足を|踏《ふ》み入れていく。  |流石《さずが》に走るバスを足で追い駆けるのは難しい。別のバスに乗った所で『追跡』は難しいだうう。|大覇星祭《だいはせいさい》期間中は一般車両の乗り入れは禁止されているため、|他《ほか》の車を用意するのも困難だ。そもそも、上条には車を運転する技術もない。  自律バスは、あくまで定められたコマンドにしか応じない。  運転手がいるなら、バスの背後から両手を振って後を追えば、乗り遅れたのだと思って停車してくれるかもしれない。しかし、自律バスにそれを求めるのは荷が重過ぎる。  上条は慌てて走り出したが、両者の間には二〇メートルもの距離がある。上条がバス停に|辿《たど》り着く前に、自律バスはほとんど音も出さずに発車してしまった。 「くそっ!!」  ようやくバス停に辿り着いた上条は、自律バスを|停《と》めるためのボタンを押したが、もう遅い。走り出した車体は反応せず、ゆっくりと速度を上げつつある。  一足遅れてやってきた土御門は、遠ざかるバスを眺めて、 「なあカミやん。こっからじゃ良く見えないんだけど、あのバスの中ってオリアナの他に乗客いたかにゃー?」 「あん? そんなのどうだって良いだろ!」  あまりにのんびりした調子の土御門に対し、上条はイライラした声を出す。  すると、土御門は、 「良いから。割と重要な事だし」 「……、いなかった、気がする」 「気がする?」 「いなかったよ! ああ、言われてみれば他の乗客はいなかった! 多分、昼前にこの近くでやるリレーの予選A組を|観《み》るためにみんな降りたんだ。優勝候補が軒並み|揃《そろ》うから一日目の目玉になるとか、パンフレットにも紹介されてたしな。それがどうしたって!?」 「それなら安心だ。———ステイル」  |上条《かみじよう》にではなく、電話越しのステイルに話しかけ、 「前に、自律バスの整備場で、バスの壁面にルーンのカードを|貼《は》り付けてたな? それがまだ生きてるならオーダーを|頼《たの》む。車体番号5154457に貼り付けたカードを吹っ飛ばせ[#「車体番号5154457に貼り付けたカードを吹っ飛ばせ」に傍点]」  反応は迅速だった。  ゴン!! という爆発音。  ゆっくりと速度を上げる自律バスの車体側面から、勢い良く火が噴いた。一秒遅れて車体がさらに爆発し、車体後部が横滑りした。道路に対して真横を向いた自律バスは、勢いを失わずに横転。火ダルマとなった巨大な金属の塊が、地面をゴロゴロと跳ね回った。真上に噴き上げた炎の塊が、頭上のアーケードにぶつかって横へ広がっていく。  |土御門《つちみかど》は、二つ折りの携帯電話をパチンと片手で畳んで、 「効果は絶大……過ぎたかにゃー?」  困ったように苦笑した。  上条は|轟々《ごうごう》と燃えるバスを見て絶句する。確かにオリアナを止める、というのが上条|達《たち》の目 的だったはず。だ。が、これは単純に『止める』の範囲に当てはまるのか。  と、|上条《かみじよう》の様子を見て、何が言いたいのか悟ったらしい|土御門《つちみかど》は、 「いやいや。あ。れですよ? 本来はちょっと火を|点《つ》けて、自律バスの安全装置を作動させて車体を|停《と》めようと思ってたんだぜい。ちくしょう、電気力ーと思って油断してたにゃー、ありゃ電気の|他《ほか》にも天然ガスか何か使ってるハイブリッドカーだな」  特に|緊張《きんちよう》もなく、そう告げた。 「まぁ、あれだ。店の人間はみんな出稼ぎ中っぽいし、衛星や無人ヘリの目線はアーケードが|上手《うま》く|塞《ふかご》いでくれてる。デカイ|騒《さわ》ぎにゃなんないぜい」 「な、何で冷静なんだ! っつか消火器とかは!? 早く助けないとアイツ本当に死ぬぞ!!」 「ふうん。そりやどうかな[#「そりやどうかな」に傍点]?」  土御門の言葉と同時。  ギュルン!! と、燃え盛る火柱が渦を巻いた。まるで内側で発生した竜巻に吹き飛ばされるように、|膨大《ぼうだい》な火力が周囲に散って、跡形もなく消えてなくなる。  炎を吹き飛ばしたのは、水分をまとった風、『|霧《きり》』だ。見れば、ついさっきまで燃え盛っていた自律バスの|残骸《ざんがい》に、|薄《うす》い水の膜が張っていた。|夜露《よつゆ》で葉が|濡《ぬ》れるのと同じ理屈だろう。霧の風は、その場のあらゆる物体に、うっすらと水分のコーティングを|施《ほどこ》している。ただし、この水分は並の炎では蒸発しないものらしい。火種となる物を|全《すべ》て奪う形で、炎の行く手を|阻《はば》んで消火してしまっていた。  そして、霧の風の中心点には、一人の女。  自らが生み出した水分によって、髪も、顔も、作業服も、へそも、その全てをうっすら。と濡らした、オリアナ=トムソン。  彼女は右腕で看板のような物を|脇《わき》に挟み、左手に単語帳のような物を持ち、口にはその一ぺージを|咥《くわ》えている。青色の文字で書かれているのは『Wind Symbol』の文字。  オリアナは。喰えた一ページを横へ吐き捨てる。とろり、と|唾液《だえき》の糸がうっすらと引かれ、彼女はゆったりと笑う。 「うふふ。|魔力《まりよく》を使い意思を通した炎ならともかく、ただ物理的な燃焼だけではお姉さんを熱くする事はできないわね。もっとも、少々|焦《あせ》って濡らしちゃったけど。見てみる? 下着までびちゃびちゃだよ」  この|期《ご》に及んで、口から出てきたのは冗談だった。  その事実に、上条|当麻《とうま》はわずかに両目を細くした。ほんのわずかだが、確実に。 「……お前が仕掛けた術式で、全く関係のない人間が倒れたぞ。覚えてるか、お前と初めて会った時に、|俺《おれ》と一|緒《いつしよ》にいた女。お前の日には、アイツが|魔術《まじゆつ》と関係あるように見えたのかよ」 「この世に関係のない人間なんていないわ。その気になれば、人は|誰《だれ》とだって関係できるものよ?」 「分かっては……いるんだな。分かっていて、それでも反省する気はないんだな?」  |上条《かみじよう》の声は平たい。  その声を聞いて、オリアナは小さく|眉《まゆ》をひそめた。 「今さらどうこう言う気はないけど、あの子を傷つけるつもりがなかったのは本当だよ? お姉さんだって、一般人を傷つけるのはためらうもの。こういうのとは違って[#「こういうのとは違って」に傍点]」  言って、オリアナは単語帳の一ページを口で破った。  カキン、とグラスとグラスの縁をぶつけたような、|澄《す》んだ音が|響《ひび》く。 「が……ッ!!」  という声と共に、|土御門元春《つちみかどもとはる》の休が、くの字に折れ曲がった。|脇腹《わきばら》を片手で押さえる彼は、ガチガチと|震《ふる》えたままオリアナを|睨《にら》みつけている。 「土御門!!」  上条は慌てて駆け寄る。傷一が開いた様子はないが、土御門の顔は青白くなっている。やはり|怪我《けが》をしたまま動いていたダメージが体にきたのかもしれない。  それを見たオリアナはくすくすと笑い、 「あら。てっきり怪我を負っているのはあなたの方だと思ったんだけどね。使い道を誤ってしまったかしら」  彼女の唇には、単語帳の一ページがある。そこには青い筆記体で『Fire Symbol』とあった。  ぎちぎちと。  ぎちぎちと、土御門の体が少しずつ地面へ崩れていく。  オリアナはうっすらと笑って、 「多少は耐性があるようだけど……それだけでは、お姉さんの|手管《てくだ》には|敵《かな》わないわよ?」  告げた|瞬間《しゆんかん》、土御門の体が耐え切れなくなったように、地面に倒れ込んだ。その手足から、完全に力が失われている。 「何だ? お前、土御門に何をした!?」 「再生と回復の象徴である火属性を青の字で打ち消しただけ。音を媒介に耳の穴から体内へ|潜《もぐ》り、一定以上の怪我を負った人間を昏倒させる術式よ[#「一定以上の怪我を負った人間を昏倒させる術式よ」に傍点]。さっきの鈴の音が発動キーなんだけど……あなたはそれほどひどい傷はなかったようね」  上条は倒れた土御門の体を右手で|撫《な》でたが、何の効果もない。というより、消しても消しても即座に効果が復活しているようだ。こちらの術式は先程の|迎撃魔術《げいげきまじゅつ》と異なり、大本のページを|潰《つぶ》さなければ効果が消えないらしい。 (一定以上の傷を持っている人間を、例外なく|昏倒《こんとう》させる術式……)  となると、術式の条件の「つである『土御門の体についている傷』が完治しない限りは、何度でも昏倒の効果が発動し続けるのかもしれない。上条の|幻想殺し《イマジンブレイカー》も、土御門の体についた傷自体は治せないのだから、この方法では彼の自由は戻らない。  |上条《かみじよう》がオリアナを|睨《にら》むと、彼女は楽しそうな顔で、|昏倒《こんとう》の札を左手で|掴《つか》んだ。そしてそれを、風に乗せるように宙へと放り投げる、あっという開に、軽い単語帳のページは風に流され、オリアナの後方へと飛び去っていく。  上条の顔が、思わずカッと熱を持つ。 「テメェ!!」  だが、その怒りすら心地良さそうに、オリアナは全身を。|震《ふる》わせる。ぺろりと自分の舌で自分の唇を|潤《うるお》しつつ、 「彼を助けたければ、一刻も早くお姉さんを倒す事。さもなくば、お姉さんが良いと言うまで彼はずーっとお預けよ? そもそも、それまで彼は長持ちするかしら。案外短い方だったりして、ね?」  カチカチカチカチ、と上条の歯が嶋った。  怒りで、震えた、 「何で、だよ」  上条|当麻《とうま》は、ほとんど詰まらせるように言葉を|紡《つむ》ぐ。  |土御門元春《つちみかどもとはる》だって、  問題が何も起きなければ、スパイという仕事を忘れて|大覇星祭《だいはせいさい》の方に向かっていただろう。仕事なんて入らなければ、みんなと一|緒《いつしよ》に楽しく|騒《さわ》いでいられたはずなのに。  ステイル=マグヌスだって、  オリアナがこんな事件を起こさなければ、戦いの準備なんてする必要もなかった。学園都市に来る事もなかっただろうし、仮に来たとしても、彼だって久しぶりにかつての同僚であるインデックスの顔を見ていたかもしれない。  そして、|吹寄制理《ふきよせせいり》だって、  彼女が何を望んで大覇星祭の運営委員になったかなんて、上条は知らない。でも、|誰《だれ》かに押し付けられたものではなく、自分から進んで運営委員になったのなら、きっと何か目的があったはずだ。  プロの|魔術師《まじゆつし》にしてみれば、ほんの|些細《ささい》なものかもしれない。  世界を揺るがす『|刺突杭剣《スタブソード》』に比べれば、なんて事はないのかもしれない。 「『|刺突杭剣《スタブソード》』なんて物の価値は知らない。それがどれだけ歴史を大きく変えられるのか、世界をどういう風に動かしていけるのかなんて、きっと|俺《おれ》には正しく実感できてない」  上条は、告げる。 「だけど、これだけは分かる。そんなくだらない物のために、誰かが傷つくなんて間違ってる。『|刺突杭剣《スタブソード》』ってのが、こんなクソつまらない結果しか生まないような道具なら、俺はそいつをこの手で砕いてぶっ|壊《こわ》してやる!!」  言葉に対して、オリアナ=トムソンはうっすらと笑った。聞く意味もないどころか、聞けば聞くだけ|馬鹿馬鹿《ばかばか》しくて笑ってしまうとでも言うように。巻き込まれた人|達《たら》の価値など、その程度のものでしかないとでも断言するように。  そうして、彼女は告げた。 「仕事だから仕方がなかった、と言うのが格好良さそうだけど、それだと|依頼主《いらいぬし》に対して不誠実よね」  まったくもって、重みの|欠片《かけら》もない声で、 「仕事の目的はともかくとして、どういう経緯で達成するかはお姉さんに任されている訳だし」  |上条《かみじよう》の体内で、|歪《ゆが》んだ熱が暴走する。、  |噛《カ》み|締《し》めた奥歯が、そのまま砕けてしまいそうになる。 「人の、命で 」  彼は、右の|拳《こぶし》を硬く握り締めて、  自分自身の『敵』を見据えて、 「———遊んでんじゃねェえええええええええええええ!!」  |真《ま》っ|直《す》ぐに、突っ込んだ。  オリアナ=トムソンは上条|当麻《とうま》の姿を見て、笑い続けていた。  やはり、楽しそうに。      3  上条とオリアナの距離は、わずか一〇メートルもない。  しかし、上条の拳が彼女に届く事はなかった。  オリアナの左手が動き、単語帳の一ページを口で唖えて破るだけの仕草。  その一ページに記された文字は緑色の『Wind Symbol』。  直後、オリアナと上条の問を遮るように、厚さ五〇センチもの氷の壁が道路一面に広がった。透明な氷を通して、上条とオリアナの視線が|交錯《こうさく》する。高さ三メートルに届く大壁に、しかし上条は無視して右拳を|叩《たた》き込んだ。  バン!! というガラスの砕けるような音。  まるで火薬を内部に仕込んでおいたように、氷の壁は一|撃《いちげき》で粉砕される。  だが、その先にオリアナの姿はない。  砕けた氷と一|緒《いつしよ》に、その姿がバラバラと崩れていく。まるで、ステンドグラスに描かれた肖像が砕けるように。上条は息を|呑《の》み、次に目の前で一体何が起こったのかを考え、 (氷の、役目は———)  ゾクリ、という|悪寒《おかん》と共に、 (———光りの[#「光りの」に傍点]、屈折か[#「屈折か」に傍点]!?)  真横から|風斬《かぜお》り音が|炸裂《さくれつ》した。|上条《かみじよう》は振り返りざまにそちらへ右手を振り回す。|襲《おそ》いかかる風の刃が、圧縮から解放されて風船のように|弾《はじ》け飛ぶ。真正面から吹き付ける突風に彼がほんのわずかに両目を細めた所で、  ザリッ、と。  |頬《ほお》の|皮膚《ひふ》が、強く引っ張られて切れるような感触がした。  ザックリと切れた頬から、痛みより先にドロリとした液体が|温《あふ》れてくる。 「あむ。なかなか刺激的な切れ味でしょう?」  見れば、オリアナはさらに単語帳を口で破って術式を発動させていた。飛来した|極薄《ごくうす》の石刃が、上条の頬を深く切っていたのだ。 「んふふ。初めて握手した時も感じたんだけど、学園都市って随分と珍しい子を集めているのね」  女の声は、上条の右手を指して告げたものか。  が、彼はそれに答えるどころではない。  傷の大きさは、指で触れて確かめなくても分かるレベルのもので。  オリアナは、 一定以上の傷があるだけで[#「一定以上の傷があるだけで」に傍点]、ページが放つ音を耳にした相手を確実に昏倒させる術式を保有している[#「ページが放つ音を耳にした相手を確実に昏倒させる術式を保有している」に傍点]! (ま、ず……ッ!!)  上条はゾッという|悪寒《おかん》と共に思わず両耳を押さえた。  対して、オリアナはさらに新しいページを口で|哩《くわ》えると、 「お次は影の剣。飽きさせないわよ?」  破り、彼女が左手を振るうと同時、その手から|闇《やみ》の剣が出現した。伸縮自在の剣は一気に七メートルも長さを増すと、地面に伸びた上条の影に突き刺さる。|瞬間《しゆんかん》、  ゴッ!! と、足元の影が爆発した。  まるで地雷でも|踏《ふ》みつけたように、上条の体が勢い良く宙に投げ出される。彼は空中で竹とんぼのように回転しながらも、何とか受身の|真似事《まねごと》をしながら地面に落ちる。  アスファルトに削られた腕の皮膚がじくじくと痛むが、それよりも、 (何だ? 何で|土御門《つちみかど》にやったのと同じ|昏倒攻撃《こんとうこうげき》が来ない!?)  助かった、というよりも、敵の意図が読めない困惑の方が大きい。確実に相手を仕留める切り札があるなら、それを見逃す意味はないはずだ。  と、絶対優位のはずのオリアナは、さらに上条から距離を取るように後方へ跳ぶ。  訳が分からない顔をする上条を見て、オリアナは小さく笑い、 「んふ。お姉さんは一度使った術式を何度も使う|趣味《しゆみ》はないの」告白は、つまり余裕の|証《あかし》であるかのような表情で、「五大元素なんて、近代西洋|魔術《まじゆつ》では基本の基本よ。|錬金《れんきん》の視点で自然を学べば|誰《だれ》でも取得できる、単なる|前戯《ぜんぎ》に過ぎないのよん。扱いは簡単で応用もしやすいけれど、逆に言えば|攻撃《こうげき》を読まれやすく、防護の術式も逆算しやすいの。これだけで本番やっちゃうと、単調にならないかってちょっと不安よね? だからこそお姉さんは、飽きが来ないようにたくさんの手札を用意して、使い捨てるために作った魔道書[#「魔道書」に傍点]は日めくりカレンダーみたいに破り捨てないといけないって、わ・け♪」  |上条《かみじよう》はオリアナの言葉を無視して、「気に距離を詰めようとした。  対して、彼女は単語帳の一ページを口で破るのみ。  直後、上条の真後ろから突瓜が吹いた。背中を押される形で走る勢いを無理矢理に倍加され、足がもつれた上条は前のめりに倒れていく。と、そこへ逆に距離を詰めたオリアナが、|右脇《みぎわき》に挟んだ巨大な看板を跳ね上げる事で、上条の|顎《あご》へ強烈なアッパーカットを|繰《く》り出した。  ゴン!! という|轟音《ごうおん》。  前へ倒れかけた上条が、|衝撃《しようげき》を受けて後ろヘブリッジを描き直す。さらにオリアナは看板の位潰を調節し、上条の腹のど真ん中に看板の角が当たるように、思い切り突き入れる。  鈍い音と共に、くの字に体を折り曲げたまま、上条が後方へ|薙《な》ぎ倒された。 「ぎ……ァ……ッ!!」  脳と呼吸の働きを同時に阻害され、上条は上下の感覚すらも分からなくなる。東西南北がグルグルと回るような感覚の下、何とか地面に手をついて起き上がろうとしたが、 「あぐ」  と、そこでオリアナが単語帳のページを破った。 「だらしがないわね。今のは前戯だっていうのに、もう足腰がダメになってしまったの?」  何かの力が発動し、上条の背中と地面の間で、水蒸気のようなものが爆発した。さらに宙へ飛ばされた上条は、もう受身も取れずに、ゴロゴロと路上を転がる事しかできない。  上条はほとんど停止寸前に追い込まれた意識を総動員し、目の前で起きている事態について少。しでも思考を巡らせようとする。 「っつ」  その思考すらも、痛みに寸。断されそうになる。体のあちこちから噴出する激痛に、上条は必死。て歯を食いしばった。 「ち。くしょう……どうして?」  思考を巡らせる。浮かんできたのは疑問だった。 「……一度使った|魔術《まじゆつ》は二度と使わないってのに、何でそんなに組み合わせパターンが多いんだ……」  四大だか五大だか知らないが、ようは色と名前の二つを掛け合わせているだけだ。この状況でバンバン魔術を使っていたら、あっという間に組み合わせパターンが尽きると思うのだが。 「うふふ。組み合わせているのはそれだけではないのよ。よおくお姉さんを見れば分かるでしように、ね?」  オリアナは左手の単語帳を、自らのロへ持っていく。 「!」  |上条《かみじよう》は思わず身構えたが、|上手《うま》く力が全身に伝わらない。しかしモタモタしている少年を見て、オリアナは|攻撃《こうげき》も加えずに、ぺろりと単語帳の厚紙を舌で湿らせた。長方形の、短い縦辺から、角、さらに長い横辺へと。  上条はぼんやりとそれを眺めていたが、やがて、 「……角度[#「角度」に傍点]? 厚紙を、|唖《くわ》えた時の、角度も関係してるってのか……?」 「むふ。それも要素の一つ、西洋占星術の基礎ね。 |〇度から九度《コンユンクテイオ》、|一七一度から一八九度《オポシテイオ》、|八一度から九九度《クワルトウス》、|一一一度から一二九度《トリヌス》、|五四度から六六度《セクストウス》、|〇度から一度《パラレル》、その他色々な|座相法則《アスペクト》。『星座と惑星の関係はその角度によって役割を変える』っていう理論ね。星と色と元素の関連性についても講義が必要かな?」  オリアナはニヤニヤと笑う。 「もっとも、お姉さんの術式はべージ数の数秘的分解も取り入れているから、厳密な意味で同じ|魔術《まじゆつ》は二度も使えない。過ぎた過去を|繰《く》り返せないように、一度めくったページは二度とは返らないものなのだから」  わずかに湿った単語帳のページの角で、自分の上の唇をなぞりながら、 「これが溢姉さんの限界。精 杯頑張って|魔道書《まどうしよ》を書いても『原典』は安定してくれずに暴走と自滅を繰り返し[#「安定してくれずに暴走と自滅を繰り返し」に傍点]、それどころかあまりに文章が汚くて誰にも理解してもらえなかった[#「それどころかあまりに文章が汚くて誰にも理解してもらえなかった」に傍点]、魔術師としても|魔導師《まどうし》としてもハンパな人間の実力よ」  オリアナは、うっすらと目を細める。 「しかし、|故《ゆえ》にお姉さんは常に魔道書を書く手を止めず、新たな術式を生み続けているの。お姉さんの記したハンパな原典は、一冊一冊がせいぜい|保《も》って一時間、早ければ数秒で自己消滅してしまうと知っていてもね。立ち止まり、そこで妥協すれば迷わず負けると自覚しているからこそ、お姉さんは永遠に上へ進むのよん。———初心忘るべからず、ってね」  告げて、オリアナは湿らせていた厚紙を横に|噛《か》む、  しかし、ページを破らない。  厚紙を舌に乗せたまま、口を大きく動かさず、くぐもったような声で、告げる。 「次に放つは赤色で描く風の象徴、角度にしてジャスト〇度のコンユンクティオ、総ページ数にして五七七枚目の使い捨て魔道書、「|明色の切断斧《プレードクレーター》』。一応宣言しておくわね」  彼女はそこで一度言葉を切って、 「あなた、そこから動けば死ぬわ」  一言で、宣言した。 「そして動かなければ、次の一手であなたは必ず降参する羽目になる。子供じゃないんだから、どちらを選ぶべきかぐらいは、自分で決めてちょうだいね」  ———オリアナは厚紙を|咥《くわ》え、横に引く。単語帳をまとめている金属のリングから切り離された一ページに、赤い筆記体で流れるように『Wind Symbol』と記されていく。 (……、)  |上条《かみじよう》は、地面に手をついて起き上がろうとする。ふらふらとバランスを失った体はすぐには言う事を聞かず、|片膝《かたひざ》を地面につかせるのがやっとだ。周囲に人がいなくて良かった、と彼は思う。こんな所を見られたら間違いなく|脳《さわ》ぎに発展する。 (動くな、か)  ———オリアナの言葉を思い出すと同時、地面に何かが走った。オリアナを中心にして半径一メートルほどの円が描かれ、さらにその円から外周へ木の枝のような文様が無数に駆け抜けていく。まるで、充血した眼球に毛細血管が浮かび上がるように。上条の立ち位置を追い抜き、路上にある自転車や置き看板、自動車などの下を|潜《くぐ》るように、倒れている|土御門《つちみかど》の一歩手前まで。 (動けば死ぬ)  ——ブゥン、と。地面に描かれた文様が、振動するような不気味な音を立て始める。  降参してしまえ、と上条の弱い心は訴えている。次に来るオリアナの|一撃《いちげさ》が具体的にどんな攻撃なのか予測がつかない。つまり対策が練れない。そして彼女は言った。次撃は無防備に受ければ心臓を止める程度の|破壊力《はかいりよく》は秘めている、と。 (動かなければ、次の一手が王手となる)  二つの選択を区切るという事は、後者は『殺さずに決着をつける』という意思表示だ。おそらく土御門のように|昏倒《こんとう》させられるだろうが、それだけ。オリアナはまた逃げるだけだし、その後はステイル辺りが追撃するだろう。上条が倒れた所で、即座に|全《すべ》ての決着がつく訳ではない。|素人《しろうと》一人が眠った所で、|誰《だれ》も責めない。現にプロの土御門さえも敗北するような状況なのだから、それ以上の働きをしろと言う方が間違っている。 (そんな、モンが、どうしたってんだ……)  だけど、上条は構わず右手を握り|締《し》めた。  強く、強く、|掌《てのひら》に|爪《つめ》が食い込むほどカを込めて、手首から先を一つの塊に変えるほどの意思を込めて。すくみそうになる足に、改めて命令を送り直して地面を|踏《ふ》み直す。  恐怖と、それに|抗《あらが》おうとする気持ちがグチャグチャに混ざった中、彼が思い浮かべるのは、(|大覇星祭《だいはせいさい》を成功させたいという気はないのか、って。そう尋ねてきた|吹寄《ふきよせ》の言葉は、全部無視しちまって良いってのかよ、この腰抜けが———ッ!!)  歯を食いしばり、己の気持ちを再確認する。 (——敵がプロの|魔術師《まじゆつし》だろうが、重要な取り引きがあろうが、そんなモン知った事か! アイツが自分で|大覇星祭《だいはせいさい》の運営委員になるって決めて、今日まで|一生懸命《いつしようけんめい》準備してきて、それを今この場で台無しにされそうになってんだぞ! このまま放って置くって言うのかよ!? それで満足できる訳がねえよなぁ|上条当麻《かみじようとうま》!!) 「お、ォォおおおおおおおおおおおおおおッ!!」  叫び、そして全身のバネを使って駆け出した。バランスを完全には取り戻せず、乱気流に|呑《の》まれた旅客機の中を走るような格好で、しかし確かに前へと。  同時、オリアナ=トムソンは口に|唾《くわ》えた厚紙を横合いへ吐き捨て、  直後、術式が完全に起動した。      4 『|明色の切断斧《プレードクレーター》』。  オリアナを中心とする地面の円から、四方八方へ、レンガ|敷《じ》きの壁面のように、充血した眼球の毛細血管のように、展開された巨大な文様に力が入る。  直後、真空の刃が吹き荒れた。  地面に描かれた無数の文様、その溝の|全《すぺ》てから真上に向かって、真逆のギロチンのように、刃のシャッターが駆け上がったのだ。|斬撃数《ざんげきずう》にして二〇八本。|蜘蛛《くも》の巣の形で展開される刃の世界は、そこに置かれた全ての物体を均等に切断する。 (……ッ! この、お|馬鹿《ばか》さん!!)  オリアナ=トムソンはわずかに|歯噛《はが》みする、  一見ランダムに見えて、実は上条の立ち位置には真空刃の噴射口が|避《さ》けるように設定しておいたというのに、彼は無視して前に出た。  本来、オリアナの目的は地面から伸びる真空刃のカーテンで上条を取り囲み、身動きの取れなくなった所で確実に|昏倒《こんとう》させる事だった。プロの魔術師である|土御門《つちみかど》を殺さなかったのと同様に、|無闇《むやみ》に死体を作るとオリアナの『仕事』に差し支えると判断しての行動だったが。  上条が前に出ると同時に、術式は起動した。  地面から噴き出した真空刃のギロチンが、無人となった安全地帯を逆に隔離する。数にして二〇八本もの真空刃が、文様の直上にあった置き看板や自転車などをズタズタに切断していく。  彼は自ら安全地帯から|締《し》め出される形で、刃の渦の中へと飛び込んだのだ。その先に待っている未来など、切断と鮮血と死滅以外にありえない。  が、 「!!」  上条の体は、切断されない。  地面に無数の|斬撃《ざんげき》噴出口が描かれ、真空刃が真上に噴き出し、二〇八のギロチンが周囲の空気を引き裂こうが———彼には一撃も加わらない。ランダムに描かれた斬撃の、ちょうどその集中が|薄《うす》れた所へ飛び込んだのだ。|上条《かみじよう》に|踏《ふ》み込まれた地点は、オリアナが用意したものとは別の安全地帯とも書える。偶然か、何らかの方法で安全地帯を読んだのか、オリアナには判断できなかったが、 (なら!!)  オリアナは待機していた術式を使用する。彼女が用意したものであろうがなかろうが、真空ギロチンを|避《さ》けられる場所は、その全てが刃のシャッターに取り囲まれた隔離地帯だ[#「その全てが刃のシャッターに取り囲まれた隔離地帯だ」に傍点]。さながら|蜂《はち》の巣の穴から穴へ移動したようなものに過ぎない。  彼は逃げられない。  そう思ったオリアナの予想は、またしても裏切られる[#「またしても裏切られる」に傍点]。 「おおオァ!!」  |吼《け》える上条が、目の前の真空刃へ思い切り|右拳《みぽこぶし》を突き入れた。自ら腕を輪切りにしてくれとでも言うような|無謀《むぽう》な行為に、しかし真空刃の方が粉々に砕け散る。それも目の前だけではない、オリアナを中心に展開される刃その|全《すべ》てが、だ。  ゴギン!! という破砕音は、一歩遅れて|響《ひび》いた。  その時には、すでに上条はさらに一歩先へ踏み込んでいる。  残りはおよそ三歩。それで距離はゼロまで縮む。 (何が……ッ!? この右手、まさかここまで……ッ!!)  目の前の状況を理解できないオリアナは、とにかく目の前の敵を倒す事に専念する。口に唖えた単語帳の一ページを|噛《か》み取り、そこに黄色い筆記体の命令文を書き示す。  一度限りの術式の名は『|昏睡の風《ドロップレスト》』。見た目は圧縮された風の|槍《やり》だが、直撃した者の意識を強制的に外界から内界へ向け直す効果を持っ。痛みも与えずに気絶させる攻撃といった所か。本来は真空刃に囲まれた標的を、刃の壁ごと貫いてやろうと考えていた訳だが、思わぬ展開になった。  が、予想外であっても、オリアナは迷わず放つ。 「|喰《く》ら———ッ!!」  最後まで叫ぶ前に、上条の|右拳《みぎこぶし》が『|昏睡の風《ドロップレスト》』の先端を|殴《なぐ》り飛ばす。粉々に砕けた風の槍は、意味もなく辺りへ飛び散り、空気の中へと消えて行った。 (な、んで……ッ!?〉  |驚愕《きようがく》が、さらに上条を一歩先へ進ませる。残りは二歩。理解不能な状況に混乱するオリアナは、目の前に敵がいてもまともに対処する方法を忘れてしまっている。 (どうして対処できるの!? たとえ特別な右手があったとして、ただの|素人《しろうと》にここまで読まれるなんて! 何か、何か判断するための材料があるに決まっている。それは……)  さらに一歩。残りも一歩。  |電撃的《でんげきてら》にオリアナの脳裏に答えが浮かぶ。 (そうか、私は[#「私は」に傍点]、同じ魔術を二度使わない[#「同じ魔術を二度使わない」に傍点]! という事は、一度攻撃を放った地点には、同じ方向から同じ攻撃がやってくる事はありえない! そこから答えを導いて……ッ!!)  オリアナ=トムソンは、一度使った|魔術《まじゆつ》は二度と使わない。  つまり、一度攻撃が来た所へは、同じ攻撃は絶対にやって来なくなる。  もちろん、炎の剣で攻撃したポイントへ、氷の弾丸を|叩《たた》き込む事はできる。しかし剣と弾では攻撃範囲が異なり、その違いから『穴』が生まれる。  |上条《かみじよう》は前回自分が攻撃されたポイントをなぞるように移動している。同じ攻撃が来ない、という事は、それ以外からやってくる攻撃だけを警戒すれば良いのだから、対処は楽だ。次の攻撃は必ずフェイントが来ます、絶対どこかに『抜け道』があります、と前もって教えられているようなものなのだから。 (ハッ。死角を殺すつもりで手札を|揃《そろ》え、対策を練られないように二度とは同じ術式を使わないと考えての行動だったのに……)  オリアナは、思わず口の端を|歪《ゆが》めてしまう。  それはいかなる種類の笑みなのか、彼女自身も分からないまま、しかし確実に笑った。 (……それが逆に死角を作り、対策を練るためのヒントになっていただなんて! ハハッ、|素敵《すてき》ね少年。お姉さんはそういう創意工夫が大好きよ!!)  |瞬間《しゆんかん》、両者が射程圏内に入る。  単語帳など使っている暇はない。右の|脇《わき》に挟んだ看板を上から下へ振り下ろす形で、オリアナは本気で上条|当麻《とうま》の頭頂部を|狙《ねら》う。  しかし。  上条当麻は、ぐるりと身をひねった。軸足を中心に、軸線を変えないまま、ほとんど横向きに体を変える。カシュン!! とわずかに鼻の先端を|掠《かす》める音が|響《ひび》くが、それだけだ。上条のすぐ横を通り過ぎた看板の角が、勢い良く路上のアスファルトに直撃する。 (……ッ!!)  オリアナ=トムソンは絶旬したまま、眼前を見る。  同時。ゼロ距離で、少年の|右拳《みぎこぶし》が発射された。 「オ、———」  上条は叫ぶように、肺に|溜《た》まった空気を|全《すべ》て吐き出し、 「———、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」  肉体の重さと速さを全て拳の一点に乗せて、オリアナ=トムソンの顔面の真ん中に突き刺した。インパクトの反動が、握った|拳《こぶし》から手首、|肘《ひじ》、肩へと次々と伝わっていき、  ガゴギン!! と。  壮絶な爆音と共に、オリアナの体が後ろへ吹っ飛んだ。  助走を含む運動エネルギー|全《すべ》てを浴びた彼女は、そのまま道路の上に落ちると、勢いを殺せずにゴロゴロと転がっていく。  ヒュンヒュン、という風音と共に、手放された看板が|上条《かみじよう》のすぐ横へと|墜落《ついらく》した。  上条は右手の指がほんのわずかに|痺《しび》れるのを感じながらも、 (やった……? これで、とりあえず『|刺突枕剣《スタブソード》』とかいう|魔術《まじゆつ》アイテムの取り引きは|潰《つぶ》せたのか……)  とりあえず、オリアナが抱えていた荷物はこちらにある。意識を失った|土御門《つちみかど》や、学園都市に|潜伏《せんぷく》している取り引き相手の心配は残るが、一番の危機は脱する事ができた、のだろうか? 「ふ」  と、考え事をしていた上条は、風に乗った笑い声を聞いた。  上条は慌てて視線を戻す。 「ふふ。乱暴なんだから。ボタン取れちゃった」  仰向けに倒れていたオリアナは、昼寝から覚めたような動きで、むくりと上半身を起こした。今まで看板を抱えていた右手で、前が開きそうになっている作業服の胸の辺りの布を押さえている。 (|効《き》いて……ない!? )  |愕然《がくぜん》とする上条だったが、対するオリアナはそれほど気に留めていないようで、 「うーん。別にお姉さんが筋肉ムキムキの|格闘《かくとう》レディという訳ではないわよ? あなたの移動は|真《ま》っ|直《す》ぐではなく、わずかに軌道がズレていた。体にはダメージが蓄積していたし、バランスも崩れ気味だったからインパクトも|完壁《かんべき》ではなかった、かな。そうね、|有《あ》り|体《てい》に言ってしまえば———」  一度だけ言葉を止めると、 「———|素人《しろうと》の握り拳にしては上出来でした、といった所かしら。ただ、|攻撃《こうげき》を見破られ、反撃される事にも慣れている[#「反撃される事にも慣れている」に傍点]お姉さんにはまだまだ欲求不満が募るレベルだけど」  断言して、彼女は左手の単語帳を口へ持っていく。  上条は身構えようとしたが、全身の|擦《す》り傷が一斉に痛みを訴え始める。それらが集まり、体の動きを|瞬闘的《しゆんかんてき》に止めてしまう。 「!!」  痛みに顔をしかめる上条を見て、オリアナは愉快そうな顔で単語帳の一ぺージを|噛《か》み破った。しかし、予想に反して攻撃は来ない。オリアナの周囲で風が吹いたかと思うと、次の瞬間、彼女の体が小型の竜巻に吹き上げられた。ものの一秒も|経《た》たずに、オリアナはアーケードの|天井《てんじよう》と雑居ビルの間にあるわずかな|隙間《すきま》をくぐって、建物の屋上へと|辿《たど》り着く。  彼女。が手放した看板は、|上条《かみじよう》の足元に落ちているのに。 『|刺突杭剣《スタブソード》』は、取り引きに使う重要な品であるはずなのに。  オリアナは麗上の縁に立ったまま、振り返りざまに単語帳を一枚、口で破って、 「それは、一度。そちらへ預けておくわ。ただし、ここでゲームが終わっただなんて思わないように。燃えてくるのはこれからよん」  ささやくような声は、しかし空気の伝導率でも操っているのか、鮮明に上条の耳に屑く。彼は地面にあ。る『|刺突杭剣《スタブソード》』と、屋上にいるオリアナを交互に見て、 「……何で?」  疑問を放った。小さな声だったが、やはりオリアナには届いているらしく、 「何で、とは?」 「『|刺突杭剣《スタブソード》』はこっちにあるんだぞ。テメェが追い詰められてた訳でもねえのに、どうしてそんな簡単に下がるんだ……?」  んふ、とオリアナは小さく笑って、 「|何故《なぜ》かしら、ね。それを考えるのも楽しみの一つじゃないかしら」  彼女は屋上の縁から、中央部へと跳んでいく。見上げる形になっている上条の、建物の死角へ移動するように。  アーケードの|天井《てんじよう》と建物の壁に切り取られたわずかなスリットから、完全にオリアナの姿が消えてしまう。 「待て! |土御門《つちみかど》にかかってる術式は———ッ!!」  上条はとっさに叫ぶが、オリアナの姿はもう見えない。アーケードの天井が完全に空を隠してしまっている。彼女は建物の中に入ったのかもしれないし、別のビルへと飛び移っているのかもしれない。ただ、姿なき声だけが、 「術式の効果は二〇分。後は自動的に切れるわよ。心配性の能力者さん♪」  それだけ答えて、|全《すべ》てが消えた。  上条は周囲を見回したが、もうオリアナの姿も声も、どこにも存在しなかった。      5  土御門|元春《もとはる》は、まだしばらくの間、目を覚まさないらしい。  上条はそのままオリアナの姿を追うかどうか迷ったが、結局この場に|留《とど》まった。倒れたままの土御門を放っておけないし、巨大な看板に偽装された『|刺突杭剣《スタブソード》』もある。これを抱えながら走っても速度は落ちるし、オリアナからの|逆襲《ぎやくしゆう》で奪い返されたら元も子もない。  そこで上条は、ステイルと連絡を取る事にした。  が、彼はステイルの携帯電話の番号を知らない。悪いと思いながらも、倒れている|土御門《つちみかど》のポケットから、彼の携帯電話を借りる事にした。着信履歴を使って通話ボタンを押す。  ステイルの意見は、単純明快だった。 『よし、なら「|刺突杭剣《スタブソード》」を|破壊《はかい》しろ。君の右手なら問題なくいけるはずだ。それで、リドヴイア=ロレンツェッティが計画していた取り引きを完全に|潰《つぶ》せるからね。僕は学園都市の警備状況に詳しくないが、バスが一台炎上したなら、その報告が入るかもしれない。|誰《だれ》かが急行してくる前に、さっさと終わらせてその場を離れるんだ』 「けど、簡単に|壊《こわ》しちまって|大丈夫《だいじようぶ》なのか? 怒ったオリアナ|達《たち》が学園都市を|攻撃《こうげさ》したりとかしないだろうな」 『それをすれば包囲されるのは彼女達の方だ。ここは学園都市であって、|魔術《まじゆつ》勢力からすれば敵地の真ん中だよ。冷静に取り引きを計画した人間なら、同じく冷静にその場から退くに決まっている。取り引き相手同士のいざこざも、まずは安全な場所に離れてから、というのが妥当な所だろうさ。魔術師にとって、この街はあまりにも危険すぎる』  学園都市が危険な場所、という解釈は、実際にそこに住んでいる|上条《かみじよう》からすれば、あんまり実感が|湧《わ》かない話だった。ともあれ、専門の人間がそう言っているのだから、上条はそちらに従う事にする。 「分かった。こっちは右手で『|刺突杭剣《スタブソード》』にケリをつける」 『早くしろ。こちらは今後の方針を、上と掛け合ってみる』  言って、ステイルは通話を切った。  「|頼《たの》む、ぐらいは言えんのかアイツは」  上条は携帯電話の通話を切って、ぐったりしている土御門のポケットへ戻した。あまりにも反応がないので少し寒気のようなものを感じるが、良く耳を|澄《す》ましてみると寝息のような規則的な呼吸音が聞き取れる。とりあえず、命に別状はないようだ。 「さて、と」  上条は一言告げて、地面に落ちている看板へと向き直る。  白い布でぐるぐる巻きにされた、長方形の大きな看板だ。おそらく縦横を『|刺突杭剣《スタブソード》』のサイズに合わせて、余った部分を別の素材で埋め合わせる形で、長方形を保っているのだろう。 いかに布で巻いた所で、剣のシルエットが|剥《む》き出しでは周囲の注目を浴びる羽目になるのだから。  |幻想殺し《イマジンプレイカー》の力を使えば、「|刺突杭剣《スタブソード》』は破壊できる、とは思う。まず上条は、白い布は取り外す事にした。確実に破壊できたかどうかを、この目で確かめておくためだ。  「く……ッ!何だこれ。結構……。硬いな」  元が業者の|梱包《こんぽう》を|真似《まね》ているためか、白い布はかなり頑丈に巻いてある。結び目は何だか難しい専門的な形をしていて、どう|解《ほど》けば良いのか想像もつかない。かと言って|紐《ひも》のような物ではないため、手で強引に|千切《ちぎ》る事もできない。|上条《かみじよロつ》は仕方なくグイグイと布地を引っ張った。しばらく続けていると、やがてきつく巻かれた布が|緩《ゆる》んでいくのを感じる。  一端が緩むと、巻きつけられた白い布全体が硬さを失ったようになった。上条は巻きつけられた布地をどんどん|剥《は》ぎ取っていく。何重にも巻かれたガードの向こうから、少しずつ少しずつ隠されていた物が|露《あらわ》になっていく。 (そういや、『|刺突杭剣《スタブソード》』ってどんな形をしてるんだ? )  上条はそんな事を思い、巻かれた布を外していく。  その先に、『|刺突杭剣《スタブソード》』は  なかった[#「なかった」に傍点]。 「は?」  上条は、思わず白い布を外していた手をピタリと止めていた。  ミイラ男のべールが剥がれるように、白い布の中から出てきた物。それは、ただの細く長い看板だった。学生が作ったような、手製の、|薄《うす》い鉄板にペンキを塗っただけの看板だ。溢そらくは|大覇星祭《だいはせいさい》期間中だけオープンされる、学生主導の屋台を飾るためのものだろう。|可愛《かわい》らしい丸文字で『アイスクリーム屋さん』とだけ描かれていた。  しかし。 「何だ……こりゃ?」  看板は、偽装のためのものではなかったのか。『|刺突杭剣《スタブソード》』をそのまま運べば学園都市の中で目立ち過ぎる。かと言ってこのサイズになれば安易にカバンに収めておくのも難しい。だからオリアナは塗装業者に扮して、『|刺突杭剣《スタブソード》』も看板に偽装して、上から自い布を巻いて、|誰《だれ》の目にも怪しまれないように工夫していたんじゃなかったのか。  なのに、彼女が持っていたのが、本当にただの看板だったなら。  最初の最初から、前提が崩れてしまう。 『|刺突杭剣《スタブソード》』はどこにあるのか。  オリアナは何のために上条|達《たち》の前に現れ、そして逃げて行ったのか。  ステイル=マグヌスや|土御門元春《つちみかビもとはる》が言っていた大前提は、本当に正しいのか。  そして、そもそも、  本当に、『|刺突杭剣《スタブソード》』の取り引きなんて行われるのか。 「どうなってる……?」  上条当麻は、|呆然《ぽうぜん》と|眩《つぶや》いた。  答えてくれる者はいない。プロの|魔術師《まじゆつし》である|土御門元春《つちみかどもとはろ》は|昏倒《こんとう》したままだし、仕掛け人であるオリアナ=トムソンもこの場にいない。  それでも、彼はもう一度言った。  全く同じ|台詞《せりふ》を。 「一体、何がどうなってるんだよ……ッ!?」 [#改ページ]    行間 三      1  オリアナ=トムソンは街を歩いていた。  彼女がいるのは大手デパートの近くに臨時で設営されているクロークセンターだ。|大覇星祭《だいはせいさい》期間中は爆弾テロでも恐れているのか、無人のコインロッカーはサービスを停止している。代わりに、ホテルのクロークのような『人の手で荷物のチェックと受け渡しをする』サービスを行っているらしい。  オリアナはプラスチックの番号札をカウンターの係員に渡した。若い女の係員は、塗装業者の人間が|何故《なぜ》クロークを利用しているのか、という顔をしたが、作業中には貴重品を預けておかないと財布がペンキまみれになる、と笑顔で言っただけで納得してくれたらしい。オリアナは|手提《てさ》げ型のバックを受け取ると、クロークセンターから離れる。  中に詰まっているのは財布ではなく、着替えだ。  看板がなくなった今、塗装業者というこの格好は、微妙に日立つ。元が仕事着であるため、何もしないでふらふらと街を散策していると不自然に映ってしまうのだ。その上、さっきの|戦闘《せんとう》で作業服の第ニボタンが外れていた。今は第一と第三ボタンを留めているが、元が大きい胸であるため、裂け目のように胸の肌色が見えてしまっている。 (……いろんな術式、使っちゃったかな。まったく、温存しておきたかったヤツも結構あったのだけどね)  豊富な術式を取り|揃《そろ》えている反面、一度使った|魔術《まじゆつ》は二度と使わない、という決まりに|縛《しば》られているオリアナは、常に先の事を考えて、ある程度の出し惜しみをしながら戦闘を行っている。しかし、今回は戦闘で二回、逃走で二回、それぞれ予定外の『大技』を使ってしまった。効果は絶大で会心の出来だったが|故《ゆえ》に、人生で二度と使えないとなると、|流石《さすが》に少し寂しさを感じる。 (それだけの敵に巡り合えた、って事なのかしらね。ま、とにもかくにも着替えてから対策を練りましょう)  さてどこで着替えようか、とオリアナは歩きながら考える。塗装業者というこの格好は、やはり建物に入るには少々目立つ。 (まあ、別にどこでも良いか)  適当に結論を導くと、オリアナは人の流れから外れる形で、|脇道《わきみち》に入った。そのまま適当に路地を進んで、人の姿がなくなった所で彼女は|手提《てさ》げのバッグを地面に落とす。どうやら本当にここで着替えをするつもりらしい。  着替える間に報告も済ませようという事で、オリアナは単語帳を口で破った。セロハンテープを貼ると、路地の壁に貼り付ける。  |薄汚《うすぎたな》い壁に、オレンジ色の横文字が走る。  オリアナの上司たるリドヴィア=ロレンツェッティの声を、同時|翻訳《ほんやく》して壁に表示させているのだ。 『報告は|緊急《きんきゆう》の? それにしても、毎回毎回異なる通信方式で連絡を入れられると、受けるこちらの苦労も増えてしまいますが』 「んふ。これはお姉さんのポリシーみたいなものだから、ちょっと|譲《ゆず》れはしないかな」  オリアナの声も、あちらで文字に変換されて表示されている事だろう。  言いながら、彼女は作業服の前を留めているボタンを外した。それだけで、バネに|弾《はじ》かれたように衣類が開く。元々、胸のサイズに合っていない服なのだ。 「とりあえず第一段階が終わったから、その連絡だけ。道中色々あったけど、とりあえず必要なチェックポイントは全部済ましてあるから安心してくださいな、とお姉さんは言っているのよん。観光気分であちこち歩いたし」  オリアナは|窮屈《きゆうくつ》な服の|締《し》め付けから解放されると、ほんのわずかに|安堵《あんど》の息を吐く。それからためらいもせず、一気に上着を脱いだ。下着はつけていないので上半身の脱衣はこれで終わりだ。 『色々というのは、どのような?』  前の文章が消滅し、新たな文字列が左から右へと流れていく。 「んん? まぁ、あれよ。男の子に顔面ぶん|殴《なぐ》られたり服のボタン|壊《こわ》されたりおっぱい見られそうになったりかしら。いや、あれはホントに見られたかもしれないわ」 「……。清貧純潔従順を掲げる修道女にも|拘《かか》わらず、そのあっけらかんとした態度は』  さらに別の文章。言葉と思考を同時に読み取って変換ミスを防ぐこの術式は、場合によっては|沈黙《ちんもく》も表示してしまう。 「あら何よその|侮蔑《ぶぺつ》。旧約のアダムとイブだって素っ裸に葉っぱ一枚で世界を放浪したじゃない。あんな世界規模の|蓋恥《しゆうち》プレイに比べれば全然大した事ではないと思うのだけど」 『……、』  続いてズボンに手をかけようとしていたオリアナは、ふと返事がない事に気づいた。延々と壁に沈黙の表示が流れ続けていく事に、彼女の|頬《ほお》からわずかに汗が伝う。 「って、あら? もしもし、もしもーし? もう、何をふてくされているのよ。ほらお姉さんもう聖書を|馬鹿《ばか》にしないから泣かなーい」 『別に、泣いてなどは。それより、ダメージの方は?』  |膨大《ぽうだい》な|沈黙《ちんもく》表示が消え、通常の短い文章が横書きで再開される。 「いや、それほどでも」  オリアナは言いながら、靴を脱いで、ベルトを|緩《ゆる》め、ファスナーを下ろし、元から少しお|尻《しリ》が見えているようなズボンの端に両手を掛けた所で、 「ない……とは、言い切れない、かな? ほっぺが腫れてるような感じはしないけど、ちょっとばかり|芯《しん》を打ち抜かれてしまったかもしれないわね……」  ふらり、と彼女の体がわずかに横に揺れた。  オリアナは眠気を覚ますように首を振ると、両手でズボンを下ろした。|流石《さすが》に、こちらは下着をつけている。足を片方ずつズボンから抜いていく時に、再びオリアナのバランスがわずかに揺らいだ。 『「計画の方に支障は?』 「そちらはないわね。断言してあげる。お姉さんに任せておきなさいって」  別に姿が見えている訳ではないが、オリアナは無理に笑ってそう答えた。下着一枚の格好で立ったまま上半身を折ると、足元にあるバッグのファスナーを開けて着替えを探る。妙にしなやかな動きをしていて、ぺたりと地面に|掌《てのひら》がついてしまうぐらい体が柔らかい。 「んふ。お姉さんの勝負着をここで使っちゃうわよん。|上手《うま》く作業服のイメージから抜けられると、仕事の方もやりやすいのだけれどね」  どれにしよっかなー、とオリアナはバッグの中をゴソゴソ|漁《あさ》る。開いたファスナーの奥に見える布地は、どれもこれも派手な物ばかりだ。  と、リドヴイアが不思議そうな文字列を表示してきた。 『着替えとは?』 「だからさっき言ったでしょう。ボタン取れておっぱい見られそうになったいやあれは絶対見られたって話。服が|壊《こわ》れたのでこのままの格好はまずいかな、というだけの事よ」 『……。だから、|何故《なぜ》そこまであっけらかんと』  性格性格、とオリアナは取り合わず、バッグの中から候補となる衣服を何着か取り出し、「後は逃げる時に看板回収するの忘れちゃって。手ぶらのまま作業服というのも、お姉さんは不自然かなと思ったから」 『……、あの、それは』 「ああ、そうよそう。看板は向こうに回収されてしまっているから」 『……、どういう……』 「多分、もう中身についてもバレてしまっているでしょうね。お姉さんがダミーの一品を持って街中を逃げ回っていたという事も」 『————、』 「ん、あら? あ、別に|大丈夫《ぽいじょうぶ》よ。『|刺突杭剣《スタブソード》』の話がバレた所で、取り引きそのものが左右されるような事態にはなっていないのだし。減点一では失格にはならない。そして、現実の戦いは競技とは違う。減点一を|上手《うま》く利用する事で勝利をもぎ取る事もできるものよ」  オリアナは下着一枚のまま、両手で|摘《つま》んだ上着を胸に当て、あれこれと色の組み合わせや|露出《ろしゆつ》の度合いなどを頭の中で計算しつつ、 「仕事はこなすわよ。この取り引きは|誰《だれ》にも|邪魔《じやま》させないし、誰にも邪魔はできない。この取り引きで皆が幸せになるというなら、なおさら、ね」  最後に一言。  彼女は空を見上げながら、そう告げた、  学園都市の空は平和ボケ過ぎるほど青く|澄《す》んでいて、時折空砲のような花火がポンポンと打ち上げられていた。      2 「やられたな」  学園都市のトップ・アレイスターとの会話を終えた後、様々な部署に指示を飛ばしていたイギリス清教|最大主教《アークビシヨツプ》・ローラ=スチュアートは、ため息をついた。あれからすでに数時間が経過していて、日本ではちょうど昼ぐらいの時間らしいが、あちらとロンドンではおよそ九時間もの時差がある。|聖《セント》ジョージ大聖堂を取り巻くのは、深夜の|闇《やみ》と静けさ、それから床を|這《は》うような冷気だけだ。  説教|壇《だん》の前に|椅子《いす》を置いて腰を掛け、身長の二倍以上もある長い金髪を床に垂らしていた彼女は。息を一つ吐くと両手を頭の後ろへと運んでいく。そのあまりにも長すぎる髪の根元を両手で|掴《つか》むと、|釣竿《つりざお》でもしならせるように大きく振った。蛇のように流れ、大きく波打つ髪の先端を上手く掴むと、片方の手で銀の髪留めを取り、それで髪を固定させる。あっという間に、二重に髪を折り返した、いつもの髪型に戻っていた。  一連の動作には手慣れたものがあり、ともすれば雑に見えるかもしれないが、しかしそこにあるのは洗練された美しさだ。特に月明かりを浴びた金髪がうねる様は、一種の官能さえ与えかねないほどの光の芸術と化している。  かつて一二使徒の一人であるヨハネは、女性の長い髪を禁じ、短く切ったり帽子の中に収める事をシスターに強要した。女性の長い髪は男を|誘惑《ゆうわく》し堕落させる要因となるからだ、というのがその理由だ。現代となっては|馬鹿馬鹿《ばかぽか》しく聞こえるかもしれない理屈だが……彼女の髪は、その考えを改めさせるに十分な|艶《つや》と輝きを放っている。 「|此処《ここ》に書かれし事は真実かしら?」  ローラは自分の|膝《ひざ》の上に置いていた書類を無造作に掴むと、ひらひらと振った。二〇枚ほどの用紙に書かれているのは、『|刺突杭剣《スタブソード》』についてまとめた、大英博物館の報告書だ。  無造作な動作だが、そこには確かな感情が込められている。  その名は怒りであり、温度は|極寒《ごつかん》だ。  独り言のように聞こえるローラの声に、一呼吸遅れて返事がやってくる。  中年男性の声だ。 「申し訳ありません。そちらから長年管理を任されてむきながら、今日の今日まで全く気づく事もできず、誤った展示を続けていたとは……」 「良い。それと|怖気《おじけ》を見せねども構わぬのよ。この感情はそちらへ向けたるものではないのだから。|寧《むし》ろ、かような時刻までご苦労だったと答えておくわ」  |灯《あか》りを落とされた大聖堂の奥———出入り口付近で、恐縮するように気配が小さくなるのをローラは察知する。まるでローラと同じ月明かりを浴びる事すら恐れ多いとでも言っているような姿だ。  彼はチャールズ=コンダー。  考古学の権威であると同時に、大英博物館の『保管員』でもある。  世界中を飛び回って博物品を集めてくる『調査員』とは異なり、博物館内の物品の管理と修復を任されている人間だ。軽く三〇〇〇年単位の歴史を誇る物品を、次の一〇〇〇年に語り継がせるために働くこの部署へ入るには、世界最高レベルでの『学者の頭』と『芸術家の腕』を要求される。チャールズの年齢は三〇代の後半に差し掛かっているが、それでもこの業界では『期待の新人』の域を出ていない。能力はあっても経験が認められていないレベルだ。  彼らの取り扱う物品の中には、|魔術的《まじゆつてき》な品も少なくない訳だが……大英博物館のスタッフ自体は、魔術とは何のゆかりもない一般人に過ぎず、それは館長であっても例外ではない。イギリス清教は神学・宗教・倫理の側面から展示物の取り扱いについて意見を求められる形で、間接的な支配を行っている。  大英博物館自体は世界的に有名過ぎるし、同時に一般雇用も|募《つの》っている。その中に、あからさまに怪しいオカルト部署などを用意すれば、あっという間に魔術の名が世間に広まってしまうだろうから、その対策だ。  チャールズも、イギリス清教が魔術に通じている事は知らない。自分が調査し報告書を書いた一品が魔術用品であ。る事にも気づいていない。彼がローラに尊敬を抱いているのはそんな実質的な「力』に対する|脅《おび》えではなく、単にそれだけ信心深いというだけの話だ。 「して、コンダー。折り入りてそちに尋ねたき事があるの……」  はい、と|闇《やみ》の向こうで返事があった。  即答ではなく、静寂というリズムを一拍置いた上での返答。その場の空気を的確に読める人間だけが行える、絶妙のタイミングと言える。  ふむ、とローラは満足そうに正面の暗闇を眺め、 「……コンダー。私の言葉遣いを聞きて、こっそり笑いたる事はないでしょうね?」 「は?」 「それを隠したるために、わざわざ|闇《やみ》に|潜《ひそ》みておるのではないでしょうね?」 「い、いえ、決してそのような事は……」 「なれば声が。|震《ふる》えておるのは|何故《なぜ》かしらね、このうつけ! ええい、どいつもこいつも人の言葉遣いを|愚弄《ぐろう》しおってなのよ! 大体、|其《そ》れも|此《こ》れも|全《すべ》ては間違えたる言葉遣いを教えし|土御門元春《つちみかどもとはる》のヤツが悪いと言うに……」 「|最大主教《アークビシヨツプ》。日本語の扱いに不自由しているというウワサはかねがねお聞きしていますが」 「すでに|倫敦《ロンドン》中の|風聞《うわさ》になりているの!?」 「お気を|鎮《しず》めて、今は|英国語《クイーンズ》で話しているのですよ。たとえ|貴女《あなた》様がどのようなひどい日本国言語を用いていた所で、この場に治いては一切関係ありません」 「……、」  こほん、とローラは|咳払《せむばら》いした。  チャールズ=コンダーは一世一代のフォローを入れているつもりなのだろうが、当のローラからするとほんのり|渋味《しぶみ》があるのは何故だろう? 「えっと……本題に入ってもよいかの?」 「もちろんです」  気を取り直して、彼女は話を先に進めようとする。  チャールズも流れるように後に続いた。 「報告書にも書きましたが、当館が保持しているレプリカの『|刺突杭剣《スタブソード》』。そのオリジナルは元元存在しなかったと予想されます。考古学上では時折報告される事例なのですが、いわゆる、伝承が交差した[#「伝承が交差した」に傍点]、といった所でしょうか」 「交差した、とは?」  ローラはゆっくりと尋ねた。  大英博物館の持っ考古学という観点は、オカルト一辺倒のイギリス清教とは異なる切り口の意見を見せてくれる、貴重なブレインだ。 「はい。報告を受けた事はありませんか。例えば……そうですね。ナスカの地上絵や、イースター島のモアイ像、本国ではストーンヘンジなどが該当しますが……歴史の中には、何故作製されたのか目的が不明な物品を発見してしまう時があります」チャールズは、闇の中で身を低く低く折り、「すると妙な話なのですが、それらが作製された理由を、後付で勝手に作ってしまう。|根《ヘヤ》拠の不足した伝承や神話だけが雪ダルマのように増殖していく訳です。|聖母様《マザーマリア》の肖像画などが、一番分かりやすい例かと思われますが」  ふむ、とローラは|相槌《あいづち》を打つ。  聖母マリアの肖像画は、(一神教の十字教の公式では一応控えるよう通達されているものの、実質的には大人気な)聖母崇拝の代表的な『奇跡のアイテム』だ。初期の|頃《ころ》は『聖母の肖像画が涙を流す』程度の話だったのが、時が|経《た》つにつれて『触れただけで傷が治る』『かざしただけで|悪霊《あくりよう》が消える』など、次々と新たな『伝承』を乱発拡大させていった逸話を持つ。ただの『偶像の理論』だけで説明できる範囲を超えており、信仰上の問題はどうあれ、史実としては受け入れ|難《がた》い話だろう。 「つまりは、かような話なの? 元々、ローマには大理石によりて作られし珍妙な剣があった。しかしてローマ正教は、|誰《だれ》がいかなる目的で作りた物かは分からぬため、自らが手前勝手に『こうに違いない」と決め付けてウワサし合いたるのが、伝承・文献に残りてしまった、と」 「はい。しかし考古学の視点から報告しますと、これは悪意のある行いではないかと。元々、人は論理の|他《ほか》に想像力を働かせて思考する生き物です。今回の『|刺突杭剣《スタブソード》』以。外にも、世界中で同様の事例は報告されていますし、一方的にローマ側をお責めになるのは……」  チャールズが言うのも無理はない、とローラも思う。  そもそも十字教全体にも、それは当てはまるのだ。元々は『神の子』が自分のロで説法していた内容が、使徒の手によって書き記された事で聖書が生まれ、その聖書の解釈の仕方によって意見が分かれ、やがては国の風土や民族の事情などを汲み取り、様々な宗派へと発達していった。それが今日の十字教教会世界の笑情であり、|旧教《カトリツク》も、|新教《プロテスタント》も、イギリス清教も、ローマ正教も、ロシア成教も、信仰の中心核となる『聖書』そのものに違いはない。国によって使用言語が異なるものの、「イギリス清教専用に内容がアレンジされた聖書』などというものは存在しないのだ。  それでも、これだけ多種多様の考え方が生まれ、信仰は分化していく。  だから、こうした事態そのものは歴史的に珍しくもない訳だが、 (……|或《ある》いは、ローマ正教が意図的に『|刺突杭剣《スタブソード》』の伝承を使いて真実を隠したるとしたら。いやいや、それこそ単なる|憶測《おくそく》の域、か)  ローラは首を横に振った。  とにかく今ここで確実に断言できるのは、「|刺突杭剣《スタブソード》』という|霊装《れいそう》の話は人々が勝重に広めた伝承によって生まれたものに過ぎず、始めから存在しなかった、という事だけだ。  あの大理石の剣が何のために作られた物かは彼女にも分からないが、少なくとも『切っ先を向けただけであらゆる聖人を確実に殺す』といった|馬鹿《ばか》げた効果はないのだ。  だとすると、学園都市で進められようとしていた取り引きの重要性も格段に落ちる。やれやれ、とローラは肩の力を抜いて、 「して、そのハタ迷惑な大理石の剣の、本来の伝承は|掴《つか》めたるの?」 「はい。雪ダルマ式に伝承が交差しているため、はっきりとした確証はないのですが、おそらくこの記録が正確なものだと思われます」  おや、とローラは首を|傾《かし》げる。それは書類にはなかった情報だ。  やはり|魔術的《まじゆつてき》な視点だけでなく、考古学という『一般』の視点も重要だな、と彼女は適当に考えていたが、 「こちらの一品は、そもそも『剣』ではありません」 「なに?」  ローラは不審そうに|眉《よゆ》をひそめた。|闇《やみ》の先で、大英博物館の保管員が、レプリカの「|刺突杭剣《スタブソード》』を持ち上げたのが分かる。黒い闇の中、奇妙に白く浮き上がった大理石の剣を、彼は逆さにして[#「彼は逆さにして」に傍点]、 「十字架、ですね。現地では『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』と呼称されていた物品のようです」 「ペ……ッ!?」  その|瞬間《しゆんかん》、ローラ=スチュアートは呼吸が止まるかと思った。 「ペテロの十字架だと!?」  ピエトロは一二使徒の一人、ペテロの別名だ。十字教に詳しくない者でも、バチカンにある『|聖《サン》ピエトロ大聖堂』という名前ぐらいは聞いた事があるだろう。名実共に世界最大宗派ローマ正教の心臓部たる巨大教会の事だ。  そしてペテロの十字架というのは、この聖ピエトロ大聖堂、ひいてはローマ・バチカン全域の歴史に深く|関《かか》わる、十字教全体の中でも一〇本の指に入る最大クラスの|霊装《れいそう》の事だ。  その危険度は『|刺突杭剣《スタブソード》』———距離や障害物を問わずあらゆる聖人を|一撃《いちげき》で|葬《ほうむ》る霊装などとは比べ物にもならない。  |最大主教《アークビシヨツプ》が出した突然の大声に、大英博物館の保管員は不思議そうな顔をしている事だろう。 無理もない、チャールズはあくまで考古学の権威であって、|魔術《まじゆつ》には|疎《うと》いのだ。自分の口から出した名前がどれほどの|破壊力《はかいりよく》を秘めているか、分からなくても仕方がない。  しかし、ローラは違う。  魔術の世界に、そして十字教の世界に精通しているからこそ、事態の深刻さが理解できる。彼女はもはや控えているチャールズなど意識にも置かず、己の思考に没頭していく。 (まずい。なれば、|奴《やつ》らの交わしたる『取り引き』の意味が根本より異なりてくる。もしも奴らが本気で『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』の『取り引き』を、かの学園都市で行うと言うならば———) 『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』。  歴史的には存在していると言われているものの、今の今までローマ正教が一度たりとも公開を許さなかった、直接『神の子』が関わっていない聖遺物としては史上最高規模の、まさしく『伝説』の霊装。書物に記された通りの効果があるとすれば、 (———『取り引き』の終了と共に、学園都市は崩壊せしめる。いや、それ以上の事が起こりけるわよ[#「それ以上の事が起こりけるわよ」に傍点])  口の中で|眩《つぶや》いて、ローラは|唾《つぱ》を飲み込んだ、  それでいて、彼女の顔には、壮絶な笑みが浮かんでいた。  目まぐるしく回る状況の中、それをどう乗り切れば自分にとって一番の利益になるのか、それを考えながら。      3 「『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』……。こっちの言葉ではペテロの十字架、といった所か。まったく、なんて話だ」  ステイル=マグヌスは携帯電話で報告を受けた後に、ポツリと|眩《つぶや》いた。  場所は自律バスの整備場からほんのわずかに離れたオープンカフェだ。パラソルのついたテーブルが一〇脚ほどあ。り、その一つを彼が陣取っている。|他《ほか》の席には|上条当麻《かみじようとうま》と、ようやくオリアナの|昏倒《こんとう》術式から回復した|土御門元春《つちみかどもとはる》が座っていた。  テーブルには何も載っていない。注文を待っている訳ではなく、その場の全員が何かを飲み食いするような気分ではないだけだ。 「なぁ。そのペテロの十字架ってのは何なんだ? 不思議物質ペテロで作った十字架って意味で合ってんのか?」 「ペテロは人名だ間抜け。一二使徒の一人で、主から天国の|鍵《かぎ》を預かった者だと伝えられている。しかし、ここで重要なのはそっちの神話ではなく、別の伝承だよ」 「別の?」  上条がさらに問いかけると、まだ少しぐったりしている土御門が答えた。 「ペテロさんってのは、あれだぜい……。教皇領バチカンの所有者なんだよ。いや、厳密にはペテロの遺産である広大な土地の上に教皇領バチカンを作った、ってトコかにゃー」 「バチカンって……あの、なんか世界で一番小さな国とかってヤツか?」  上条が首を|傾《かし》げると、ステイルは|鬱陶《うつとう》しそうに|煙草《タバコ》の煙を吐いて、 「『|バチカン市国《Vatican City State》』という名前は、一九二九年にラテラノ協定で決められたもので、それまでは『ローマ教皇領』と呼ばれていた領土だけどね。あと、最初から小さかった訳じゃない。サイズは時代によっても異なるが、最盛期にはローマを中心としてイタリア中部に四万七〇〇〇平方キロメートルにわたって広がっていた。イタリアは戦国時代の日本みたいに内部のいざこざがあったから、イタリア全土の統一に合わせて少しずつ削られていっただけさ」 「で、そこで問題となるのが、どうやってローマ教皇領を作ったか、ってトコ。ペテロさんの遺産である広大な土地に、ローマ正教はまず最初に何をやったのかという部分ですたい」  は? と上条は間抜けな声を出す。  みんなで荒地でも耕したんだろうか、とか適当な事を考えていたのだが、 「墓を建てたんだよ。ペテロの遺体を埋めて、十字架を立てて、な」  |上条《かみじよう》はギョッとした。  ペテロの十字架とは、ペテロさんのお墓に立てられた十字架、という意味だったのだ。  顔色が悪くなった上条だが、|土御門《つちみかど》は、構わず続ける。 「この地にはペテロさんが眠ってるんで、教会はその眠りを妨げないように遺産の管理ともども頑張ります、ってのがローマ正教の意見ですたい。元々はペテロさんの眠ってる真上にコンスタンティヌス帝が聖堂を贈呈・建設したのが始まりらしいが、ルネッサンスの際に愉快なインフレが起きて大改築された。それが、ミケランジェロが設計した今の|聖《サン》ピエトロ大聖堂———名実ともに世界最大の教会にして、死者の上に建つ聖域さ」  実際にペテロが死んだのは一世紀、聖ピエトロ大聖堂が完成したのは四世紀、ローマ教皇領をフランク国王から贈呈されたのは八世紀と、かなり時代に差はあるものの、やはり一番最初のきっかけはペテロの死と、その墓を作った時であるという話だった。  が、説明された所で、上条にはいまいち事情を想像しにくい。 「うーん……それってあれか。偉い人を|奉《たてまつ》ってる建物とか、そんな感じなのか?」 「どうかにゃー。裏を返せば『聖人の死体を利用して新しく建てる教会の権威を補強した』とも言えるんだぜい」  それでは死者の眠りを守っているのか、遺体の収められたお墓を観光資源にしてしまっているのか、どちらとも言えないような気がする。 「なんか……少し抵抗がある話なんだけど。ローマ正教ってのは、そこまでやっちまう宗派なのか?」 「あん? この程度の事ならどこでもやってるぜい。例えばイギリスでも聖トマス=ベケットってな大司教がいたんだが、コイツは一一七〇年一二月二九日、ある教会で『王室派』に暗殺されている。この教会ってのがカンタベリー寺院———イギリス清教総本山ってトコだ」  土御門はそこまで告げると、一度言葉を切った。  ニヤリと笑って、 「それまでは首都ロンドンから離れた地方の大聖堂だったんだが……お偉いさんの死と共に、一気に総本山へと格上げされたんですたい。ベケット大司教暗殺の件が逆に『王室派』への反感を募らせ、結果として『王室派」は教会の独立権を認めざるを得なくなった事から———イギリス清教始まりの地、なんて呼び方もされてるほどだぜい。聖人の眠る場所[#「聖人の眠る場所」に傍点]、ってのはそれだけでデカイ効果があるんだよ、カミやん」  上条にはあまり良く分からない話だが、どんな形であれ、偉い人が|関《かか》わった教会というのはそれだけで価値が上がるものらしい。 「……、で。オリアナが運んでたのは『|刺突杭剣《スタブソード》』じゃなくて、そっちの『クローチェなんとか』だったんてんだろ。それってやっぱり危険な物なのか? それとも美術品みたいに、変なレア価値がついてんのか?」 「どちらも、と言いたい所だけど、僕|達《たち》が気にするべきは、もちろん前者だ」ステイルは|忌《いまいま》々しそうに煙を吐き、「さっきも言っただろう? ローマ教皇領は、広大な土地———というか、厳密には空間にだが、『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』を立てた所から始まった、って。なら、逆も言えるんだ」  逆?と|上条《かみじよう》が尋ねると、 「ああ。つまり『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』を立てた|場所《エリア》は、漏れなくローマ正教の支配下に置かれる。それがこの学園都市であっても例外はない」  ちょ……ッ!? と上条の言葉が詰まる。  |土御門《つちみかど》は苦い声て、 「元々、「|刺突杭剣《スタブソード》」には「竜をも貫き地面に|縫《ぬ》い止める剣」って、いわくがあった訳だが」彼は一度呼吸を止めて、「|翼《つばさ》を持つ巨大な存在であり、眠れる財宝の守護から私欲の|虐殺《ぎやくさつ》まで行う『竜』とは、つまり神に仕える『天使』と身を|堕《お》とした『|悪魔《あくま》』の隠語って訳だにゃー。『竜を地面に|繋《つな》ぐ』ってのは、『この大地を天使に守護してもらえるような聖地に作り変える』って意味でもあったんだろうぜい。……くそったれが」  上条は息を|呑《の》む。  質問すべき事はたくさんあるはずなのに、言葉が|上手《うま》くまとまらない。 「ちょっと待った! 支配って何だよ。あいつら、ここで一体何をしようとしてるんだ!?」 「バチカンって国は、その内部全体が巨大な教会になってるようなものなんだよ、カミやん。あの内部は空間がおかしくなっててな、何をやってもローマ正教にとって都合が良くなるように[#「何をやってもローマ正教にとって都合が良くなるように」に傍点]、幸運や不幸のバランスが捻じ曲げられてしまうんだ[#「幸運や不幸のバランスが捻じ曲げられてしまうんだ」に傍点]」  土御門の説明だけでは、上条には理解できない。  続けてステイルが、 「具体的に言えば、バチカンという範囲内に、指向性のある魔力が充満しているんだ。それによって、常にローマ正教にとって都合良く話が進むようにできている。言ってしまえば、磁石を使ってカジノのルーレットでイカサマをするようなものだ。本来の玉の動きを無視して、好きな番号に入ってくれる」  そう告げられても、上条にはやはり理解できない。  だが、『|誰《だれ》かの都合の良いように進む|魔術《まじゆつ》』というのを、彼は知っている。 「それって、あれか? あの|錬金術師《れんきんじゆつし》みたいに、自分の思った事が|全《すべ》て現実化されるとかっていう感じなのか?」  アウレオルス=イザードという男がいる。  彼は錬金術を極めた結果、『自分が考えた事を全て現実化させる』術式を編み出していたのだ。それ|故《ゆえ》に、彼は自分の中にある『疑念』に押し|潰《つぶ》されてしまった訳だが……。 「いや、『|黄金練成《アルスリアグナ》』ほど、人間の意志を|汲《く》み取ってはくれないね。あくまで『ローマ正教全体にとって都合の良い方向へ、自動的に導いていくだけ』の術式だ。しかし、そんなものを学園都市に立てたらどうなると思う?」 「どうなるって、言われても……」  学園都市が、ローマ正教の都合の良いように動く、という事か?  思い浮かぶのは漠然としたイメージだけで、|上条《かみじよう》には具休的な想像が追いつかない。とりあえず、頭に浮かんだ事をそのまま言ってみる。 「えっと……ローマ正教にとって都合が良くなるんだよな。じゃあ、学園都市にローマ正教徒がやってきたら、そいつがやたら幸運になったりとか?」 「ま、そうだね。『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』の効果が文献通りなら、何も悪い事ばかりが起きるという訳じゃない。この街に足を|踏《ふ》み入れたローマ正教徒は、ギャンブルで何度大勝負に出ても|何故《なぜ》か勝ち続けるだろうし、建物が爆弾で吹き飛ばされても傷一つ作らずに済むだろう。それこそ、不自然なぐらいにね[#「不自然なぐらいにね」に傍点]。さらに」  ステイルは皮肉げに唇の端を|歪《ゆが》めて、 「『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』はローマ正教徒以外の人間も救ってくれる。ローマ正教徒がギャンブルで勝ち続ければ、当然負ける人間が出るだろう? しかし、『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』は負けて良かった[#「負けて良かった」に傍点]、という状況を作ってくれる。爆弾にしても同じ。爆発によって建物が崩されても、やはり|誰《だれ》も致命傷は負わない、みんな無事で良かった[#「みんな無事で良かった」に傍点]、という幸せな状況を作ってくれる訳だ」 「???」  上条は首をひねった、  ステイルの言っている事が、全部正しいのなら、 「それって、みんなが幸せになるって事だろ? だったら何も問題ないじゃねーか」 「大有りだ」  吐き捨てるように、彼は言った。 「良いかい、そもそも『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』なんてものを仕掛けなければ、ギャンブルで負ける人間はいなかったし、ローマ正教徒を|狙《ねら》った爆弾だって設置される事はなかった。一見みんなを幸福にしているように見えるが、実は『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』はしっかり周りに重荷を背負わせている。それも、目に見えない形でね」  テーブルの上にぐったりと上半身を預けた|土御門《つちみかど》が、先を続ける。 「実は十字教の歴史の中でも、こういう幸福のすり替え[#「幸福のすり替え」に傍点]は割と|頻繁《ひんぱん》に行われているんだにゃー。 例えば聖マルタン。イギリス清教読みでは聖マーティンか。コイツは割と愉快なエピソードを持ってる。彼が十字教布教のため、異教徒の古代神殿をぶっ|壊《こわ》してご神木を引っこ抜こうとした時の事だにゃー。十字教徒なんかになりたくない異教徒の農民|達《たち》は最後の抵抗として、『あなたが本当に神様に守られているのなら、今からご神木を切り倒すから受け止めてみろ。本当に神様に守られているなら死なないはずだ』と告げたんだぜい」  |普段《ふだん》はチャラチャラしている|土御門《つちみかど》だが、その口からスラスラと十字教の神話が告げられる。 やはり、クラスメイトの|上条《かみじよう》にとってはあまり|馴染《なじ》めない風景だ。 「これを受けた聖マーティンは、倒れかかってくるご神木に対して、胸元で十字を切る。するとアラ不思議、ご神木は反対側に倒れていき、あわや異教徒の農民|達《たち》を押し|潰《つぶ》す所だった。主の奇跡は本当にあったのだ、と農民達は感動して十字教に改宗した訳だが……これっておかしくねーかにゃー? だって、不思議な力を使って農民のいる方にご神木が倒れるように方向転換させたのは聖マーティン本人だぜい。もっと安全な場所に倒せたと思うし、そもそもご神木ってあっさり倒して良いモンなのかにゃー? っつか、何で感謝されてんの……?」 「一応は、反対側に倒れたご神木は異教徒を殺さなかった。これこそ主が与えた慈悲であり、改宗のチャンスを残された農民は皆幸福である[#「改宗のチャンスを残された農民は皆幸福である」に傍点]、との事だけどね。|善《よ》きにしろ|悪《あ》しきにしろ、彼らの歴史や伝統、精神文化などが丸ごと潰されたのは間違いないかな」  何だそれは、と上条は思う。  確かに幸福は与えられている。しかし、それでは『何かが起きたから幸せ』なのではなく、『たとえ何が起きても幸せだと感じるように』なっている気がする。  土御門は、ベタッとテーブルに張り付いたまま顔だけ上げて、 「このやり口は心理学でもある程度の効果が認められてるにゃー。まず最初に、絶対に実現不可能な『要求A』を出し、そんな事はできないと|懇願《こんがん》された所で、本来の『要求B』を出す。すると、最初っから『要求B』を出すよりも、|遥《はる》かに要求が通りやすくなるって結果が出てるんだぜい。『Aに比べればBの方がマシ。良かった良かった』ってにゃー。特定の手順を|踏《ふ》む事でマイナスとマイナスの|天秤《てんびん》を操り、幸福の|相対価値《レート》を引き下げてるって訳ですたい」  ロの端で|煙草《タバコ》を上下に揺らしながら、ステイルは続けて言う。 「『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』はそれら神話上の心理効果も利用しているという事だ。何があってもローマ正教の都合の良いようにコトが進み、本来そのせいで理不尽な要求を突きつけられているはずの周りの人間も、何故かそれを納得して受け入れてしまう[#「何故かそれを納得して受け入れてしまう」に傍点]。……まさしく、ローマ正教にとっては極めて居心地の良い『聖地』だろう?」  彼ら|魔術師《まじゆつし》の言葉が、じわじわと上条の頭に入り込んでくる。  あまりにもスケールの大きな話は、じっくりと時間をかけて、ようやく少しずつ理解できるようになってくる。 「ちょっと待てよステイル。その『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』ってのを取り引きして、オリアナ達は具体的に、一体何をしようとしてるんだ?」 「世界を二つに分けると、科学サイドと魔術サイドに分かれるはずだ。今はちょうど、バランスは半々に保たれている訳だけど」  ステイルは簡単に答えた。 「その内科学サイドの長が学園都市だね。さて、この学園都市が、全面的にローマ正教の|庇護《ひご》に治まってしまったら、世界のバランスはどうなってしまうと思う?」  あ、と|上条《かみじよう》は思い至った。  ただでさえ世界の半分を占めている科学サイドが、|魔術《まじゆつ》サイドの『どこかの組織』の下についたら、「科学という世界の半分+魔術にある自分|達《たち》の組織力』で、確実に世界の五〇%以上を手中に収められるのだ。後は多数決の単純な理屈で、世界をどうとでも動かせてしまう。  まして。  それが、十字教の中でも最大宗派のローマ正教となれば。 「科学と魔術の両サイドから攻められれば、『どちらか片方の世界』に属しているだけの組織や機関では|太刀打《たちう》ちできないのさ。これは腹と背を同時に|殴《なぐ》られているようなものだ。世界のパワーバランスは、|完壁《かんぺき》にローマ正教の一極集中となってしまうだろうね」  ローマ正教は、『具体的にどうやれば学園都市を手中に収められるか』は考えなくても良いのだ。「|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』を学園都市に突き刺せば、後は|全《すべ》て『ローマ正教の都合の良いように』学園都市の方が動いてくれるのだから。  具体的には、何が起きるのだろう。  学園都市統括理事会が突如としてローマ正教の庇護に入ると決議してしまうか。  学園都市全域が経営不振に|陥《おちい》り、スポンサーとしてローマ正教の支配を受けるか。  あるいは、学園都市そのものが一度|木《こ》っ|端微塵《ぱみじん》に吹き飛んで、その復興再建を日本政府ではなくローマ正教主導で行うという話がくるか。  どんな形になるのかは分からないが、どんな形であってもローマ正教にとって最も『都合が良い』展開になるのは間違いない。そして同時に、学園都市の|誰《だれ》もがその結果に疑問を抱かず納得する。  どんなに理不尽な要求でも、どんなに不条理な重荷を背負わされても。  誰もが幸せしか感じられない世界ができあがる[#「誰もが幸せしか感じられない世界ができあがる」に傍点]。 「じゃあ、オリアナ達の言っている取り引きっていうのは……」 「ああ。『|刺突杭剣《スタブソード》』だの『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》だのといった、|霊装《れいそう》単品の取り引きじゃない。「ローマ正教の都合の良いように支配された」———学園都市と、世界の支配権そのものだろうさ」  ステイル=マグヌスは、大きく深呼吸した。  口の端にある|煙草《タバコ》が、酸素を吸ってオレンジ色の光を強くする。 「運び屋のオリアナ=トムソンと、送り手側のリドヴィア=ロレンツェッティ。彼女達の|他《ほか》に、もう片方の受け取り先が分からなかったのは当然さ。———この取り引きには、他の誰も|関《かか》わっちゃいなかった。ロシア成教が怪しいなんて話もハズレさ。 ローマ正教が自分で自分に送るだけのものでしかなかったんだから[#「ローマ正教が自分で自分に送るだけのものでしかなかったんだから」に傍点]」  彼は一度だけ 言葉を切ると、最後の一言、こう告げた。 「止めるよ、この取り引き。さもなくば、世界は|崩壊《ほうかい》よりも厳しい現実に直面する事になる」  声に、|上条当麻《かみじようとうま》と|土御門元春《つちみかどもとはる》は|頷《うなず》いた。  たった三人で何ができるかなんて分からない。  オリアナ=トムソンや、その背後にいるリドヴイア=ロレンツェッティに必ず勝てるなんて保証はどこにもない、  それでも。  彼女|達《たち》が学園都市の人間に、都合の良いように|全《すべ》てを押し付けてしまえば、自分達ローマ正教が世界の支配権を得られるなんていう幻想を抱いているのなら。  ———その幻想は、必ずこの手で殺さなければならない。      4  上条|刀夜《とうや》と|詩菜《しいな》の二人は街を歩いていた。  時刻は午後一時過ぎ。分厚いパンフレットに書かれている予定表ではとっくにお昼休みに入っているはずだったが、今でも競技を続けている所もあるらしい。この辺りの予定の前後が、|大覇星祭《だいはせいさい》の運動会らしい一面でもある。オリンピックやワールドカップなどの国際競技の場合はもっとスケジュールがカッチリと固まっているはずだ。  刀夜は腕をまくり、よれよれになったワイシャツの|皺《しわ》を軽く伸ばしながら、 「さて、と。母さん、少し遅くなってしまったがお昼ご飯の場所取りをしよう」 「あら。そうねぇ」  詩菜はお|嬢様《じようさま》っぽい|鍔広《つぼひろ》の帽子を|被《かぶ》り直しつつ、 「……どうも、さっきから当麻さんの姿が見えないような気がしていたんだけど。本当にあの競技の中にいたのかしら?」 「まあ、あれだけの人数が一つの種目でぶつかり合ってしまっては、見つからない場合もあるだろうさ。その辺は当麻と合流してから武勇伝を聞かせてもらえば良い。何はともあれ、とにかく場所取りだよ場所取り」  刀夜がお昼ご飯を食べる場所を探しているのは、何も彼が特別お|腹《なか》がすいているからではない。  大覇星祭が、普通の運動会と違う点の一つとして、『場所取り』というものがある。  通常の運動会と違い、種目によって競技場が転々とする大覇星祭では、一度場所を取ったらそれで終わり、とはならない。自分の子供が参加する種目に合わせ、親の方も次から次へと場所取りを行わなければならないのだ。  当然、それはお昼ご飯でも例外ではない。種日が終われば選手も観客も競技場から追い出されてしまうため、『お昼ご飯を食べるだけの席を確保』しなくてはならない。  学園都市の住人は二三〇万人、外部からの見学者はそれ以上となる。それだけの人聞が、食料と場所を求めて一斉に動くとどうなるか……|普段《ふだん》、学食や購買などの混雑を知る者なら想像は|難《かた》くないはずだ。  |刀夜《とうや》は、オールバックの頭をあちこちに振って辺りを見回し、 「しかし、本来のお昼休みは一二時スタートだからね。競技が長引いてしまったおかげですっかり出遅れてしまって、正直、場所取り合戦には出遅れた感があるなぁ」 「あら。こちらはお弁当だから、大して場所を選ぶ必要性はないと思うのだけど」  |詩菜《しいな》は腕に引っ掛けている|籐《とう》のバスケットに目を落としながら、楽しげに言った。それを見た刀夜は|眉《まゆ》を寄せて、 「母さん、そんなんじゃ|駄目《だめ》だ。せっかく母さんが作ったお弁当なんだから、最も|美味《おい》しく食べられる場所を探そう。その方が|当麻《とうま》だって喜ぶだろうし、私は確実に喜ぶ。願わくば母さんにも喜んでもらえるとありがたいけど」 「あらあら、刀夜さんたら」  詩菜はニコニコと|微笑《はほえ》みながら、自分の|頬《ほお》に片手を添えた。ネクタイを片手で|緩《ゆる》め、あちこち忙しく首を回して場所を探している刀夜は、彼女の笑みと視線に気づいていない。 「……ふむ。この辺りはお店もベンチもほとんど取られてしまった後みたいだ。こちらで穴場を探すという手もあるが、それならいっそ当麻と連絡を取ってアドバイスを受けるという事も———っと、おや?」  長考していた刀夜は、ふと人混みの向こうから、見覚えがある人間がこちらへ歩いてくるのを発見した。  開会式の前に出会った、大学生ぐらいの女性だ。  今は、彼女の|隣《となり》にもう一人、中学生ぐらいの少女が並んで歩いている。陸上選手のユニフォームのように本格的なランニングと短パンを着た、茶色い髪が肩の所まで伸びている女の子だ。確か、『ミコト』と呼ばれていたような気がする。  彼女|達《たち》は仲の良い姉妹なのか、大きな声で何やら言い合っている。 「あらー。|美琴《みこと》ちゃーん、ひょっとしてパパが来れなくなってムクれちゃってる? 私だって大学に無理言って一週間分の休学届け受理してもらったんだから勘弁してよー」 「……別に。っつーか今、仕事でロンドンにいるんでしょ? 無理して青ざめた顔でやって来られた方がよっぽど|辛《つら》いわよ」 「うんうん。その不機嫌そうな声を聞いたら、パパ喜ぶんじゃないかしら。でも美琴ちゃんにとってはアレよー、パパ来なくて正解だったかもしれないわよー?」 「??? 何で?」 「だって|美琴《みこと》ちゃん、好きな男の子がいるんでしょ? これ聞いたらきっとパパが面白い反応見せてくれるわよー」 「ぶっ!?」  女子中学生がいきなり噴き出した。それから顔を真っ赤にすると、頭一つ以上は背の高い女子大生の顔を思い切り見上げて、 「な、なななな何をいきなりぶっ飛んだ|台詞《せりふ》吐いてんのよアンタ!!」 「えー? 違うのーん? あの黒くてツンツンした髪の男の子が気になって夜も眠れなくて、思わずベッドの中で|枕《まくら》を抱き|締《し》めちゃうんじゃないのーん?」 「ちがっ、違うわよ! どういう理屈でそんな結論に達するのかしら! って、そもそも何でアンタがあの|馬鹿《ばか》の事を知ってんのよ!?」 「気になるなーん。『あの馬鹿』とか親しげな悪口が気になるなーん。美琴ちゃんが罰ゲームで何をお願いするのか気になるなーん。ほうら、パパ来なくて正解だったでしょ? で、結局どうなのよ美琴ちゃぁん♪」 「罰ゲームって……アンタどっから聞いてたの!? ええい、腰をクネクネさせてないでさっさと答えなさい!!」  パチパチと前髪から肩口から青白い火花を散らしている女子中学生を見て、|刀夜《とうや》は改めてここが学園都市なんだなあと感心した。息子の|当麻《とうま》は|無能力者《レベル0》なのであまり意識していないのだが、ここは映画や漫画に出てくる超能力者さんの街なのだ。 「今夜、競技が終わった後にナイトパレードがあるみたいだけどどうするのよ美琴ちゃん。あっ、それともその|電撃《でんげき》を|上手《うま》く使って二人だけのイルミネーションとか演出するつもり!?」 「ぶっ!? あ、アンタのセンスって本当に最悪よね! だ、だだだ大体、別にナイトパレードがあったって、そんなの私には、何の関係もないじゃない……」  彼女|達《たち》にとっても『超能力』は身近にあるもので、その事自体に対していちいち|驚《おどろ》いたり引っかかったりはしない。この辺りの空気が、学園都市特有なんだなと刀夜は思う。  と、ぽけーっとしていた刀夜に、女子大生と女子中学生の方も気づいたらしい。女子大生の方がパッと顔を輝かせて、 「あーっ! さっきはどうもありがとうございました。むかげでこの通り、美琴とも合流する事ができまして……」  女子大生に対して、女子中学生の方は|眉《まゆ》を寄せて、 「……ちょっと、この人達ってどちら様? また仕事先の人?」 「んふーん♪ 美琴ちゃんの気になる男の子の親御さんだよー。ほら美琴ちゃん、アピールアピール!!」 「うるさい|黙《だま》れだから違うって言ってんでしょ!!」  女子中学生は|噛《か》み付くように叫んだが、女子大生は全く気にせず、あっさりと受け流して、「そういえば、昼食はもうお済みですか? もしよろしければ、私|達《たち》とご|一緒《いつしよ》しません? 小さな喫茶店らしいんですけど、勝弁当の持ち込みも|大丈夫《だいじようぶ》みたいですよ。ね、|美琴《みこと》ー?」  ふむ、と|刀夜《とうや》は女子大生の意見を吟味する。  飲食店にお弁当を持参する……というのは、とにかく場所不足の|大覇星祭《がいはせいきい》では|咎《とが》められるような事ではない。|詩菜《しいな》のお弁当も、落ち着ける場所で大勢の人間と食べた方が|美味《おい》しいに決まっている。少なくとも|華奢《きやしや》な詩菜に、こんな炎天下のアスファルトを延々と歩かせるよりは、ずっとマシなはずだ。  だから刀夜は言った。 「良いですね。あと、こちらは一名増える予定ですが|大丈夫《だいじようぶ》でしょうか」 「全っ然オーケーというかむしろ好都合です。だよねー美琴ちゃーん♪」  ニコニコと笑いかける女子大生に、女子中学生は顔を斜めに傾けたまま、無言でバッチンバッチン青白い火花を散らしまくる。個性的な女の子だ、と刀夜は首を横に振って、それから詩菜の方へ振り返った。 「母さんもそういう事で良いかな———って、母さんがまたものすごい顔になってる……」  心の底からがっかりした顔で干円札や五千円札のような陰影を見せる詩菜の姿に、刀夜は思わず一歩後ろへ下がった。詩菜は、良く通るのに|何故《なぜ》か唇が全く動かない話し方で、 「もう、刀夜さんたらいつもこんなのばっかり。私にどうして欲しいのかしら。バスケットごとお弁当を投げつけて欲しいのかしら。あらあら。あらあらあらあら。|可哀想《かわいそう》に、全く関係のない|当麻《とうま》さんまでお昼抜きになっちゃうわよ?」  何でキレてんのーっ!! と刀夜はさらに後ろへ、ズザザザザ!! と勢い良く下がる。詩菜の言葉はあながちギャグとも言い切れない。何故なら彼女は、夫婦|喧嘩《げんか》の際はお皿だろうがDVDデッキだろうが、手元にある物はとにかく何でも投げつけてくる貴婦人だからだ。  そんなこんなで後ろ向きに距離を取った刀夜だったが、  それが災いしたのか、今度は背中に別の|誰《だれ》かがぶつかった。 「うわっと!! す、すみません!!」  振り返り、高速で頭を下げる|上条《かみじよう》刀夜の目にまず飛び込んできたのは、女性の大きな胸だった。近距離にいたため、頭を下げるつもりが|覗《のぞ》き込むような姿勢になってしまったらしい。  胸元から鼻先までの距離、およそ四ミリ。  刀夜はバッ!! と二倍速で顔を上げる。 「す、すみませんでした本当に申し訳ありませんでした! うあああー……一方その|頃《ころ》真後ろから迫り来る母さんの視線が痛い〜〜……ッ!!」  おそらくものすごい事になっているだろう背後の様子を確かめる度胸がないので、刀夜は改めて正面にいる女性と目を合わせる事になった。 「いえいえ、そちらこそお|怪我《けが》はありませんでしたか? ごめんなさい。こういった人混みにはあまり慣れていなくて」  それは、変則的で複雑な巻き髪状の、長い金髪の女性だった。  それは、白い肌に青い|瞳《ひとみ》の、西洋系の顔立ちをした女性だった。  それは、均整の取れた肉体を持ち、色気を熟知した女性だった。  チャリン、と金属の音が鳴る。  彼女の長い人差し指は、細い金属の輪に通してあった。直径二センチぐらいの小さな輪だ。輪には穴の空いた、板ガムを少し大きくした程度の四角い厚紙がたくさん通してある。暗記などに使う単語帳だ。  彼女は単語帳を、まるで|鍵束《かぎたぱ》のように|弄《もてあそ》びながら、 「お姉さんなら気にしていないから|大丈夫《だいじようぶ》———と言いたい所ですけど、年下|風情《ふぜい》が『お姉さん』はありませんよね」  では、と彼女は一言告げて。|刀夜《とうや》に背を向けた。  そのまま自然に人混みの中に紛れていき、そのまま姿が見えなくなった。あれほど|際立《きわぜ》つ容姿と、むせ返るような色気を振りまいておきながら、|誰《だれ》にも気づかれないように。  刀夜は、しばらく金髪の女性が消えた方角を見ていたが、 「あらあら。あらあらあらあら。刀夜さん? これはどうやったら目を覚ますのかしら。関節技程度では弱いかしら。あらいやだ、どうしましょう。私これから刀夜さんをうっかり夜空の星に変えちゃうかもしれないわね」 「ひっ……い、いや母さん違うんだよ私は決してあの女性の顔と胸と腰と脚に|見惚《みと》れていたとかそういう訳ではないんだよだからそのあれだつまり色々とごめんなさいでしたーっ!!」  言い訳が途中から謝罪に切り替わっている刀夜を見て、|美琴《みこと》は最後にポツリと一言|眩《つぶや》いた。 「……やっぱり親子なのね」  彼らは気づかない。  学園都市の内部で起こりつつある事も。  身近にいる少年が、それを止めるために街の中を走り回っている事も。  そして。  危機は、刀夜の鼻先四ミリにまて迫っていた事も。  安全な傍観者など一人もいない、常に危険を|孕《はら》む当事者|達《たち》しかいないこの街で、|大覇星祭《だいはせいさい》はさらに盛り上がりを見せていく。  |科学《オモテ》の意味でも、|魔術《ウラ》の意味でも。 [#改ページ]    あとがき  一巻ずつお付き合いしていただいている|貴方《あなた》はお久しぶり。  九冊もまとめてお買い上げいただいた貴方は初めまして。  |鎌池和馬《かまちかずま》です。  もう毎回毎回変化球と言っているような気がしますが、やっぱり今回も変化球なのです。何がどう変化球なのかは本編を読んでのお楽しみ、という訳で。  今回のオカルトキーワードは、かなり基本的な所を攻めています。|魔道書《まどうしよ》や|魔法陣《まほうじん》など、シリーズのこれまでの巻にも、さりげなく登場していたものばかりですね。  舞台となるのは|大覇星祭《だいはせいさい》———いわゆる超巨大規模の運動会といった感じですが、いかがでしたでしょうか。こちらは運動会なるものをすっかり忘れている身ですので、運動会ってどんな競技あったっけ? 今と昔では行われている競技にも差があるの? などと、やや悩みながら書いてみました。無事に運動会っぽさが出ているとありがたいです。  イラストの|灰村《はいむら》さんと担当の|三木《みき》さんには感謝を。この作品はお二人がいなければ確実に完成しなかったでしょう。これからもよろしくお願いいたします。  そして読者の皆様に感謝を。この作品は貴方|達《たち》がいなければ書き始める事すらできなかったでしょう。これからもよろしくお願いいたします。  それでは、今回はここでページを閉じる事にして、  次回もまた、貴方の手でページが開かれる事を析りつつ、  本日は、この辺りで筆を置かせていただきます。  で、ヒロインは|誰《だれ》だったの?[#地付き]鎌池和馬 [#改ページ] とある魔術の禁書目録9 鎌池和馬 発 行 2006年4月25日 初版発行 著 者 鎌池和馬 発行者 久木敏行 発行所 株式会礼メディアワークス 平成十八年十十月五日 入力・校正 にゃ?